第1章 旅の終わり

第1章 旅の終わり


       1 

 封じられた大地、スフィアには五つの王国と五十を超える諸侯領がある。また、そのどれにも属さない自治都市、自治集落も百以上ある。

 スフィアが球面の内側に広がっていることは古くから明らかにされていた。船乗りは、海原が先に行けば行くほどせり上がっているように見えることを知っていた。特に快晴の時には、行く手の空を透かして、青い海や、緑や茶の大地が広がっているのが見えることさえある。

 天空の中心には輝きを放つ巨大な宝玉があり、それがイシュアプラと呼ばれていた。

 イシュアプラは朝が来ると光を放ちはじめ、明るさと暖かさを大地にもたらす。光にはわずかに色が含まれており、時間の経過とともに八色に変わる。ひとつの色を保つ時間は一定であり、それを時間の単位としてオウルと呼ぶ。八オウルを告げると、イシュアプラは輝きをその内に潜め、眠りに就くのだ。また新たに輝き始めるまで、さらに八オウルの時間を隔てる。その間が夜ということになる。

 八色の光には、また、指向性が観測されており、色によって影ができる方角が微妙に変わる。それをもって、時間と方角を測ることが可能になるのだ。

 また、イシュアプラは一定の周期で暖かさを増したり、減じさせたりする。その段階を四つに分け、それぞれを春夏秋冬と呼ぶ。四つの季節が一回りすると、人々は自分の年にひとつ数を加えるのだ。

 地方によって暖かさや寒さに差はない。ただし、高い土地は比較的暑く、低い土地は寒い。イシュアプラからの距離によって暑さ寒さが変わるのは当然のことだ。

 スフィアにはほぼ同程度の広さを持つ三つの大陸がある。

 ファジーン、ストラジ、アクティアと呼ばれる各大陸の間には、海路の他に浮橋という通路がある。魔法の力によって空中に浮かぶ長大な橋だ。いつの時代にどうやって作られたかは不明だが、浮橋をめぐって各国の間で幾度となく戦いが行なわれていたのは歴史的事実だ。浮橋を押さえれば、軍事的経済的にその国は非常に有利になる。浮橋の両端から攻めあって、海上ですさまじい争いとなることも稀ではなかった。浮橋の要所には砦が築かれ、その砦を攻めるための空中兵器が動員されもした。

 だが、その三本の浮橋の交差点にある浮城レムナが魔王軍に占拠されてからというもの、浮橋をめぐっての王国同士の戦争というのは絶えた。浮橋から魔族が来襲するようになり、各国とも他国との戦争にかかずらっているだけの余裕はなくなったのだ。

 そして、ファジーン大陸の橙(西)に位置し、五王国中でも最も文化が進んでいるとされるサラデア王国で、国家の成り立ちそのものを揺るがす大きな事件が起こった。

 第一王女ヴァルジニアの十六歳の誕生日の宴の夜。

 魔王ゾーヴァの率いる魔族の大軍が突如王宮を襲い、数千もの人命を奪い、なおかつヴァルジニアを拉致し去ったのであった。

 国王ドートスは愛娘ヴァルジニアを強掠され、かつ王太子をもその襲撃で失った。まさに国家存亡の危機だ。絶望の暗雲が国中をおおった。

 しかし、その雲もようやく晴れ、サラデアの国都に喜びの声があがる時がついに来た。

 英雄キズマとその仲間たちが、見事ゾーヴァを討ち滅ぼし、ヴァルジニアを救出して王都に凱旋したのだった。

 人々は歓呼をもって英雄を迎え、そして至上の宝玉をふたたび王都に取りもどす幸福を得たのだった。

 サラデア国境で待機していた軍勢に守られ、キズマとヴァルジニアは無天蓋の馬車に乗って、王都の大路にさしかかった。まるで結婚式のパレードであるかのように、人々は紙吹雪を撒き散らし、心からの祝福を送った。

