エルゼと男たち
プレトリウス姉妹は一族の中では没落してしまった家系の出身で、曾祖父は穀物類への投機の失敗、祖父も投機に失敗し、父親のフリードリヒはやむを得ず軍人となった。
軍人となったフリードリヒは工兵隊の下士官として、帝国皇帝の戴冠式には近習として臨席するなどしたが、皇国との戦いで負傷し、右手に障害があったため除隊した。
その後、民政官として赴任したニューラグーンにてアンナという女性と出会い、3女をもうける。すなわちエルゼ、フリーダ、ヌーシェである。
このうちフリーダは作家のD・Hの生涯の伴侶として知られているが、本稿の主人公はその姉のエルゼだ。
エルゼはニューラグーンで幼少時代を過ごした。子どものころから知的好奇心が強く、女子の教育や職業を巡る制度や法律が作られ始めた時期で、彼女もそんな時代の空気を享受していた。女子高等中学校の上級課程を修了し、ニューラグーン郊外に造られた寄宿舎学校へ入学。そこで生涯の友シリシア・プラーズと出会う。
この時代、女性が大学で学ぶことはできず、エルゼの選択肢としては女性教師用のセミナールに通うことだけであった。そこで1年学んだエルゼは、語学試験に合格して、母校で教師として過ごす。このとき17歳。
それから3年して、法律が変わり、女性教師でも上級試験に合格すれば、高位の教育機関での教育資格を得ることが出来る。ただしそのために、専門教育課程を修了するか、聴講生として大学で数年間通学が必要であった。そこでエルゼはニューラグーンで教師をしながら、2年間の高等教育を受けることにした。そこでシリシアと旧交を温めつつ、エーミールという教授と出会う。
エーミールは同時代の社会科学全域に影響を持った自由主義的思想家で
「真理の探究者」
「哲学者としては政治家であり、哲学者としては研究者である」
と、評され、亡くなったときの記事では
「年長の方や専門の学者にとっては、かれは経済学者あるいはそうしたものだろう。しかし、わたしたち若い者たちにとって、かれとの出会いは、魔人のような個性を経験することを意味していた。かれは男たちに力を及ぼす者で、破壊的な憤怒の力、客観的な明晰さ、魅力的な優雅さを有していた。かれの発言すべては示唆にあふれており、生まれついてのカリスマにして、生来の優美な指導力を持っていた。そして、かれには禁欲的な厳格さにくわえて、悲劇的な諦念とある種の悲壮感があり、それは主体的な意志と感情による情熱を、必然性の法則へと従わせるものであった」
と、論じられる学者であった。
あるサロンでエーミールに出会ったエルゼは、すぐかれの講義を受講し、またエーミール夫人のマリーとも知り合って、夫妻の自宅にお呼ばれするようになる。マリーはエルゼのように受講生をしながら、労働や教育にかんする女性運動に寄与していた。
4年ほどして、エーミールがニューラグーン近郊にできた学園都市に教授として招聘されると、エルゼも転学する。エーミール夫妻とはさらに親密になってマリーはエルゼを
「プレトリウスちゃん」
と、愛称で呼んでいた。彼女に刺激されて、エルゼも女性運動に参加するようになる。
一方で、休みにはシリシアのもとへ行き、自転車の乗り方を習得したり、読書したりした。
そののち、エルゼは帝都の大学で2年ほど、博士号収得のために学ぶ。このときエーミールが関係各所に働きかけた結果、学位取得を条件に、修学後にニューラグーンの工場監督官という地位が用意された。
博士論文のために、官庁や図書館で調査を重ねてたエルゼは、そういうところでエーミールの弟アルフレートの知遇を得る。当時のかれは教授になるための論文を執筆していたのだが、エルゼに助言や支援を惜しまなかった。
エルゼが帝都で寓居していたのは、親戚のオズワルドの邸宅である。かれが外務省官僚だったので。エルゼも社交界デビューしたのだが、彼女は性格的にあんまり好きではなかった。しかし、そうしたところで、親戚で秋月国の調査で知られるフェルディナンドとも出会っている。
