第34話

「朝比奈さん! あなた、何てことをしてくれたの! こんな、こんなことになって!」

「ち、違っ…! これは…。」

「違う? こうしてケガをしているのに⁉ 今までは、言葉だけだったから傍観していたけど、これじゃあ、もう…‼」

「わ、私は、ただ…。」

 なるほど。こうなったか。少々大げさになってきたが、朝比奈へのいい薬になりそうだ。これからもあのような蛮行をしてもらっては困る。ここはひとつ、ずるいことをさせてもらおう。

「六条さん」

「ごめんなさい津田さん! こんなことになってしまうだなんて!」

「あー、そのことなんですけどね。六条さん、あまりご友人を責めないであげてください。別に彼女はまったく悪くないのですから」

「でも…!」

「僕が勝手にケガをしてしまっただけなのです。それも、他人の所有物で。しかも、朝比奈さんに血をかけてしまった。非礼をお詫びしたいと思っていたところなのです」

 僕は深々と頭を下げた。顔を上げると、六条さんはこの展開への対応に窮しているようだった。朝比奈は、かばわれた形となったことに不服のようで、複雑な表情でこちらを静かに見据えるだけだった。

 ふと観察してみると、朝比奈はもう夏服を着ていた。血の付いた制服をクリーニングにでも出したのかもしれない。その負担を考えると、あれだけ腹が立っていた相手に対しても、申し訳なさが出てくるものだ。

「そんな、ケガまでして…。どうして、そこまでのことをしてでもわたしを勧誘したいのよ? わたしは、あなたにとってそれほどまでに重要なの?」

 今度は自信がなさそうなことを言ってきた。自信家なのかどうかわからなくなってきた。

「重要なのかと言われれば重要ですね。入部してもらえないと、部活が設立できませんから」

「つまり、頭数さえそろえばだれでも良いということ?」

 不機嫌そうに言われた。

「まぁ、その通りです」

「本気で言っているの⁉ このわたしを、ただ適当に選んで勧誘したっていうの⁉ それだったら朝比奈さんでもいいじゃない!」

「なんでそこで私が!」

 本当になんでそこで朝比奈が出てくるのだ。そんなことをしたら、楽園どころか命が何個あっても足りない地獄になるではないか。

「まったく…まったくもう、あなたは…。このわたしをなんだと思って…。」

「そういわれましても…。有名人だと自己評価していましたけど、なにゆえそう名が知られているのか、僕にはさっぱりわからないもので…。ですからただ、なんとなく、六条さんを勧誘しているのです」

 また六条さんは自信家の方に振れたようだが、本当にただ何となく声をかけたに過ぎない。さらに言えば、なんとなく入部してくれそうだったからだ。

「普通の人は、わたしを見たらその眼を奪われて、わたしの才能に恐れおののき、わたしの言葉にひれ伏すのよ。そのわたしを、そこら辺の人と同じ扱いにするなんて!」

「別にそこまでするほどの印象は受けませんでしたよ?」

「あなたどこかおかしいわよ!」

 …。

 読者の皆さん、この状況で、正常なのは僕と六条さんのどちらでしょうか? もし六条さんの方が正常だというのならば、その方はゲームでいうところの魅了攻撃に弱すぎるので、すぐに対策法を考えるべきだ。


「じゃあ、なんだかろくでもない答えが返ってきそうだけれども…。一応聞くけど、わたしを見た時、どんな印象を受けたのよ、あなたは?」

「えーと…。」

 とっさに出てきた答えは、

「なにか面白そうなことが起きそうな人?」

 だった。

 実際その通りになった。まさか、カッターナイフを突きつけられることになるとは思わなかったが、後から振り返れば貴重な思い出になるだろう。

 六条さんはきょとんとした。

 しばらく、沈黙が流れた。


 そうして、だんだん六条さんの顔が曇った。

「わたしと一緒にいても、面白いことなんて起きないわよ。うん、そう。わたしは、そんなに愉快な人間じゃないもの」

「そんなこと…。」

 否定しようとして、飲み込んだ。六条さんの眼が、あまりにも悲しげだったから。それに、六条さんの言葉を、いまここで否定してしまったら、六条さんそのものを、否定してしまう気がした。なぜだか、そう思った。