 キズマは顔を赤くし、緊張のあまりに背筋を硬直させている。

 傍らのヴァルジニアはさすがに王族。民からの声援に対し、柔らかな笑顔を失わず、手を振るなどして見せる。高貴でありながらも、近づきがたい雰囲気はヴァルジニアにはない。自分で、そのような峻厳さを取り払おうと努力しているためであろう。民を愛し民から愛されるべし、というのがサラデア王家の家訓なのだ。

 その後ろにはファータ、アスラ、トトが乗る馬車が続き、彼らにも人々の称揚の声は尽きることはなかった。

 一行が王宮に戻ると、ドートスがすぐに出迎えた。ドートスはヴァルジニアを抱きしめ、歓喜の涙にくれた。

 しばし娘の無事を確かめ喜んだのち、さっそくドートスはキズマと会した。

 ドートスはキズマに心からの感謝を捧げた。

 「望みを告げられよ。わしにできることならば、どんなことでもかなえるであろう」

 「そのお言葉だけで充分です。わたしは本来辺境の狩人。故郷に戻り、また生業に戻ろうと思います」

 キズマが膝をついてそのように答えるのを、ドートスはとんでもないこととして遮った。

 「ばかを申すな。わが王国の恩人をなんで虚しく辺境に失うものか。そなたにはやってもらいたい仕事がたくさんある。わが片腕として軍務を束ね、かつヴァルジニアの騎士として側にいてもらわねば」

 ドートスは熱っぽくキズマに説いた。

 「皇太子はゾーヴァの軍団の手にかかり今は亡い。わしも老い、子はヴァルジニアただ一人。この先、王国を支えてくれる勇の者なくば、ついに王国は他国の餌場とも堕するであろう。頼む、この老人の希望を打ち砕かないでくれ」

 キズマは困惑し、言葉を失った。

 救い手を求めて動かした視線がヴァルジニアを捉えると、ヴァルジニアもまた瞳をうるませて一心にキズマを見つめている。

 これ以上キズマが固辞すれば、泣き出してしまいかねない風情に見えた。

 やむなくキズマは頭を垂れて拝命した。

 ただし、ひとつだけ条件をつけた。

 「百日の猶予をいただきとう存じます。仲間をそれぞれの故郷に送り届けてから、またサラデアに戻って参ります」

 その条件は認められた。数日の準備を経て、出発することとなった。

 出発の前夜、盛大な宴が催された。

 サラデア中の名士貴顕たちが会していた。さらには各国の公使とその妻女たち。ゾーヴァ討滅の祝賀といいつつ、実際にはキズマのお披露目を意図した宴だった。

 明言はされないが、ヴァルジニアの配偶者として、将来的にはサラデアの後継者として、キズマを国内および諸外国に認識させようというのが狙いらしい。

 キズマは会場中を引っ張りまわされ、覚えきれない数の人たちを紹介された。もともと辺境で生まれ育ち、作法も何もかかわりない生活を送ってきたキズマには、気詰まりなことはなはだしかった。

 ようやくとりまきの人々を振りきり、テラスへ出た。疲れはてていた。

 イシュアプラは輝きをひそめている。空には、黒い幕がかけられているようで、わずかに小さな光が点在している。空の彼方にある都市の灯であろう。

 世界は丸く、そして広い。多くの人間や、人間ならざる生き物たちが暮らしている。だが、キズマは世界を巡った経験から思う。スフィアは決して広大すぎることはない、と。その気になれば徒歩で大陸を一周することもさほど難事ではない。浮橋が使えれば、大陸間さえ渡ることができる。

 片田舎で獣や鳥を追い暮らしていた頃には、世界はとてつもなく広く、神秘に満ちあふれていると思っていた。だが、旅をすることで多くの驚異を目の当たりにし、イシュアプラのクイラとすら邂逅した。その結果、世界がなぜだかささやかな庭でしかないような、そんな気がしはじめていた。

