第20話
あの光景を見られたのは確かにうれしかった。お宝だ。ごちそうだ。
ただそれだけである。僕も分別のある年になったし、紳士のうちの一人だ。大宮がいる手前、あまり動揺を見せるわけにもいかない。素知らぬ顔で、そのまま目線を保って、通り過ぎていくのが筋だろう。道理だろう。
僕たちはそのまま、ペースを落とさずに歩いていた。
その女性は、ふと顔を上げた。
目の前には僕たちしかいない。
その目線の意味するところは、『お前たち、見ただろう?』であろう。そうであろう。
ああ見たとも。ごちそうさまでした。
ここで動揺して、オロオロとし、下手に目線をそらすのはどこかみっともない。格好良くない。
だからむしろ、堂々とするべきだ。
ああ見たとも。それがどうした。感謝してほしいのか。ならしてやろう。ごちそうさまでした。どうもありがとう。
いや本当にありがとう! 感謝してもしきれないね!
え、謝ってほしい? うーん、僕は謝るのは苦手だ。ちょっと僕のプライドが傷つくからな。でも今回は例外だ。あれの代償なら、トレードオフならば、やぶさかでもない。僕の必殺、ザ・土下座を見せることも、いとわないだろう。
そういえば、アニメとか漫画とかライトノベルだと、こういうとき、どうなっていたっけ? 確か…。女の子がめちゃくちゃ恥ずかしがったり、『み、見た?』って聞いてきたり、怒りと恥ずかしさを隠すために主人公を殴り飛ばしたりするんじゃあなかったっけ? 確かそうだ。なるほどなぁ。これほど幸せな気分になれるというのならば、殴られるのさえ、別にいっか! ってなってしまうなぁ。
なるほどなるほど。
さて、今回は?
結論から言えば、何もなかった。
だが僕からすれば、とてつもない、何かであった。
その女性は、僕たちを一瞥すると、すぐスマートフォンに目を落とした。
まるで、気にしていないかのように。
まるで、僕たちのことなど眼中にないかのように。
完全に、無視した。
場合によっては、現実的には、それがもっともありがたい態度だったのかもしれない。だってそうだろう? 何かしらのアクションがあったら、反応があったら、こっちが罪悪感にさいなやまされることになる。だから、このほうが、気が楽だ。そうであるはずだ。
そして僕も、そう考えるのが、そう最初に考えるのが、筋ではあった。
だが僕の反応は、驚きであった。
直前に想像したことのせいで、思い起こしたことのせいで、なにかアクションを期待していた節があるのも、原因かもしれない。
それがなかった。
僕たちは、無視された。
彼女はこう思っているのだろうか。『見た? ふーん、よかったね』と。いやむしろ、それすら思っていないのかもしれない。本当に、意識していないのかもしれない。僕たちのことなど、周囲のことなど、目に入っていないのかもしれない。
そこらへんに落ちている木の枝の端くれや、石のように。
もはや心を持った存在として見ていないのかもしれない。
人間として、同じ人間として、同じ存在として、見ていないのかもしれない。
とにかく、無視された。
彼女は颯爽と歩いて行った。さっきよりもむしろ、姿勢もよく、堂々と歩いているように感じた。威風堂々と、闊歩した。
強烈な存在感があった。僕たちを無視するほどの、そんな強烈な存在感が。
その存在感を前にして、僕は、何か打ち破られたかのように感じた。そして、こう思った。
美しい、と。
彼女は僕を通り過ぎようとしていた。その瞬間、直感した。
彼女はそこまで年が離れていなさそうだ。その存在感のせいで、年上だと勘違いしていた。むしろ、女性と形容するより、少女と形容すべき年齢であった。同年齢であるはずだと、なぜか期待を込めて、直感した。
去り際に彼女は、においを残していった。甘い、いい匂いだった。
振り返って見送るのは、なんだか格好悪いし、完全に気を取られた感じがしてしまうのだが、僕はそうしていた。そうせざるを得なかった。
「黒でしたね…。」
大宮がそういった。大宮まで振り返っていたのだ。
「ああ、黒だったな」
そう返すしか、なかった。
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