1年目の冬に、エルゼは帝都近くにエーミールの実家によく招待されたが、エーミールは母ヘレネ、弟のアルフレートにくわえて、のちに夫となるエドガーとの出会いがあった。
2年目の夏にエルゼ学園都市に戻ったのは、エーミールを指導教授として博士論文を提出するためである。大学入学資格者ではないエルゼが、正式な学生でない立場で論文を提出することは異例であった。
そして、エルゼの論文『専横的政党における労使法立法にたいする歴史的変遷とその動因について』は『最優等』という評価。あまりの贔屓に友人のマリーも、嫉妬を隠すことが出来なかったという。
ともあれ、エーミールの最初の女子学生エルゼ・プレトリウスは、その最初の女性学位授与者となる。
博士号を修得したあと、彼女はニューラグーン最初の女性工場監督官という官職についた。仕事はニューラグーンに6万名いるといわれた女性労働者の権利保護、つまり査察と違反行為の裁定である。
しかし、彼女はこの仕事を2年ほどしか勤めていない。学生時代からの付き合いであったエドガーと結婚したのである。
プレトリウス姉妹と結婚についてはこんなエピソードがある。
あるとき、父親のフリードリヒが娘たちに
「結婚したいと思うものと、お前たちは結婚してかまわない」
と、言った。ただし
「それが獣人、作家、
と、条件を付けた。しかし、皮肉にも3姉妹はそれぞれ禁じられた相手と結婚するのである。エルゼの場合、伴侶であるエドガーは獣人の商家出身で、帝都近辺に地所と建物を所有している身分だった。
かれは一度プロポーズしたが、断られていたので、脈はあったのだろう。その後も学園都市へ転学し、学位を修得していた。父が死去し、遺産を相続すると、エドガーは学者を目指す。エーミールたちと『社会科学・政治学論叢』を共同編集したりと活動していた。
ともあれ、その年の11月18日、エルゼとエドガーは結婚、博士号を持つ女性初の官吏であったエルゼは、家庭に入り、退職したのだった。
しかし、翌年の9月28日に長子フリーデルが誕生すると、次の年の秋にはもう子育てがエルゼに重くのしかかり始めた。1歳児を夫とメイドに任せたまま、里帰りしてしまう。
坐骨神経痛に悩む彼女はファルカーという整形外科医に相談するのだが、かれは以後5年近くエルゼの愛人となった。
エドガーがその関係を知っていたか不明である。
ファルカーと別れた次の年の初頭、エドガーとエルゼ夫婦がマリヤンポレという54万くらいのものたちがくらす大都会へえ数週間滞在したのは、エルゼの年来の親友であるシリシアに会うためである。シリシアは精神分析医であるというオットーというものと結婚して、ここマリヤンポレで暮らしていた。このオットーというのが曲者で、ケンカっ早い女たらしとして方々でトラブルを起こし、このときもトラブルで職場を追い出され、妻と子どものペーターと一緒にマリヤンポレに引っ越して来たという次第である。
しかし、ここで驚くべきことが起こる。この年の3月から8月までの半年、エルゼとオットーは愛人関係となり、12月24日にはエドガーとの子どもとしてオットーの子ども出産、名前は親友の子どもと同じペーターで、エルゼとシリシアは異母兄弟となる2人を互いに等しく愛す。さらにエルゼの妹フリーダもマリヤンポレに来て、彼女もオットーの愛人となった。
さて、オットーは父ハンスと対立関係にあったのだが、この時期はそれが最高潮に達して、オットーは警察に捕まり、病院に軟禁されてしまった。このときはさすがに各所から講義があり、開放されるも、シリシアとの子どもに唯一の相続権を与え、親権を自分に移譲しようとするほどであった。
この対立の原因は、ハンスが犯罪学の権威であり、司法の立場から体制を支えているように保守的なのに対して、オットーは
『性は、無限に続く内的葛藤だが、自分自身ではなく、性的なモラルという対象との葛藤である』
と、自著で書くように、自由恋愛を信奉するアナーキストであるからである。
このような思想のために、エーミールとマリー夫婦とも仲が悪く、エーミールは自分が編集している雑誌に論文の掲載を拒否していたりする。