「わたしはそんな、たいそうな人間じゃないわ。誰かを楽しませるような、そんな人間じゃないもの。

 その点、あなたは立派ね。さっきの子、楽しそうだったじゃない」

「大宮は、いつもああして人生を楽しんでいるだけです」

「違うわ。わかるもの。あなたといるとき、あなたを見ているとき、本当に楽しそうだもの」

 僕は僕と一緒にいないときの大宮を、知らない。そこまで踏み込もうともしない。だからこのことには、これ以上返す言葉がない。

「きっとあなたは、周りの人に愛されているのね。立っているだけで、周りを笑顔にしてくれる。そんな人なのね」

「…。それが本当だったら、僕の交友関係はもっと広いはずですよ」

「なら、身近な人を大事にできる人なのよ。うらやましいわ」

 なぜかさっきから、身に覚えのない廉(かど)でほめられてしまっている。今度は僕の方が付いていけていない。

「そういえばあの子、大宮さん? ていうのかしら。あなたが大宮さんを呼ぶとき、『お前』って言わないのね」

「え? まあ、はい。『お前』って言葉は、僕の中では相当近しい仲間にしか使いませんから」

 オタクにとっては、敵対する相手に使う用法以外に、同胞へと呼びかける意味での『お前』がある。一般には、『お前ら』として使われることが多い。

 英語でもYouとWeがほぼ同じ意味で使われることがある。ほかの言語でもそうだ。だから『我ら』一般を指す用法が、『お前ら』でも生まれたのだろう。そして単数二人称の『お前』でも、近しい仲間を指す意味合いが濃厚だ。

 だから僕は、よっぽど近い仲間にしか『お前』を使わない。これは一種の、掟だ。

 代わりに僕は、二人称として、『あなた』と『きみ』を使うようになった。こんな堅苦しい言葉を使うのは、否定しておいてなんだけれども、やっぱり中二病的発想で、ドイツ語を使ってみたくなったからだ。それぞれ外交的親称のSieと二人称のDuに対応している。ドイツ語を訳すときの、定訳なのだ。

 だから単に、ちょっと格好つけて、いい気になりたくて、こんな言葉を使っている。いつか分離動詞を取り込んでみたいとすら思っている。

「いい心がけだと思うわ。わたし、ちょっと話しただけで、『お前』って言ってくる男が、嫌いだから」

「はぁ…。」

 そんな人もいるのか。なんだか褒められているというより、助かったといった感じだが。

 嫌いねぇ。

 逆に、嫌いではない、か。


「さぁ、こんなわたしと話していないで、大宮さんのところへ行ってあげて。あの子、多分その傷に驚いちゃったんだわ。急に逃げ出しちゃって、自分でもどうしたらいいのかわからなくなっているはずよ。あなたなら、あなたのいうことなら、安心させてあげられるから。ね? あの子のこと、ちゃんと見てあげて」

「言われなくとも、ちゃんと世話しますよ。先輩ですから」

 六条さんの顔は、穏やかだった。

「あなたには、もうちゃんと待ってくれている人がいるの。わたしなんかにかまけていないで、そっちを大切にしてあげて。きっともう会うことはないけど、今日会えてよかったわ。噂より、ずっといい人ですもの、あなたは」

「それはどうも」

 そう言って、僕は立ち上がった。

「さようなら」

 六条さんは、初めて微笑んで、見送ってくれた。

 一方、朝比奈は怪訝な顔で僕を静かに見ていた。


 大宮を探しながら、ふと思った。というより、いつだったか話していた鷲頭の言葉を、思い出した。

「『いい人』ってさ、半分相手をフッているよな」

「『よな』って同意を求められても…。それはさすがに恋愛にこだわり過ぎた解説じゃないか?」

「そうでもないさ。俺はこの言葉を、恋愛以外で使った例を、聞いたことがないね」

「そりゃあ極端すぎるというものだろう」

 たしか、こんな会話だった気がする。


 突然、腕をつかまれた。大宮だ、この位置は。

「先輩! これ買ってください!」

「なんだ? まぁジュースくらい…。」

 200円

「高けぇよ! 何だよこれ! 富士山山頂価格かよ!」

「いえいえ、京成高校価格です」

「ここ十分に低地だろうが!」

 大宮は大声で笑っていた。そして僕の顔を、ずっと見上げていた。絶対に、下を向かなかった。





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