第2章 獣人

            1

 セイダール公とその部下たちは、その夜マハンに宿泊した。

 セイダール公は賓客としてゴースの館に泊まり、他の兵士たちは自警団の宿舎を独占した。とはいえ兵士たちはベッドには入らず、酒場へと繰り出し、朝までどんちゃん騒ぎを繰りひろげた。

 ゴースはセイダールと顔を合わせるのを嫌ってか、ずっと執務室にこもった。むろん、やるべき仕事が山積していたためでもある。ララトの村の調査、そして死者を葬ることも必要であろう。それらの段取りを事細かに自警団員に告げ、翌朝早くに出発させた。

 ララト襲撃は事実であった。生存者はなし。乳幼児から老人までが殺されていた。死骸には牙と爪の痕がすさまじく、まともに原型をとどめている死体は希でさえあったと。若い女性は例外なく陵辱されていた。獣人が人間の女に欲望を持つことはよく知られている。人間の男が獣人の女に惹かれるのと同じように。

 襲撃現場に落ちていた毛は、確かに人間のものではなかった。といって、野生の獣のものでもない。獣人の襲撃というのは、どうやら確かなようであった。

 セイダール公は翌日昼過ぎになって、ようやく出発した。獣人の村を討滅するためにだ。

 陣容はセイダール公を筆頭に騎馬兵五十、マハン自警団員の中核二十余、さらに半ば囚人のようにして同行するは獣人アスラともう一人。

 アスラは両腕を鉄輪と鎖で縛められていた。その待遇にアスラは文句を言わなかった。命があるだけましだと考えを切り替えたのだろう。ただし、戦いになれば鉄輪は外されるという約束だけは取りつけていた。

 そのアスラに同行するのはキズマ一人である。むろん、出発前にファータとトトに声をかけたが、ファータはにべもなく同行を拒絶し、トトは「読書をしたいでな」という理由をもってマハンに残る意思表示をした。

 やむを得ず、キズマはゴースに二人のことを託し、出発したのだ。

 途中、セイダール公は自分の兵を二手に分け、その一手をクロイアルという名の騎士に任せた。黒髪で美貌の青年である。ただし、その顔に表情は乏しく、まるで仮面のような印象を与える。セイダールの片腕のような存在であるらしい。

 「おまえは迂回し、標的を背後より突け。手筈はわかっておろうな」

 セイダールはクロイアルに何事か策を授け、クロイアルは二十騎余を率いて、別の道をとった。

 「さあ、われらは獣人の村を正面より叩く。容赦は無用。女子供とて、やつらの正体は野獣ぞ。なんぞ情けをかける必要やあらん」

 セイダールは大声で部下を叱咤し、さらに道を急がせた。

 自警団員は全員が馬に乗れるわけではない。ために馬車に分乗しての行軍だ。セイダール軍にはついて行くのがやっとのありさま。アスラとキズマは馬の扱いには長けているが、むろん馬を与えられるわけもなく、自警団の馬車に乗せてもらっているので、同様だ。

 セイダール軍は森を疾駆し、半日で五百キロセルウを踏破した。獣人の居住する獣界の手前で野営をする。相手は獣人。夜目がきく相手だから夜襲はむしろ攻め手に危険だ。ために、相手の領域に入る手前でゆっくりと人馬を休めようというのだ。

 セイダール公の兵士たちはマハンで入手した酒と食い物で大いに盛りあがった。だが、彼らは閉鎖的であり、マハン自警団の参加を拒む雰囲気があった。ためにマハン自警団員たちは自分たちだけで車座になり、はるかに貧しい糧食で腹を満たした。

 さらにわびしいのはアスラとキズマだ。

 半ば虜囚のアスラにはまともに食事すら与えられない。ために、アスラは飢え切っていた。キズマが準備してきた食料は、ほとんどアスラ一人の胃におさまった。

 「まったく、しけたやつらだぜ。おれがどんなに強いか、役に立つかを知らねえでよ」

 アスラは牙の間に詰まった食べかすを舌でせせりながら、ぼやいた。

 「ま、明日になればおれの疑いも解け、この邪魔っけな鎖ともおさらばだ」

 アスラは鎖を鳴らした。なみの男なら、その重さだけで参ってしまいそうな重い鎖だが、アスラにとっては、単に腕が自由に使えないのと音がやかましいことだけが問題であるらしい。

 「そのことだけどな、アスラ。本当に獣人と戦うつもりなのか?」

 キズマはやや躊躇してから、そう訊いた。

 アスラはなんでそんなことを、とでも言いたげな表情を浮かべた。

 「当たり前だ。やつらは人間を襲った悪党なんだぞ。ましてや、おれにその仲間であるという疑いがかかっているんだ。どうあっても晴らさないではおれんだろうがよ」

 「……しかし、おまえの知り合いと戦うことになるかもしれないんだぞ」

 「知っているやつなぞ、いねえよ」

 アスラは吐き捨てるように言った。キズマは黙らざるを得ない。

 「ま、おれにとってはやつらは他人で、敵だ。凶悪なけだものだ。おれは獣人だが、魂は人間と同じだと思っているしな。これで手柄を立てて、きれいな嫁でももらいてえな。人間のな」

