第9話

 佐藤が何か、思うところがあったようで、こう言いだした。

「さっきからの話をうけてみると、どうも萌えの概念が変化しているように思えてならないね。イラストそのものよりも、その背景にかかわることについての萌えの方が、重視されている気がする。

 昔はほら、髪型がどうとか、身長がどうとか、服装だとか、それこそ胸の大きさとかについて熱く萌えを語っている人が多かったように思える。散々バカみたいな議論をインターネット上でやっていただろ? 議論といっても、互いに自分の好きなことを喧伝するだけで、まったく生産性のある議論にはならなかったけどさ。というか、相手の意見を聞く気がないなら初めからそれは議論ではないような気がするが。それでもまぁ、きのこたけのこ戦争みたいに、結論が出るわけでもないことに対して真剣になってみるのが楽しかったという側面はあると思うんだよ。

 ところが、2010年代からかなぁ。突然そういうことに対しての衝突がなくなった。俺はここに、そういうイラストの一部分を取り出した萌え要素への執着がなくなったという時代の潮流を見出すんだよ。

 逆に流行ってきたのがイラストじゃあわからない、性格とか、ストーリーについての萌えだ。さっき言っていた『愛が重いキャラ』だって、『頭のおかしいキャラ』だって、別にイラストに露骨に血しぶきとかが描かれているわけじゃあなくて、その背景にあるストーリーのことを指すだろう? 性格の萌えについては、2000年代にはすでにツンデレブームがあったから最近の潮流とするのは気が引けるけれども、でも性格だってキャラの説明書きに『ツンデレです』とか書いてみたってしょうがないし、まったく萌えるわけがないのだから、それぞれのキャラについてのストーリーに含めてしまえばいいかな。

 つまり、今はストーリー重視の萌えの時代ってわけだ。

 そのストーリーだって何でもいいわけじゃあない。おのれの過ちのせいで家族を失ったみたいな、『激重過去を持っているヒロイン』は、キャラの要素としては十分に機能しているけれども、別に多くの人にとっては萌え要素ではない、と俺は思う。

 じゃあ具体的にどんなストーリーなのかと考えてみた時に、今流行っている作品を概観してみると、『関係性萌え』に集約できると思う。

 キャラクターとキャラクターの関係性。まさにイラストでは表現できないところだね。

 そのせいでもあるのかな。昔なら画像投稿サイトとかSNSで人気になっている作品は、純粋にその絵単体で萌えるような作品だったと思うけれども、最近はいにしえの絵巻物や浮世絵のごとく絵の中に説明文やセリフが加えられているほうが人気が出るように思えるね。

 もしくは思い切って漫画にしてしまうとかだ。ストーリーで萌えればいいんだから、きっちりとキャラのイラストが描かれていなくても、十分に萌えて評価されていると思う。

 たまにイラスト単体で人気が出ていると思ったら二次創作だったりすることもあるよね。二次創作については、みんなが知っているから人気が出たのではないかと言われてしまえばそうだけれども、でもやっぱりそのイラストの向こう側に広がる、キャラの関係性のストーリーに萌えるようになったからという原因もあるんじゃあないかな。

 ある程度上手い絵師さんはよくオリジナルキャラに手を出すようになるけど、あまり成功しているようには思えない。成功している人はちゃんとストーリーまで付加していると思う。


 かつては小説がイラストに引っ張られたり、漫画に影響されたりして、その立ち位置が危うくなったけれど、今度はイラストが漫画や物語に寄って行っているみたいだ。だからと言って漫画最強の時代とは言わないよ。たしかに無料のWeb漫画は巨大市場になっているし、Twitterで人気なのは総称してTwitter漫画とか呼ばれている漫画だけどさ、わざわざ文字のストーリーを動画にしたり、イラストでチャット風にする動きもあるし、決めつけるのはまだ早いね。内側から食い破らんとする何かを感じる」


