秋月国奇譚
一代の傑物伊達晴朝の死後、嫡男の隆家が後を継いだが、若さゆえ血気に逸ったかれは乙倉晴宗との戦いで敗死してしまう。弟の信朝は未だ10歳であり、倉成の舵取りは朝倉氏教に委ねられるようになる。
ときを同じくして、帝国が対外戦争をおこなうということになり、倉成の面々が秋月国帝の名代として大陸に従軍することになった。そこで氏教が指導力を発揮、諸将は
「これはなかなかの技量じゃ」
と、感嘆したという。
摂政期23年8月、皇室家宰のカンタール死去に伴う撤兵。
カンタール死去後の政局を睨んだ氏教は天京院春見とつながりを持とうとする。具体的には春見のブレーンの1名である閑室長老とたまたま同郷であるという縁でかれをパイプ役として接触を図る。
翌年四月に不穏な気配を察した氏教は秋月国への帰還をやめて急遽春見宅に駆け付ける。春見はこれを
「氏教どの、老いたる身でよく来てくださった。ありがとうございます」
と、懇ろに労ってる。
氏教は主君の信朝、息子の氏景とともに帝都で年を越す。そうして摂政期25年を迎える。
その年の6月、ワカツ領主に不穏の動きありと、ワカツ征伐が始まる。大規模な動員であったが、氏教はフクロウ男爵らと協議し、秋月国の抑えを任される。帰国の前、氏教は代わりに氏景と信朝を従軍することを願い、許される。
「本来ならわたしが従軍すべきだと思うのですが……」
「そのココロだけ受け取っておきましょう」
氏教が参加していないからか、朝倉の私兵が中心の編成で、信朝は小規模な兵力でしかなかったという。
しかし、ここで氏景が逡巡した挙げ句、西帝国軍に加担してしまう。
結果として、この天下分け目の戦いは、西帝国軍が1日で大敗北してしまった。
「なんということだ……」
嘆く氏景は、落ち武者狩りに悩まされながら、帝都に逃亡した。
壮絶な敵中突破で帝都に逃れていた井ノ原維新から
「反撃に転じましょうにゃ」
と、共闘を誘われたが
「お気持ちはありがたいですが、もはやこれまでです」
と、氏景は自邸に謹慎することにした。
やがて、氏景は父や家臣たちが自分のミスのために、奔走したことを知る。
「申し訳ありません、父さん」
と、謝る氏景に氏教は
「よいよい、若気の至りとかいうやつだ」
と、笑った。
実際、氏教たちはこの失点を挽回するため、秋月国内の西帝国残党や大陸でフクロウ男爵の救援に向かうなど、死闘を繰り広げた。
その代償として、朝倉家の倉成執政の地位は盤石なものになった。言い換えると、本来主筋である信朝はますますお飾りとなってしまう。今日では信朝は詩人としての顔の方が知られている。
氏景当人は当時のことを
「陪臣の嫡子にすぎない身を好遇してくれたカンタールさまに報いんがため、西帝国軍に加担することにして、滅びようとも悔いはないとまで思い詰めていた。故に、そのことを許してくだされた春見さまの恩はなんとも言い難い」
と、述懐している。
このころ、あるものが井戸を掘らせたが、いくら掘っても水が出ず、地中から
「助けてくれわん」
という、声が聞こえたという。
「なにかしら?」
と、穴を通ると、突然、視界が明るくなった。
「わわわ」
と、ビックリした目の先には、輝くような青天の中、大きな宮殿と楼閣がある。怖くなって地上にでると、地上は何10年も経っていたということである。
メアリーは、皇国で銀行家一家の娘として生まれる。
家族といっしょにあちらこちらに転居していった彼女は、帝都の博覧会で絵画に触れて、画家を志す。
帝都で基礎を学んだのち、父の反対を押し切って、秋月国にあるサロンに向かい、以後は生涯秋月国在住であった。活動家でもあり、また皇国に秋月国の美術品の紹介・普及に努めた。
その作品は、母子などの日常の1コマを暖かい眼差しで描くことが多かった。
成富三厳は朝倉氏教に仕え、孫の氏光や主君と伊達信朝の剣法指南役である。剣をよく研究し、機略にも富めるものであった。
氏光は一生懸命に学んだが、ついに三厳に敵わなかったので、ある日、
「なぜ、そんなに強いのですか?」
と、訊いた。三厳は
「昔から、父が得たものを子に伝えるのは難しいといいます。この上を望むなら、ただ修業して、自ら成すしかありません」
と、答えた。
水賊は秋月国近辺の海域にいた海賊の通称である。主に秋月本島と凪島の間にある済島出身者が主体であったとかつては考えられたが、秋月本島や凪島、さらには大陸出身者がいたという。
済島は自然が厳しい島で、その住民、とりわけ海女さん等で活躍する女性たちは
『座ったあとには草も生えない』
と、ことわざに残ってるほど、強靭であったという。
秋月国首都にある『二宮工房』は、ぼうしパンがよく知られるパン屋さんである。店主曰く
「うちのぼうしパンを食べたら、他の店のパンなんざ食えねえよ」
琴似電鉄は秋月国南部の岡豊から琴似まで55・7キロメートルほどの岡豊線と、琴似から窪村まで23・6キロメートルの窪村線の2つを運営する鉄道会社である。愛称は『ことでん』。
十河(とがわ)駅は周囲を緑深い山と海に囲まれた無人駅で、好事家の間で人気だそうだ。