 アスラは満腹になったためか機嫌がよかった。

 「やっぱり人間の娘がいいな。小さくて、あったかで、やわらけえ。ほんと、食欲そそられるぜ―――って、あっちの方のことだぜ」

 にやにや笑いながら、キズマをからかった。

 「おまえもよ、ヴァルジニアさまとよろしくやったんだろ? 侍女から聞いたぜ。出発の朝、おまえさん、姫さんの部屋から出て来たんだってな」

 キズマは顔に昇る血をどうしようもなかった。

 その様子を見て、アスラは笑った。

 「聞かせてくれよ、姫さんはどうだったい? むろん、初物をいただいたんだろうがよ」

 「よせ!」

 キズマは熱い頬を感じながら、アスラの戯言を打ち消した。

 「ヴァルジニアさまとは、朝まで話をしていただけだ。誓って手も触れていない」

 アスラは目を丸くさせ、それから疑わしそうに首をひねった。

 「まさかな? 嘘だろう? あんな美女と朝まで二人でいて、手を出さないなんて」

 「ばかな! ヴァルジニアさまは気高く、きよらで、純粋な女性だ! それを汚すようなことを言うな!」

 キズマの怒声は本気だ。アスラは筋肉が盛り上がった肩をひょいとすくめた。

 「わかった、わかった。だがよ、一言だけ言わせてもらえばな、抱かれたがっている女を抱いてやらないのは罪だぜ」

 キズマは視線をそらした。確かに、あの夜、ヴァルジニアはいつもと違っていた。潤んだ瞳でキズマを見詰めていた。夜、ヴァルジニアの部屋を訪れて、語るべき話柄も尽き、言葉が途絶えたとき、もっとも雄弁なる行動に出ればよかったかもしれない。だが、キズマにはそれをしなかった。

 勇気が足りなかったのか、それとも盲動せぬだけの自制心があったのか、自分でもわからない。

 ヴァルジニアはただひたすらに優しく愛らしく、朝までキズマの愚にもつかないおしゃべりに耳を傾け、かつ自らも楽しげに物語ったのも事実だ。

 だから、きっとあれでよかったのだ、とキズマは思っている。その想いを、仲間とはいえアスラにもかきまわされたくはない。

 「時に、あのエルフ娘はどうしている?」

 アスラが不意に話題を変えた。それとも変えてはいないのか。

 「ファータか。ずっとふさいでいるな」

 キズマは、復活以来のファータに笑顔がないことを思った。喜怒哀楽の感情のうち、明の部分だけがごそっと抜け落ちたかのようだ、と。

 「あれもいい女だ。性格も口も悪いが、な。そうは思わねえか?」

 復活以来、まともに話をしたこともないはずだが、アスラはそんなふうに言う。もっとも、美しい女であれば内面はどうでもいい、という意味かもしれないが。

 「昔は、もっとよかったよ」

 と、キズマは呟いた。

 アスラの目が細まる。口元に微妙な笑みが浮かぶ。

 「たぶんな、おまえさんにとってはそうなんだろうよ。だから、ファータはふさいでいるんじゃないのか?」

 「どういう意味だ?」

 「さてな。おれは寝るぜ。明日は戦いだからな」

 ごろりとアスラは横になり、その場ですぐに寝息を立てはじめた。このあたりは以前とまるで変わっていない。キズマの頬が緩んだ。

 思い出したのだ。

 かつて、こんな夜を幾度も過ごした。アスラと連れ立って旅を始めた頃のことだ。

 剽悍ではあるが、人界の常識をまったく持たない幼いアスラ。かつてアスラは子供といってもいいくらいに無邪気だった。村を出たばかりで、人間と暮らしたこともない。体毛にも和毛がかなり残っていたのだ。

 ただし、獣人の成長は速い。数か月のうちにたちまち容貌は大人び、その言動もしっかりとした。その人格形成にはしかし、キズマの行動よりもその後仲間に加わったファータのそれが色濃く反映しているようだが。

 キズマはかつてしていたように、アスラの頭を撫で、背中を撫でた。

 アスラは安心し切ったように喉を鳴らし、さらに深い眠りに沈んでいく。

 ここにファータがいれば、そしてトトがいれば。

 すべて昔のままに戻れるような気がした。


      2

翌朝、戦闘を考慮しての行軍が始まった。

 セイダール公は、マハン自警団と騎馬兵とを分けた。

 「まずわれらは騎馬で仰々しく獣界を行く。当然、獣人どもの注意はわれわれに引きつけられよう。すなわち、われらは囮だ。その隙に、きみたち自警団はやつらの本拠を突くがよい。マハン自警団の手で、悪しき獣人どもを滅ぼすのだ」

 セイダール公はそう明言し、自警団員のリーダー、ウルを喜ばせた。自警団員が活躍したとなれば、マハンに戻っても大きな顔ができる。特に、ゴースに対するおぼえもめでたかろう。ウルやその他の若い自警団員にとって、ゴースは女神のような存在なのだ。

 マハン自警団は道なき森を縦断する針路をとった。キズマとアスラも同行した。

 獣人の村の位置は、斥候に出たセイダール公の部下から教わっていた。

 とにかく、獣道しかない深い森を急ぎ、明るいうちに目的地に達しなければならない。夜になれば自滅は必至だ。

 一行は言葉を発することも禁じたうえで、歩き続けた。

 イシュアプラの放つ光が紫から赤に変じたところで休息を取り、あわただしく昼食を口に詰め込む。そして、追いたてられるように行軍を再開する。

 一行の中団にキズマとアスラはいた。アスラは相変わらず手鎖を外してもらえない。獣人に襲われたらどうする、と凄んでみせても、マハンの人々はアスラをまったく信用していないのだ。むしろ、前後からアスラの動向をうかがい、不審な動きをすればすぐにでも斬り捨ててしまいかねない雰囲気だった。

 「こりゃあ、騎馬隊にくっついていたほうがよかったかな」

 とアスラもぼやく始末だ。

 緊張感みなぎる行軍がまたしばらく続いた。

 イシュアプラの放つ光がさらに赤みを増し、臙脂の中段にさしかかる。

 とはいえ、真っ白い服でも着ていなければ、イシュアプラの光の色を自覚することは難しい。

 むろん、戦いに臨んではそんな服装の者はおらず、草むらにまぎれやすい茶色っぽい服装が多い。自警団員たちの防具は革製の軽快な鎧の一部を板金で補強したものだ。

 キズマもむろんいつもの革鎧に短剣、弓矢は背中に装着している。アスラは上半身はほぼ裸。心臓の部分に板が当てられ、その板を皮紐が貫き、ズボンを吊り上げている。武装はない。当然、その爪と牙が最大の武器であるからだ。

 アスラは暇なのか、歩きながら爪を出したり入れたりしている。

 アスラの背中を監視している自警団員は、それが気になるのか、何度も小声で注意した。

 だが、アスラは聞こえないふりだ。だいたい、ただ歩くだけというのはアスラの性には合わない。食べているか、遊んでいるか、戦っているか、さもなければ寝て過ごすのがアスラのやり方だ。