しかし、ここでエーミールの変化をマリーは敏感に察した。彼女はニューラグーン州南方にある小さな港町コトルでエドガーとエルゼ夫妻と過ごしたときのことを日記に書く。
「かれは彼女を愛してる!友愛だけじゃなく、もっと情熱的に」
そのころ、エドガーはマリヤンポレで教師の職を得たが、エルゼと別居する。エルゼは子どもたちといっしょに暮らしたが、その家には定期的に新しい愛人であるアルフレートが訪問していた。エーミールの弟のアルフレートである。
当然、エーミールは激怒し、エルゼと疎遠になった。
しかし、エーミールはエーミールでミーナというピアニストと浮気していたりする。まと、同時期にシリシアを支援して、ペーターを学校に入れるようにしてあげたりと、エルゼとの繋がり自体はかすかに残っていた。
ときあたかも大戦期のいくつかある戦争の1つが勃発しており、エーミールは予備役、エルゼは女性奉仕団として従軍した。その途中、エルゼはオットーとの息子ペーターを失う。
そして、帰還した2名は再会し、関係を持ってしまう。マリーはちょうど女性参政権が獲得された選挙で当選をはたし、家を空けがちになったので、頻繁に逢瀬をしていたのだった。
あくる年の6月、エーミールは高熱を出す。最初に医者を呼んだのはエルゼだった。原因はいわゆるインフルエンザ。マリーとエルゼの看病の甲斐なく、14日に永眠。享年56。さかのぼること2月にはオットーも卒中により倒れる。
エーミールの病室ではマリーとエルゼの愁嘆場もある中、エーミールはエルゼを呼ぶ。
「わたしはエルゼ嬢と話したい。どうか彼女を呼んでください」
言われた看護師はマリーを連れて戻ったので、エーミールは上半身を起こして叫んだ。
「わたしが呼んだのは、マリーじゃない、エルゼニャ!!!」
マリーは振り向いて、両手で顔を覆いながら、逃げるように、部屋から走り去った。まもなく、エルゼが来て、そこで死が2名を別つまでそこにいた。
次の年、エドガーも死に、寡婦になったエルゼに寄り添ったのはアルフレートだった。彼女たちは同じ建物に入居したが、同居はしなかった。
そのころ、彼女たちの住む地域に東方領域政府の脅威が迫る。シャドウの台頭前から警告を発していたアルフレートは退職し、遁世しながら、精神的抵抗をしていた。
そのアルフレートを支えたエルゼにも危機が及び、息子たちは大陸外に逃亡を余儀なくされる。長男フリーデルは経営者となり、3男カールは資源財団の研究者となった。
エルゼは戦争前に息子たちに会いに2度旅行に出かけていて、そこで妹フリーダと再会した。そして、息子たちは戦中戦後の窮乏期に母を支援している。
戦争が終わり、アルフレートは教鞭を執りながら、政治家としても活躍し、エルゼと暮らして38年目に心不全で亡くなった。エルゼは1名になった。
エルゼはアルフレートがエーミールの影に追いやられることを心配していた。
そのためエーミールに関する講演を聴いて回った彼女は
「アルフレートの名前が言及されないのがただただ痛ましいです」
と、悲嘆したという。ある学者の講演が1番気に入っていたが理由は
「少なくとも、かれは、エーミールとならんでアルフレートも存在していたことに言及しました」
と、いうものだった。
そのころのエルゼは3名のひ孫がいた。
エルゼはアルフレートの死から10年ほどして、老人ホームに入所した。手元には少しの本だけ。
その老人ホームで彼女はエーミールの愛人だったミーナと再会する。ミーナは全盲だったので、身の回りを世話しながら
「ホント、男ってろくでもないわね」
「そうねえ」
と、話していたという。
ミーナが亡くなった後、エルゼはエーミールを始めとした知人たちの語り部としてインタビューに応じている。身体は不自由だが、頭をしっかりしていたという。
数年して、99という高齢でエルゼは世を去っていった。
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