第30話
その日は、やっと大宮が人目に付く場所を教えてくれたおかげで、ポスターをあらかた片づけることができた。もう遅い時間だし、おなかも空いただろうから、大宮は先に帰らせた。
僕はポスターを数枚だけ持って、再び校内を歩き回った。適当なところに貼ってしまってもいいのだが、ついでに校内の探検を再開したかったのだ。
そしてまた迷った。
そしてまた外に出てしまった。
やれやれ。僕の空間把握能力のなさは、筋金入りだな。
考え事を、またしてしまったせいもあるだろう。さっきの、大宮が黒パンのひとと呼んでいる、少女のことだ。
あの口調、あまりに引っかかる。
いつも話している大宮と違うとか、そういう次元の話ではない。わかりやすく言えば、今のご時世に、まさか女言葉を使う生徒がいるとはと、驚いたのだ。
女子が女言葉を使うことの何がおかしい。男だって、男言葉を使うのではないか。そういう指摘は、本来なら正しい。正しかった。
しかし僕は、ここで今の若者の話をしなければならない。
僕は、あまり人と話すタイプの人間ではないから、このような話題を語るのに信用足りうる人間ではないのかもしれない。
だが、そういう僕でも、授業中、特にグループワークや実験の時などは、多少なりとも女子と話すことがある。(こういう現象を僕は、『女子と英語でしか会話をしたことがない!』と表現したりする。たとえ日本語であっても、会話の中身が勉強のことばかりなのは、まぁいわゆるガリ勉だらけの京成高校ではよくある光景なのだ。)
そのなかで得た結論は、女言葉・男言葉の消滅、である。
今街中で偶然にも若い男女の会話を聞くことができるなら、語尾に注目し、試しに会話の話者を男女逆転させてみるといい。まったく違和感がないことに驚くだろう。そして、古い創作物に残されているような、男子、女子特有の語尾などは、とっくになくなってしまっていることに気が付くだろう。
いま、男女のしゃべり方で異なるのは、せいぜい主語の選択である。今まさに僕が『僕』を使っている。そういうようなことだ。それだって、日本語では主語、特に一人称は好きなだけ省略できるのだし、『自分』という新しい一人称もあるのだし、さらに言えば、いつか『私』という一人称が席巻するときも来るだろう。もはや、男女のしゃべり方の違いなどというのは、有意なものはないのだ。
これは言語を学問的に見ていけば、社会の変化のせいだと容易に推測できる。言語が異なるのは、違う集団に属するからだ。逆に言えば、互いを違う集団だとみなせば、人間はなぜか言語を違うものにしたがるのである。
かつて、男女は異なる領域で生息し、異なる集団で生活し、交流は困難であった。だから、以前は女言葉・男言葉なるものが存在したのだろう。
しかし、現在では境界が取り払われ、集団は混成だ。たがいの言語を変える必要などない。それにあたって、言語の統一の試みが行われたらしい。それも無意識的に、静かに、誰にも気づかれずに。
そういえば、集団を違えるから言語を変えるという文脈の好例として、かつてのオタクの言語があげられるだろう。よほど一般社会からの隔絶性を表したかったのか、今のオタクがインターネットの海から発掘した文章を見る限り、極めて難解な言語を使用し、外部の人間が判読できないようになっていた。やがて、インターネット上のオタク同士ですら所属集団(主には掲示板の違い、つまりメディアの違いだ。なんてこった! またメディアだ!)が違うと、全く異なる言語を使用するようになっていった。
だが、今やオタクの一般化と流動性、大衆化が激しい。外部との連絡が困難なこれらのインターネット言語は、破棄されてしまった。うっかり文法書を作らなかったのが災いして、もはや何を意味するのか分からない文章が、インターネット上を漂流している。われわれ新生のオタクは、もはや偉大な先人の言葉を受け取ることができない。
このオタク言語の統一化の過程では、やはり男性オタクと女性オタクの言語の統一化も行われたらしい。特に語彙の、双方からの継承にその現象が現れている。
身近な例でいえば、『推し』や『尊い』という表現だろう。それぞれ『嫁』や『萌え』にとって代わった、主に女性オタク側で使われていた言葉を継承した語彙だ。『嫁』を女性オタク側も使う動きがいちおうあったのだが、最終的には『推し』の共通言語化が支持されたようだ。これはオタク文化の変容を語るうえで外せない要素だろう。オタクの、キャラクターに対する姿勢や認識まで変えてしまった大事件なのだから。
それはそれとして。
このように、現在ではあえて言語を変えて違う集団に属していることを強調する必要などないのだ。だからあの少女のしゃべり方は、とても引っかかる。
あえて女子であることを強調している?
あえて違う人間であることを強調している?
もし普段からあの様子なら、女子の間でも浮いてしまうだろう。もはや所属集団の違いどころの話ではない。孤立だ。
というか、鎖国だ。私はあなたたちとは違う、交流する気はない、といって、道を閉ざしてしまっているのだ。
なるほど。人間嫌いねぇ。さらに言えば、あえて女子を強調して、男子とかかわらないほうの女子を強調しているあたりが、あの男子嫌いを説明している。
そんなことを考えていた。なるほど、迷うわけだ!
そうなると、彼女には悪いことをしてしまっただろうか。そこまでして関わりたくないのならば、そっとしておくべきだったのだろうか。今更ながら、そんなことを考えてしまう。
周囲には、誰もいなかった。もう、運動部の声もしなかった。交流の道を閉ざさなくても、こうして人は勝手に孤独になるものなのではないかと、思ってしまった。
「おい」
突然、後ろから声がした。
振り返ろうとすると、強い力で壁に押し付けられた。
痛い!
何が起こっているのかも理解できないうちに、僕は身動きが取れなくなるほど、力強く腕をつかまれた。
目の前に、知らない女子がいる。恐ろしい形相をして、僕をにらんでいる。
「おい、貴様。よくも六条に近づこうとしたな。この命知らずめ」
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