 自警団員の方も、放っておけばいいのに、単調な行軍に神経がささくれだっているためだろう、しつこく突っかかった。

 「おいっ、いいかげんにしろよ」

 と、言いかけた時だ。ふいにアスラが振り返った。

 凄まじい表情だ。

 「ひっ……!」

 自警団員はのけぞった。アスラが正体を現して、牙をむいたかと思ったのだろう。

 だが、アスラの視線はまったく別の方角に向けられていた。

 「どうした!?」

 いちはやくアスラの異常に気づいたキズマが声をかける。

 アスラの黄金色の瞳が光を増している。

 「囲まれたぜ。獣人だな。二十頭というところか」

 動揺が一行に伝播した。行軍が止まり、一団は密集しはじめる。

 確かに。

 前方の草の茂みが動き、左右の梢にも鋭い害意が漂う。さらには後方を扼するように、いくつかの影が目にも止まらぬ速さで移動する。

 「落ち着け! 抜刀!」

 ウルが甲走った声をあげる。

 しゃら、しゃら、らん、と不揃いな音をたてて、自警団員たちは剣を抜き放つ。その腕の動きがぎこちないのはあがっているせいだけではないだろう。魔族が消えてから、町の治安を維持するために若手で組織された自警団だ。本格的な戦闘経験があるものはほとんどいないのだ。

 「貴様らは完全に囲んだぞ、人間どもめ」

 押し殺したような渋い声が行く手の茂みから聞こえた。

 茂みが割れて、巨漢が姿を現す。

 全身に美しい斑点のある黄金色の獣人だ。顔は豹にちかいが、その目鼻立ちは確かに人間と通じるものがある。

 その獣人の側には、小柄な雌の獣人が立っている。白い毛がふさふさとした耳の大きな獣人だ。獣人の雄は獣の形質を強く出し、逆に雌は人間に近いという。この雌も、顔や身体は人間と変わらない。柔らかそうな身体のラインを、木の繊維で作った粗末な着物でかろうじて覆っている。

 この雌は若い。おそらく三歳くらいだろう。とはいえ、獣人は四、五歳でほぼ成熟し、子供も産めるようになるから、三歳というのは人間でいえば十四、五歳に当たる。

 それにしても、その愛らしい容貌は、自警団の若者たちが思わず恐怖を忘れてしまうほどのものだった。人間の少女に似ているが、同時に仔猫にも似た愛くるしさも備えている。愛玩動物として雌の獣人を狩ろうとする密猟者が絶えないのもうなずける。

 その雌は、男たちの視線が集中したのにおびえてか、傍らの斑の獣人の影に隠れた。そして、首だけを出して、じっと自警団の方を見つめた。

 見つめられている、と馬鹿者どもが自惚れている暇もなかった。小さな唇が次の言葉を形作るまで、ほとんど間がなかったからだ。

 「アスラ! 早く逃げて!」

 なにっ、とばかりに今度はアスラに視線が集中する。

 やはり仲間か、という確信の光だ。その光は驚きから急速に怒りへと、殺意へと濃密さを増していく。

 斑の獣人が叫んだ。

 「どうした、アスラ! そんな鎖で自由を縛られて!? おまえがまことアスラならば、縛めを自らの力で打ち破っていよう! なにゆえ、この獣界に虜囚としておめおめ戻ったか!?」

 難詰の口調だ。その斑の獣人に、白い獣人の少女が必死でとりすがる。

 「やめて、ゲパール兄さん、アスラにはきっと理由があるのよ!」

 「おまえは黙っていろ、レパ。あいつは人界に去った者だ。もはや心は許せん」

 ゲパールと呼ばれた斑の獣人は、少女を振りはらい、そして命じた。

 「侵略者どもを捕らえよ!」

 草むらが瞬時にしてざわめき、影が踊った。

 獣人たちが物陰から現れたのだ。

 獅子に似た者、熊に似た者、狐のように目を光らせているもの。

 さらには、梢の上に翼ある者までが姿を見せていた。

 獣人―――人間から見れば呪われし獣と人との混血児。その出自は、魔法によるものだとも、イシュアプラのクイラの戯れの結果だともいう。ただ確かに言えることは、彼らが人間と変わらぬ知性を持つと同時に野生動物の敏捷さや筋力を兼ね備えているということ。

