第50話

 体育祭までの準備期間、すなわちこの一週間、六条さんは一切口をきいてくれなかった。無視、と言えばそうだ。だが、誰かにいやがらせをしたいときの無視とは違う。意図的に対応しないのではない。視界から、まるで彼女の視界から、僕がいなくなっているかのようだった。いやむしろ、彼女の方がこの世界からいなくなっているようでもあった。どこかその存在がおぼつかなくなっていた。かつてのような、存在感はなかった。あの透き通るような声は、聞こえなかった。

 対照的に市谷先輩の存在感が空間を支配していた。すべてが滞りなく進んでいた。ただ効率的にやるだけだったら、以前の体制と何も変わらないはずなのに、明らかな差が出ていた。どうして指導者が変わるだけでここまで変貌するものなのか、不思議でならなかった。


「ああ、津田くん。ちょっと倉庫まで行って、ハードルを持ってきてくれ」

「わかりました」

 僕は倉庫のある、ちょっと入り組んで暗がりになっているところに向かった。

 すると突然、体を引っ張られ、建物の裏に引き込まれた。

「おい、貴様。ちょっと話がある」

「その声は…。朝比奈さんですか。疲労で休んだと聞きましたよ。もうお加減はよろしくて?」

「おかげさまでな。ったく、貴様に心配される筋合いはないってのに」

「そうでしたな。むしろ僕の手のケガの方が…。」

「もう治っているだろうが!」

「そうですけど、まだ僕の心の傷が治っていませんよ? さっきだって、また脅されるのかと…。」

「あーもう、あのことは忘れてくれ! 自分でもその、カッとなっちまったんだ!」

 カッとなった程度の話ではない気がするが…。

「今はそのことじゃなくてだな! その、ほら、六条のことだ。久しぶりに会ってみたらあの調子だ。なにかあったのか?」

「なにかって言われたら…。そのー、いろいろ」

「あったのかよ…。何があったんだ。最近は貴様と話をしている姿を苦々しく見てはいたが、こう突然疎遠になっているさまを見せられると、そう感じてしまうのがものすごく気に食わないが、気味が悪くてしょうがないんだ。そのくせ、六条がチラチラと貴様の方を見てはためらって顔を背ける様子を見ると、イライラしてしょうがない。あーもうイライラする! なんなんだ貴様らは!」

「そういわれましても…。」

 そして、事の経緯を説明する。朝比奈はしばらく考え込んで、グルグル歩き回るのを突然止めた。

「そのご様子、何かわかったんですか? わかったのでしたら、すぐに教えていただきたい。さすがの僕もあの言葉は衝撃的すぎて、飲み込むことができません。どう振舞えばいいのかも、わからないのです」

「あーうん、そうだな…。いや、これは…。どう説明するべきか…。いや、そもそも言っていいことなのか?」

「なんですかその物言いは。ずいぶんと勿体ぶりますね」

「こればっかりはさすがにな。それに、私はまだ貴様を信用したわけではない。そのうえ、このことは多分まだ私にしか知られていないはずのことだ。おいそれと教えるわけにはいかない」

「それほどのことなら無理にとは言いませんが…。いくら何でも大事になり過ぎた話ですなぁ」

「煽るなよ。こっちだって心苦しいんだ。こればかりは貴様に非はないのだから。誰も知らないことで、勝手に怒っているほうが悪い。

 そうだな…。

 話せる範囲でいいなら、こういうことだ。六条は、市谷葵のことが大嫌いだ。それはもう、猛烈に憎んでいる。気に食わないとかのレベルではない。親の仇のように憎む、っていう言葉があるが、それを当てはめるとちょっと違和感があるな。もっとこう、魂に刻まれたかのような憎しみだ。六条の根幹をなす憎しみだ」

「それはまた…。たいそうなことで。

 ですがその説明でもまだ納得できませんね。あれはもう、憎んでいる奴を褒められたというだけの反応ではありませんでした」

「それを説明してしまう部分が、ちょうど教えてやれないところなんだよ。気の毒だが、とりあえずは言動に気をつけろとしか言いようがない。和解の仕方なんて分かるはずもないからな」

 そういって、朝比奈はため息をついた。

「あとは…わたしを見てくれって言われたのも、どうも気になります。別に無視したことはありませんし。この文脈で出てくる意味が分かりません。今の説明で得た、市谷先輩への憎しみ、という情報を使っても、全くわかりません。

 もう訳が分からない。どうして人付き合いとはこうも面倒くさいのだろう。

 六条さんがご自分のことを話してくれないのに、こっちからそれを理解しなきゃいけないだなんて、理不尽にもほどがある」

「まぁな…。私だって、おんなじような経験があるからな…。同情する」

 そういって、朝比奈は空を見上げる。

「結局さ、あいつは貴様にわかってほしいんだろうな。貴様にどこか、自分と同じ部分があるって、そう勝手に期待して、そして勝手に期待を裏切られている。

 いつもそうだ。自分勝手に苦しんでいる」

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