その駅には、1羽の黒いハトがときどき来る。その鳥に恋愛や追悼など、いろいろな思いをしたためた手紙を渡すと、何処かへと飛んでいく。手紙を渡した人はとても気分が軽くなったそうである。
ハトが何者か、どこからきてどこに向かうのか、誰も知らない。
さて、琴似電鉄はもともと倉成が資源財団のもとで小さな港町として発展する過程で、秋月国内の人員移動や物流のために生まれた会社である。設立当初は資源財団が筆頭株主であった。
秋月国岡豊にいつ建てられたかわからない(ご丁寧に日付等は削られている)1つの碑がある。そこにはこんなことが書かれていた。
『ココニテ、知ラレザル者、知ラレザル者ニヨリテ、殺サレタリ。○○○○、ソノ時代ノ謎。生マレハ不明ニシテ、秘密多キ死を遂ゲタル者ナリ。○○○○年○○月○○日』
従軍していた軍医の手紙。
『わが軍の兵たちにも、帝国のような服装をさせたいものだ。わが軍の多くは靴もシャツも持っていない。外套も擦り切れている。日中に着るだけでなく、夜も着たまま眠るからだ。外套の上に毛布を掛けて寝るのだが、その毛布は塹壕内でも使うので、ぐっちょりな濡れている』
下手渡は秋月国と帝国の境にある小さな地域で、高垣種善が派遣されて行政府が成立した。なぜ種善が派遣されたかというと、秋月国で官僚を勤めていた父の失策のための懲罰人事で、当然ながら治世は混乱を極めた。この混乱のなか、種善に代わって領土の受け取りという大任をはたし、小さいながらも政務を務める政庁の建築を担当するなど、体制作りに尽力したのが、高垣兵衛であった。
3代目の種恭は外交官、財政官僚として活躍したが、やがて秋月国を2分する争いが発生したとき、都へ行き、帝の恭順した。一方下手渡で代官を務めていた屋山外記という者が、政府と対立する同盟への加入条約に調印。この相反する行為が同盟の不信をかい、攻められてしまう。外記は領主不在のなか、同盟の攻撃に耐え、奮戦したという。
北宇井島は秋月島において、秋月国と帝国領の中継地点となる小さな港町である。名前の由来はオストという地域にあった宇井島の住民が移住して出来た街だからという。
高森島は土佐港の沖合にある人口100ほどの小さな島である。最高峰は高森山。
温泉や専門学校があるため、島民の大半はそれに関係しているという。割合は専門学校の教師と生徒が50、温泉旅館の従業員が20、その他の島民が30。
本来は漁業や牧畜、農業で細々となんとか存続していた島の近代化を果たしたのは、猫魔右衛門という一代で財を成した大富豪であった。かれが温泉を発見し、自分の持ってる企業や組織のために創った専門学校によって、観光客や若者がやってくるようになったのである。
また、山林を活かした開発だったので、遠足向けの登山や、サイクリングコースとしても著名である。
さて、高森山の麓に小さな碑がある。それにはこう書かれている。
この島の管理を任された小一右衛門家の4代目が主家である氏家から養子をもらうことになった。
「御当主の弟がやんごとない方に密通して生まれた子じゃ。内密にな」
「はあ」
実は、このころ4代目は実子を亡くしており渡に舟とかれは、実子に代わって子どもを育てることにした。
その子どもが5代目になると、かれは亡くなった子どものために碑を立てたという。
帝国に留学していた僧が、薬草が欲しいと考えて、3粒の種を隠しもった。
番ケンがそれを見てひどく吠え、問われた僧が否定すると、番のものは
「使えないイヌだワン」
と、叩き殺してしまった。僧は
「これはかわいそうだ」
と、遺骸を自身の郷里すぁる高森島へ持ち帰り、秘法で生き返らせた。
僧とイヌは、以後高森島の小さな庵で暮らしたという。
目土呂市は秋月国の北方にある、同国に2つしかない人口100万都市である。夏は涼しく、冬は雪が積もって寒い。
もともとは帝に仕えていた武衛義淳というものが、隠居する地として館を建てた場所が、徐々に発展していった都市であった。
巨大な港を有し、軍港としても民間用としても使用されている。良くあるのがアニマ用のタンカーを秋月国の名族の1つ大内家の蒸気軍艦が守っているという図である。
やがて、こういう海に面した地域特有の犯罪組織が蔓延って大内家と組んで街を支配していく。しかし、そんな街にも光はある。
暴漢が一般市民を路地裏で襲っている。助けはこない。それでも助けを求めた時
ドン!
と、轟音とともに少女が現れる。
「な、なんだてめえ」
と、誰何する暴漢に少女は答える。
「平和の使者よ
目土呂市には猫街という商店街型の地域がある。大戦期に大陸から逃げたり、強制含む労働者として来た猫や耳付きたちが造った街である。
その猫街にある料理屋がある。
そこでは麻婆豆腐や炒飯のようなチキュウにおける『中華料理』を提供する店であった。客から
「うわあ、本場の味だ。オレもどんなか知らねえけど」
と、言われて、店主は
「にゃあ、そうですかにゃ?まいったにゃあ!」
と、照れ笑いをしていたという。
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