 その格闘能力は、人間をむろんはるかに陵駕する。

 「くそっ! 縛めを解けよ! 全滅しちまうぞ!」

 アスラはウルに迫った。

 ウルは首を横に振った。おびえきった表情だ。

 「だ……だめだ。おまえもあいつらの仲間に決まっている……」

 「あほうか、てめえはっ!」

 アスラは吐き捨ると、一気に息を吸いこんだ。

 息を止める。そして、上半身に力を送りこむ。

 筋肉が膨れあがり、二の腕がいつもの倍ほどにも太さを増す。

 「うう……がああっ!」

 鉄鎖が弾け飛んだ。

 「ぎゃあっ! 縛めを解きやがったぞ!」

 自警団の団員たちは悲鳴とともにアスラから飛び退き、剣を構えた。

 「アスラっ! こっちよっ!」

 あの白い少女が駆け寄っている。跳ねるような走り方だ。

 アスラはちらりと目をやったが、黙殺した。

 「アスラあ……」

 泣きそうな表情を少女は浮かべた。

 その背後に、ウルが迫る。

 襲いかかり、後ろから羽交い締めにする。

 「ひっ! きゃあっ!」

 もがき、逃げようとするが、雌の獣人の筋力は人間の女とそう変わることはない。

 がっしりと背後から抱きしめられてしまう。

 「つ、つかまえたぞっ! こいつを人質にっ!」

 喚くウルの顔は蒼白で、かつ引きつっている。

 「レパ!」

 ゲパールは妹の名を呼び、かつ怒り狂った。

 「おのれ、人間め……! 土足でわれらが世界に入り込んだのは、それが狙いか……! 許せん!」

 自ら、爪をひらめかせ、跳躍する。


     3


 ウルが悲鳴をあげた。人質は何の役にも立たない。両手で捕まえたため、喉元に剣を擬することもできないのだ。

 「アスラ!」

 キズマが急を伝える。弓を外し、矢をつがえる間にゲパールの爪はウルを引き裂いているだろう。アスラに止めさせるしか、ない。

 「くそっ! しゃあねえっ!」

 アスラが動く。重心の低い、それでいて敏速な足さばき。

 たちまち、ウルを背後にかばう位置まで来る。

 「わりぃな。誰か知らねえけど、よっ!」

 アスラは右腕を振るった。手首の鉄輪から伸びた鎖が空気を切り裂く。

 ゲパールは空中で鎖をかわし、ななめ横に降り立った。

 その形相は、激しく歪んでいる。

 「おまえ、人間の味方をするのか」

 鋭い爪がのびた指を、アスラの顔につきつける。

 「獣界の長ヴァイラの仔に生まれながら、獣界を人間に売ったのか、アスラ!」

 「覚えてねえんだよ、そういうことは」

 アスラは事実を述べたのだが、ゲパールはそうは取らなかったようだ。

 「物見から、不審な侵入者があると聞き、さらに探ってみれば獣人が人質にされているとのこと。されば急ぎ救わんものと駆けつけてみれば、これが裏切り者の罠だったとはな」

 ゲパールは吐き捨てんばかりの口調で続ける。

 「ましてや、おまえを慕っていたレパを人質に取るという卑劣な手までも……アスラよ、きさま、人間界で悪事のやり方だけを学んできたのか!?」

 アスラも怒気を発する。言われ放題ではたまらない。少なくとも、アスラにはゲパールに対して負い目を感じるいわれはない。

 「いいかげんにしろ! おまえたちが先に人間界を襲ったんだろうが! いくつも無防備な村を襲い、女子供まで皆殺しにしておいて、こっちのことを卑劣とかなんだとか言える立場かよ!」

 アスラは、がなりたてた。そうしつつ、なんとなく懐かしい感覚が胸に湧いてくるのを自覚した。この斑の獣人とかつてもこんなふうに口論をしたような気が。それに、その牙や爪の感じも。子供の頃にじゃれあって、噛みあっていたような、そんな気がする。

 しかし、ゲパールはそれどころではない様子だ。アスラの言葉に激しく反応した。

 「われわれが人間の村を襲った、だと? とんだ濡れ衣を着せるものだ。なぜ、われわれが人間を襲わねばならんのか!?」

 「見たやつらがいるんだよ! それでおれにも妙な疑いがかけられたんだ!」

 「誰が見たというんだ」

 「セイダールとかいうおっさんの兵隊がだ」

 「セイダールだと!?」

 今度こそ決定的にゲパールの顔が驚愕で歪んだ。

 「やつも、やつらも来ているのか、ここに!?」

 「ああよ。やつらが囮になって、こっちの隊で獣人の村を叩く手筈だったんだ」

 作戦の機密もへったくれもない。アスラはさらさらと答えた。

 ゲパールは痛恨の表情を浮かべ、周囲を固める獣人たちに大声で命じた。

 「急ぎ村に戻るぞ! セイダールの攻撃だ!」

 動揺が獣人たちの間を駆け抜けた。

 翼を持つ者が上空へ舞いあがり、そして声を放った。

 「村の方角に、火の手が見えるぞ!」

 その報告で、獣人たちの恐慌は頂点に達した。

 彼らは再び黒い影になって、草むらの中に飛びこんだ。ひとつの方向に一心に駆けて行くようだ。

 その場には、ゲパールと、アスラ、キズマ、そして自警団の一行と人質のレパだけが残された。

 自警団の団員たちは茫然としていた。さっきまで取り囲まれていたのが嘘のようだ。

 「いったい、どうなっているんだ……」

 ウルが呟くように言った。

 その腕の中でおとなしくしていたレパが、おずおずと言う。

 「あの、腕、ゆるめてもらえませんか。あなたたちに危害を与えるつもりは、ありませんから」

 「……ああ」

 脱力したようにウルはレパを放した。

 レパは跳ねて、アスラの背中にしがみついた。

 「お、おい……」

 アスラはうろたえて、白い和毛を大きな耳に生やした少女を見やる。

 「無事だったんだね、よかった。二年近くも音沙汰ないんで、死んじゃったかと思ってた」

 レパは涙声で言った。

 ふっと肩から力を抜いてゲパールが言う。

 「まったく、赤ん坊の頃からおまえにくっついてばかりいたからな。最近、少しは娘らしくなってきたと思いきや、また赤ん坊に戻っちまった。また子守りをやるか、アスラ」

 アスラは少女をもてあました。もてあましつつ、嬉しくもある。こんなふうにまっすぐな好意をアスラにぶつけてくれた存在は、少なくともサラデアにはなかった。

 サラデアの女たちは、みなアスラの名声と富と、そして少しばかりの好奇心で近づいて来ていたようだ。それはそれで楽しかったのだが、しょせんは互いに遊びだという感覚がともなっていた。

 それに比べて、レパの慕い方は赤ん坊のように無邪気で、打算もなにもない。

 (なんか、こういう気分、昔も味わったような……)

 アスラは一瞬事態を忘れ、記憶の流れを遡っていた。

 「それよりも、さっきの話の続きだ」

 キズマの切迫した声がアスラの夢想を断ち切る。

 ゲパールもレパも、暗い表情になった。

 キズマはゲパールに手短に事情を説明した。

 「おれたちは獣人が人間の村を襲ったということで、その討伐に来たんだ。襲われた村には獣人のものらしい爪や牙の痕、体毛などが残されていた。ただし、目撃者はセイダール公の兵士だけで、他の者は獣人の姿を見ていない」