 なるほど。関係性萌えか。

 もろもろの動きがストンと腑に落ちるような感覚があった。普段誰とも交流しないような我らオタクたちが、憧れなのかどうなのか、かつて唾棄して離れていった人と人との関係性に注目していくようになるとは、いやはや歴史の皮肉のようだ。

 関係性…。

 交流。

 そうか、またメディアか。

 メディアに育まれ、メディアとかかわり続ける運命にあるオタクが、メディアのある萌えに行きつくのは、ある意味自然なようにも感じる。

 そういえば、関係性すらもメディアになりうるのだろうか。

 媒体、としてはおかしい気がするし、空気や液晶のような物質でない、ただの概念がメディアだと言ってしまうと、いささか言い過ぎのようだけれども、それでもキャラと向き合うときに特定の関係性に頼るならば、そしてそこに意味まで見出してしまうならば、それはもはやメディアではないだろうか。

 それならキャラだってメディアだ。

 人とのかかわり方を簡略化して負担を減らすために、その形式にのっとって交流するなら、それはもはやある書式の本のようなメディアの役割を担っているように思えてならない。

 時には、人とかかわりたくないから、人とかかわるのが苦手だから、かかわりあう機会が少なくなるキャラを使用することだってあるだろう。読書家キャラやまじめキャラを利用して見せていつも本に目を落としていれば、周囲はそこから『関わるな』とのメッセージを受け取る。僕が使っている、使ってしまっている陰キャというキャラだって、そうかもしれない。

 ならオタクであるということも?

 オタクであるということ自体がメディア化する可能性は?

 人とかかわるとき、何かのニュースに出くわした時、いろんな本を読んでいるとき、ふとオタクとしての立場からものを考えようとしているならば、それはもう足元にある立場者なくて、目先にある色眼鏡だ。それを通して世界を見てしまう。オタクであるということを通して世界とかかわっている。

 僕がメディアに入り込むとき、メディアも僕に入り込んでくる。

 侵食してくる。


 目の前の三人に目を向ける。僕は彼らを家族に説明するとき、『オタク仲間』だとか、『同士』という言葉を使わなかったか? はたから見れば友人としか形容できないはずのこの関係を、オタクであるというばかりに、ひねくれて認識していないだろうか。

 オタクというメディアが、僕の認識をゆがめていないだろうか。


 オタクと友人ねぇ。

 そう考えると、オタクというのは、明らかに友人関係にある場合でも、互いの家を訪れることはないように思える。それは『仲間』であり、『同士』であるから。

 友人のように、『個人』対『個人』の、そういう実存的なかかわり方では、実際問題としてないだろう。

 同じメディアを持っている個人が、メディアを通じて、メディア化した他者と交流する。

 これがオタクだ。


 どこまで行ってもメディアで、行きつく先はまさにメディアだ。


 そうはいってもねぇ。ちょっと頭を冷やしてみると、別に今に始まったことではないように思えることもある。

 古代に人を結びつけたのは、神話だ。

 ギリシャ人とは血縁ではなくて、ギリシャ神話とオリンピック文化を共有し、地中海の海運を通じて互いを結びつけ、ギリシャ語をしゃべるヘレネスだ。神話、文化、共有、言語。徹底的にメディアじゃないか。むしろ今のオタクと大差ないようにすら思えてくる。オタクは神話が大好きだし、共通の集団の歴史を形成し、変わった言葉をしゃべり、仲間内でとにかく共有したがる。

 近代国民国家とも似ている。建国神話があり、イデオロギーがあり、同じ教科書を教育に使用して同じ物語の中で生きるようにする。言語を統一して、露骨にメディアを管理して、共通化している。

 オタクにイデオロギーがあるとしたら、せいぜい拝金主義への嫌悪と浪費のスタンスくらいのものだろうけれども、大体同じようなものだろう。

 メディア化する人間の行き着いた先、それがオタクなのかもしれない。

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