 ゲパールはうなずいた。

 「そうだろう。犯人はセイダールのやつだからな。やつは密猟集団の元締めだ。やつめ、最初は普通の商人のふりをして獣界に入って来た。そして、何人もの女をさらって、緑(北)のヌーブ神皇国へ売りさばきやがった。むろん、おれたちも警戒するようになった。すると、やつはならず者をたくさん雇って、私兵集団を作り、辺境の村を守ってやると吹聴しはじめた。その実、村から村へと渡り歩いては略奪を働いていたんだ。ご丁寧に獣の牙や爪の跡を残すようにしてな」

 「そ……それは本当か?」

 ウルが顔面を引きつらせて言った。

 ゲパールは冷たい一瞥をウルに与えた。

 「人間と違って、われわれは嘘をつかん」

 その口調の冷たさが、なによりもその言葉自体の真なることを語っていた。

 「そんな……じゃあ、おれたちは……」

 「おまえたち、自分の村を空けて来たんだろう」

 ゲパールの言葉に、ウルは打たれたように顎を跳ね上げた。

 「むろん、最低限の警備は残してある……あっ!」

 ウルの言葉は語尾に至り、爆発した。

 「今日は、残った者たちもララトの村で後始末の続きを……!」

 「そうか、では、おまえたちもわれわれと同じだ。セイダールに家を焼かれ、家族を殺される」

 自警団員たちは落ち着かなげに互いの顔を見合わせた。みんな、セイダール公が兵力を二つに分けたのを見ている。その時にはその予備兵力を何かに使うつもりなのだろうと軽く考えていたのだが、もしも獣人の言葉が正しいとすると、自分の町を滅ぼす一隊を彼らは見送ったことになる。

 「われらは、行く。村が危険に陥っている」

 ゲパールが告げた。

 レパがアスラの腕を引っ張る。

 「アスラも急いで! みんなが危ないわ!」

 「あ……ああ」

 アスラは困惑している。自分はどちら側の存在なのか。

 自警団員たちは茫然自失となりつつも、半分はマハンへ引き返すことを、もう半分はセイダール公と合流して事態を確かめることを主張しているようだ。

 人間たちの世界と獣人たちの世界はやはり峻厳に線が引かれているのだとしか思えない。そして、アスラは獣人としての記憶を持たず、復活してから得た知識はすべて人間界のものなのだ。

 「おれは……」

 アスラはくぐもった声で言いかけた。

 「行こう、アスラ」

 キズマがアスラの背中を叩いた。

 「悪者をやっつけに行こう。それが英雄の仕事だぜ」

 「ああ……そうか、そうだな」

 アスラの頭の中の霧が晴れた。獣人としてだけではなく、人間としてだけでもなく、それ以外に自分が立つべき場所が見つかったのだ。

 「おれたちは正義の味方、だからな!」

 アスラは力強く叫び、胸板をどんと叩いた。


     4

 ゲパール、レパ、アスラ、そしてキズマ。

 彼ら四人は森を駆けた。

 ゲパールは四つ足で稲妻さながらに駆け、レパは跳躍を続けて軽快に進む。アスラは地響きをたてそうなほどに力感あふれる走りを見せ、キズマも人間離れした脚力をここで発揮した。

 「驚いたな、おれたちについて来られる人間がいるとは」

 ゲパールも舌を巻いた。

 「さすが、アスラのお友達ね」

 と、変な感心の仕方をするのはレパだ。

 キズマは苦笑するばかりだ。秘力を使っているのだ、といっても彼らには通じまい。まだしも呪文を使って速度を上げているのだ、と説明した方が理解されやすいだろう。秘力とは、魔法学に通じた魔道博士でさえ説明できない神秘の力なのだ。

 方針を決議できずにいた自警団の連中は捨て置いた。しょせん、戦いには不慣れな連中だ。いてもいなくても同じだ。そういう意味では、彼らを囮に使ってゲパールら獣人の主力を引きつけたセイダールは、用兵家として優れているのかもしれない。

 きな臭い匂いがキズマの鼻に届いた。

 かすかに怒声も聞こえて来る。

 「近いぞ!」

 ゲパールが叫ぶ。立ち止まり、二本足で立つ。

 「レパは下がっていろ! やつらは女を狙っているんだ!」

 「で、でも、ゲパール兄さん……」

 ためらうレパ。その肩を大きな手が掴んで、後ろに押しやった。

 「言うことをききな、レパ。いい子だからよ」

 「アスラ……」

 レパはアスラの巨躯を見あげ、うなずいた。

 「行こう」

 キズマが言い、ゲパールがうなずいた。

 アスラが先頭に立った。村の方に向けて走り出す。

キズマはアスラを追いながら、アスラの足取りがどんどん確信に満ちていくように思った。

 煙はどんどん濃くなっていき、争う声も間近になる。森が切れ、集落に入る。

 惨状。

 死骸がいくつも転がっている。先行していた獣人の一団が、ほぼそっくり全滅していた。全身が矢ぶすまのようになっている。

 「ふせろっ!」

 キズマが叫んだ。

 ゲパール、そしてアスラは身を沈めた。

 と、思う間もなく、矢が射かけられる。

 矢はキズマたちが先程まで立っていた空間を切り裂いて通過する。

 前方の小屋やその脇の納屋に、射手が隠れていたのだ。村の入り口に射手を伏せておくのは戦の常道だ。

 「くそっ! これでは身動きもできん」

 ゲパールが毒づいた。

 「まかせろ」

 キズマが言い、上半身を起こす。

 「あぶないぞ!」

 ゲパールが慌てるが、キズマは頓着しない。

 弓に特別の矢をつがえ、ひょうと放つ。

 納屋の屋根に矢は当たり、たちまち炎を発する。鏃に火薬が仕込まれた矢なのだ。

 さらに射る。小屋の壁があっという間に火に包まれる。

 悲鳴とともに射手たちが飛び出して来る。

 「今だ!」

 ゲパールが四つんばいのまま駆け出し、アスラも同じようにする。

 二歩目でアスラはゲパールに追いつき、次の一歩で追い抜いた。

 「やるな」

 ゲパールが口元を歪めて笑った。

 「おまえもな」

 アスラも笑った。四歩目でさらにゲパールが先に出ることがわかったからだ。

 銀色のアスラと黄金色に近いゲパール、二頭の獣人はほとんど同時に跳躍した。

 爪が兵士の顔面を引き裂く。

 格闘戦になれば、獣人と人間とでは勝負にならない。

 たちまち射手たちは逃げ散った。

 「追うぞ! 敵の本隊はあんなもんじゃない」

 アスラがわめいた。血を吸った体毛が震える。ひさしぶりの戦闘が意識を高揚させているようだ。

 アスラ、ゲパール、キズマは村の中央部に急いだ。

 それまでに抵抗らしい抵抗はなかった。だが、村の惨状が胸に迫った。

 小屋の大半が焼かれ、かつ略奪されていた。獣人の村にそんな財貨があるわけもないが、いちおうは探ってみたらしい跡がある。住民はその場で殺されている場合が多い。二十数年という齢を経た初老の獣人が残忍に切り刻まれて横たわっていたり、撲殺されていることもあった。

 「なんて……やつらだ!」

 アスラの牙がぎりぎりぎりと鳴る。黄金色の目が赤く燃え立っている。

 そして、ようやく村の広場にたどり着いた。

 そこに、セイダールたちはいた。

 セイダールは村長が祭の時に座る石造りの椅子にゆったりと腰掛け、一段高い場所からあたりを睥睨していた。

 獣人の娘や子供たちは一箇所に集められ、周囲を完全武装の兵士に見張られ、萎縮している。

 兵士たちはけらけら笑っている。何をしているのか。

 翼ある獣人が羽ばたいている。だが、彼は高空に逃げ去ることができない。なぜならば、足首を厳重に縛められ、ロープで地面につなぎとめられているからだ。ロープの長さは五十セルウほど。すなわち、どんなに必死で羽ばたいても、五十セルウの範囲でしか行動の自由が与えられないのだ。

 数人の兵士が列を作り、順番に射かけている。

 当たれば周りの兵士たちは拍手と歓声を送り、セイダールから褒美が下される仕組みらしい。

 すでに獣人の身体には幾本もの矢が突き立っている。それでも、獣人は空へ逃れようと虚しく飛び上がっては墜落をすることを繰り返している。

 「やはり獣よのう、知恵のないことじゃて!」

 セイダールが腹を抱えて笑っている。

 「さてさて、そろそろ楽にしてやらんか? この趣向にも飽きて来たことだしな」

 「それではわたしが」

 一人の兵士が進み出て、矢を引き絞り、ひょうと放つ。

 矢は獣人の喉を射貫く、その寸前で弾き飛ばされた。

 「なっ!?」

 「それ以上の非道は許さん!」

 立ち上がったのはキズマだ。むろん、先程の矢はキズマが射落としたのだ。

 さらに矢をつがえる。放った矢は狙いあやまたず、翼ある獣人の自由を封じていたロープを切断する。

 獣人は空に舞い上がった。全身から血を吹き出しながら。

 嬉しそうに獣人は空を舞い、それからふっと力を失って墜落した。

 「きさまたち、生きておったか」

 セイダールはキズマとアスラとを見て、楽しげに髭を震わせた。

 「やはり獣人とその仲間、だな。あっさりとわれわれ人間を裏切ったというわけか」

 「なにをほざきやがる! いくつも村を滅ぼしておいて、獣人に罪をなすりつけやがって! しかも、おれにも無実の罪を着せやがった! クソ汚いやつらだ!」

 アスラが激高して喚く。

 だが、セイダールは涼しい顔だ。

 「安心せよ。もはや村を襲う必要もない。獣人どもを捕らえ、これより飼育、調教する。人間に従順な獣人を育み、豊かな家庭で幸せに暮らせるようにしてやるつもりだ。これこそ人道的な処遇というものであろうな」

 「飼育だと、調教だと!? われわれを一体何だと思っている!?」

 ゲパールの怒りも、セイダールには蚊ほども影響を与えないようだ。

 「動物だ。馬や牛や豚と変わらん。おまえたちの雌は愛玩動物に、雄は先程のような楽しみに使える。年寄りには使いみちがないから処分させてもらった。ほかに、質問は?」

 「殺す!」

 ゲパールが爆発し、突進しかける。

 「おっと、待った! いいのか? ここにいる生き残りたちがどんなことになっても?」

 セイダールの言葉とともに、兵士たちはつがえた矢を、集められた雌や子供の獣人に向けた。また、剣を抜いて、獣人の喉に突きつけもする。

 「くっ……!」

 ゲパールは立ち止まった。身動きもできない。

 「捕らえて、あの二匹を闘い合わさせろ」

 セイダールが命じた。悪魔的な発想だが、本人は愉快な余興を考え付いたくらいにしか思っていないのだ。


     5

 抵抗する気力を失ったアスラとゲパールは一本の鎖で左腕同士を結び付けられた。

 キズマも結わえられ、地べたに座らされた。むろん弓も矢も取り上げられている。

 「本気でやらねば、人質を殺すぞ」

 セイダールはあくまでも自らの楽しみに貪欲であった。

 「勝負はどちらかが死ぬまでだ。いい試合をすれば、人質の命は救ってやる」

 アスラとゲパールの闘争が始まった。

 鎖を掴み、引っ張りあう。少しでも自分に有利な間合いとするためだ。

 「くっ、この……馬鹿力め」

 ゲパールの身体が少しずつアスラの方に引き寄せられる。腕力ではアスラが勝る。

 「はっ!」

 ゲパールが跳ぶ。鎖が一挙に緩み、ふんばっていたアスラはたたらを踏む。

 「しまった!」

 アスラは上空を仰ぐ。イシュアプラの輝きは橙に変じている。しかし、まだまだその光輝は強く、ゲパールの姿が逆光の中に溶け込む。

 ゲパールは俊敏さでアスラの一歩上を行くようだ。

 爪が叩きつけられる。

 アスラは必死で後方に下がるが、肩に爪の一撃を食らう。

 血がしぶき、アスラの顔が苦痛に歪む。

 「本気か……しょうがねえか」

 「すまん、アスラ。おれは村の長として、みなを守らねばならん」

 ゲパールは地上に降り立ち、第二撃を加えるためにアスラに肉薄しつつ、そうささやいた。

 アスラも、ゲパールの攻撃を紙一重でかわしながら、ささやきを返す。

 「なんとなく思い出して来たぜ。おれの親父は死んだんだよな」

 ゲパールの目が驚きで丸くなる。

 「アスラ、おまえ、もしかしたら記憶が……」

 「なかったのさ。だが、今、わかったことがある。おれの親父は死んだ。人間と獣人との全面戦争を避けるために、単身人間のもとへ談判に行き、そして戻ってこなかった。親父の死と引き換えに戦争は回避された。だが、以来獣人は人間を憎み、獣界にひきこもるようになった」

 「そうだ。お前が二年前にここを出るまではな。だが、なぜだ!? なぜ、おまえはこんな卑劣な人間どもの世界に行ったのだ?」

 「卑劣か……そうだな。だが、そうでもないやつらもたくさんいるんだぜ。それに世の中は人間だけじゃねえ、エルフや矮人や人魚なんかもいる。みんな、自分なりの生き方をしながら、交わりあってるんだ。世界は広いし、面白いぜ」

 「ガキの頃からそうだったな、アスラは。村の長になるのをいやがって、飛び出しちまった。おかげで、おれがとんだとばっちりで、長にされちまった」

 「悪いな、でもゲパールがいたから、おれも外に出られたんだ」

 会話は続いている。だが、その会話は、互いに噛み合い、引き裂き合う熾烈な肉弾戦の合間を縫って行われているのだ。

 周りの者には、この二者が思い出ばなしに興じているとはとても思われぬだろう。声も、憎悪に満ちた唸り声としか聞こえない。

 だが、幼馴染で、赤ん坊の頃からじゃれあって来た二人にしてみれば、戦っているように遊ぶのはお手の物なのだ。とはいえ、二人ともすでに子供ではなく、爪も牙も比較にならないほど鋭くなっている。ぎりぎりのところで手加減しているとはいえ、肉が裂け、血が吹き出すのはどうしようもない。

 セイダールは手を叩いて喜んだ。青年期の獣人同士の闘いなど、なかなか見られる出し物ではない。その展開の速さ、ぶつかり合う力の大きさは、人間の格闘家同士の試合ではとても見られそうにないものだ。

 「もっとやれ! いいぞ! 噛み裂け! めんたまをえぐり出せ! わはは、たまらぬ、たまらぬのう!」

 セイダールは興奮し、椅子の手すりを叩き、大声をあげた。

 人質を捕らえている兵士たちも、この凄まじい獣人同士の戦いに見入っている。

 その時、騎馬兵が一騎、こちらに駆けて来た。

 セイダールは、近づいて来る兵士を見て、表情を変えた。

 「おお、クロイアルではないか。どうした、マハンはどうしたのだ?」

 騎乗の騎士はクロイアルだった。冷徹な容貌を持った青年だ。馬で走りとおして来たらしく、馬も本人もかなり疲れているようだ。

 クロイアルは馬を降り、ふらふらとした足取りでセイダールの方に近付いた。

 「ご報告が、あります」

 人形のような顔貌に、平板な声。

 セイダールは眉をひそめた。クロイアルが壇上に来ようとするのを押しとどめた。

 「そこで報告せよ。どうした、マハンの制圧はうまくいかなんだか?」

 クロイアルは首を横に振った。

 「いいえ、昨夜遅く、われら二十数騎、マハンの自警団本部を焼き討ちし、居残りの自警団員数名を斃し、その余勢を駆ってゴース邸へと攻め入りました」

 「ふむ、手筈通りだな、して?」

 「ゴース夫人は、お指図通りに捕らえ、監禁いたしました。むろん、配下の者には狼藉せぬように厳重に申しわたしました」

 セイダールは深々とうなずいた。

 「当然だ。あの女はわしのものにせねばならん。そして、マハンの商取引の仕組みそのものを掌握せねばな。ここで捕獲した獣人どもを売りさばく市をマハンにて開けば、わざわざヌーブ神皇国まで運ばずとも、向こうから仲買人が集まってきよるわ。他の大陸からも浮橋を渡って買い手が来るであろう。マハンという商業の要地をおされば、どのような売り方でもできようというもの」

 「は、そして、ご指示に従って、マハンの警備をセイダール様に正式に委任する書類を作るようゴース夫人に命じました。むろん、書面はすでに準備しておき、署名だけをさせようとしたのです」

 「ふむ。自警団も全滅したことだしな。わしが守ってやらねばどうしようもあるまい。喜んで受けたであろう」

 本気か冗談か、いずれにしても痛快そうにセイダールは言った。

 「書面は破り捨てられてしまいました。ゴース夫人はさらにわたしの頬を打擲しました。このわたしの美しい顔を。わたしは逆上し、剣を抜きました」

 クロイアルの声が鬼気を含んでいく。

 セイダールは慌てた。

 「おまえが自分の顔を大事にしていることはわしも知っておるが、まさかそんなことでゴース夫人を殺めたのではあるまいな?」

 しかし、クロイアルはもはやセイダールの声さえ耳に届いていないようだ。とつとつと自分の物語を続けていた。

 「わたしは剣を抜き、叫びました。『よくも、よくも、わたしのこの美しい顔をぉぉ』と。そして、剣を振り下ろしました」

 「なんと……!」

 セイダールは椅子から腰を浮かせた。

 「ですが、わたしの剣は途中で防ぎとめられました。見れば、そこに鎧に身を固めた剣士が。わたしとその剣士は切り結びました。そして……」

 クロイアルの首が横に傾いた。

 喉の部分に黒い線が走る。

 ころり、とクロイアルの首がもげる。

 悲鳴をあげてセイダールは飛びあがった。

 「な、な、な……っ! なんということっ!」

 椅子にしがみついて、セイダールは舌をもつれさせた。

 クロイアルの身体はもはやぴくりともしない。もげた首の顔だけは相変わらず整っている。

 「自分はあれだけ残酷なことをやっておいて、意外に臆病なんだね」

 その時、朗々としつつ、かつ典雅な音楽的な響きさえある声が、人々の耳朶を打った。

 キズマは目を上げた。

 ゴースだ。そして、ファータにトト。ここまで彼らを案内したのか、レパの姿もある。

 「今のは死人使いの技だな。マハンの古本屋で見つけた魔道書に載っておったのをちょっと応用してみたのじゃて」

 トトが少しばかり得意そうに言った。

 「悪趣味よ、あんなの」

 ファータが面当ての奥から不機嫌そうな声を出す。

 トトは大きな鼻の頭をかいた。

 「ま、相手もそうとう悪どいことをしてくれたからな。ゴースさんの許しも得られたし」

 「嬉しそうに実験していたくせに」

ファータはあくまでも機嫌が悪い。

 セイダールはうろたえ、逆上し、喚き散らした。

 「何をしているっ! 見せしめに人質を殺せ! 殺してしまえっ!」

 「そうはさせん!」

 キズマは立ち上がり、秘力を解放した。

 両手の縛めが吹き飛び、自由になった手に光に包まれた弓と矢が吸い込まれるようにして収まる。

 間髪おかずに射る。

 まさに神技。

 人質の獣人に剣を振り下ろそうとしていた兵士の手首を矢は射貫き、その勢いは剣の軌道をまったく変え、矢をつがえ獣人の少年の胸元につきつけていた兵士の顔面を断ち割った。その衝撃で放たれた矢は、さらに別の場所にいた監視役の兵士の胸板を射貫いたのだ。

 一瞬にして、人質を掌握していた三名の兵士が倒れた。

 もつれあっていたアスラとゲパールの視線がからむ。

 二人は猛然と立ち上がり、走った。

 セイダールのいる段上へと向かう。

 セイダールは悲鳴をあげた。

 「やつを、やつらをとめろぉっ!」

 立ちふさがろうとした兵士は、獣人の突進に跳ね飛ばされ、全身の骨を砕かれた。他の兵士は恐れをなして、進路をあけた。

 アスラとゲパールは間隔を取り、鎖を延ばす。

 そのまま、段上のセイダールに接近した。

 セイダールは椅子のせもたれにしがみついていた。

 アスラとゲパールは椅子ごとセイダールを鎖で巻き付けた。

 二人、両腕で鎖を握り、渾身の力をこめて絞り上げる。

 「がやっ! がばぶぉっ!」

 セイダールが血を吐いた。目を大きく見開いている。

 石造りの椅子が鎖の締め付けの前に屈伏した。

 そして、セイダールを石片とともに破砕した。


     6

 セイダール、クロイアルという指導者がいなくなると、あとはまったく統制のないただのならず者だ。ファータの剣技、トトの呪文の力に抗する術はない。

 あっさりと降伏した。

 「命まではとらないよ。こいつらにはマハンで証言してもらわなくちゃならないからね。死んだからといって、セイダールの罪が消えるわけじゃないんだ」

 ゴースは厳しい表情で言った。その前には、アスラとゲパールを叱りつけてもいる。

 「どんなに憎い敵だからといって、気持ちに任せて殺していいってもんじゃないよ。罪を認めさせて、それを償わせることが必要なんだ。だいたい、セイダールに身内を殺されたのはあんたたちだけじゃないんだよ。自分たちだけで復讐をして、すっきりされてちゃ、他の者の立つ瀬がないじゃないか」

 アスラもゲパールも、ゴースの叱責には返す言葉がなかった。

 キズマはファータとトトに向かって、礼を言った。

 だが、ファータはにべもない。

 「誤解しないで。あたしはゴースさんに頼まれたから来ただけよ。それに、セイダールのようなやつは、あたしだって許せないわ」

 「いやいや、そうは言いつつ、一番出発をせっついておったぞ。理由はなにかは知らぬがな」

 トトが悪戯っぽく笑うのを、ファータは睨みつけた。

 「おうっ! ファータにトトじゃないか! 久しぶりだな!」

 アスラが手を上げつつ、近づく。その側にはレパがくっついている。ゲパールも、やや後ろからついて来ている。

 「紹介するぜ、こいつはおれっちのダチのゲパールとその妹のレパだ。おっと、レパとはさっき一緒にいたよな」

 「村の外で会ったんだよ。アスラのことを知っているって言ったから、案内したの」

 レパが嬉しそうに言う。

 「そうか、そうか」

 アスラはレパの頭を撫でた。レパは目を細めてアスラの愛撫を受けている。耳がぴょんと立っているのは、気持ちがよいためか、どうか。

 「で、こいつらは、おれの旅の仲間たちだ。ごっつい鎧を来ているのがファータ。エルフ族だ。んで、こっちのちびっこいのがトトのおっさんだ。ま、おっさんといっても矮人族ではまだ若い方だと自称しているがな」

 アスラが紹介するのを、トトが訝しげに見あげている。と、その双眸に理解の光が浮かぶ。

 「おぬし……思い出したな」

 弾かれたようにキズマとファータがアスラに視線を集める。

 アスラは頭をかいた。笑っている。

 「まあな。まだ完全じゃないけっど、ガキの頃のことは全部思い出したぜ。みんなと旅をした時のことも、だいたいな」

 「そうか、やっぱり!」

 キズマはアスラに手を差し伸べた。

 アスラの大きな手がそれを握り締める。

 「いろいろ世話をかけたようだな、キズマ。記憶を失っている間のことのほうが、どっちかっていうと曖昧なんだけどよ」

 「いや、充分だよ、ありがとう」

 キズマは鼻をすすった。

 「泣いてんの、あんた」

 ファータが驚き呆れて言った。

 「悪いか? 嬉しいんだよ」

 キズマは泣き笑いのような表情でファータを睨むと、拳で涙を拭った。

 よかった、無駄じゃなかった。

 キズマはこれからも仲間たちの記憶を取り戻す旅を続けることを心に誓った。

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