 どこかに、もっと別な世界が……キズマが暗い空のはるか彼方に向けられた時だ。

 「キズマさま……」

 優しい羽毛のような声が届いた。

 振り返ると、ヴァルジニアが立っていた。

 真珠色のドレスにダイヤモンドの髪飾り。今日はわずかに葡萄酒を嗜み、頬が初々しく上気している。

 「おひとりで何を考えていらっしゃったの……?」

 「いや……なにも」

 キズマはくちごもった。ヴァルジニアの美しさに気圧されていた。

 この娘はその局面に合わせて美しさの質をさえ変えてしまうようだ。レムナの浮き城では門番の娘といつわり粗末な身なりをしていた。地味でみすぼらしい衣服に身を包みつつも、質素で飾り気のない美しさにキズマは心惹かれた。そして今は、絢爛な宴の席にあって咲き誇る白蘭のごとき華々しさを体現している。しかも、装飾過多の臭みとは無縁だ。

 「行って……しまわれるのですね」

 ふっとヴァルジニアが言う。はっとしてキズマがその瞳を見ると、うるんでいる。

 「やっとお会いできたのに、またお別れ……」

 「たった百日だけのことです。すべきことが終わればすぐに戻ります」

 「でも……」

 ヴァルジニアは呟く。いつのまにか、キズマの側に寄り添うようにしている。

 「キズマさまは秘力を受け継ぐ英雄ですもの。きっとこんなサラデアなど見捨てて行ってしまわれますわ。そして、わたしのことなども、すぐに忘れておしまいに……」

 キズマは驚いた。

 「そんなことはありません。国王陛下のご信任には厚く感謝しております。ましてやヴァルジニアのことを忘れるなんて」

 「ほんとうに?」

 ヴァルジニアの顔が輝いた。

 「誓って」

 キズマは前を向いたまま言った。自分の顔が赤くなっていくのがわかる。むろん、これは宴で無理に勧められた酒の仕業だけではない。

 「なら、約束して……今夜わたしの部屋のテラスへ。窓の掛け金は下ろしてはおりませんから」

 ヴァルジニアはキズマに擦り寄り、そう囁くと、弾けるようにキズマから離れた。

 「約束よ」

 念押しして、身をひるがえす。ドレスの裾が華やかに広がり、屋内の照明に鮮明なシルエットを切り取る。

 あっけにとられるキズマであった。


       2

 旅立ちの朝が来た。

 キズマは仲間たちの待つ部屋に入った。

 騎士たちが会合や食事に使う石造りの質素な部屋だ。朝餉の香りがほのかに漂っている。

 大きなテーブルに思い思いの距離を隔てて、三人の仲間が席を取っていた。食事のメニューもそれぞれ違っている。アスラは焼肉だし、ファータはパンとサラダ、トトはスープとビスケットだ。確かに以前からの好みの食事だが、かつてはそれぞれを分け合って食べていた。

 会話はまったくない。キズマが入ってきても、視線すら向けようとしない。やむなくキズマは咳払いして、注意を促さねばならなかった。

 「やあ、おはよう。その、よく眠れたかな」

 が、反応はない。

 アスラは肉を食いちぎっては咀嚼している。ほとんど生に近い焼き方を指定したらしい、口のまわりの毛が血で濡れている。

 ファータは不愉快そうに眉をしかめ、アスラの方を見ないようにしながら、パンをちぎっては口に運んでいる。飲み物は柑橘系の果汁らしい。

 トトは王宮の図書室から駆り出したらしい分厚い書物を何冊もテーブルに積み上げ、そのうちの一冊を開いて目で追いながら、ついでにビスケットをつまんでいる。

 キズマは仲間たちを見わたした。

 生きている。以前とまったく変わりない姿で。

 しかし、記憶はまるで失われていた。言葉は喋れるし、物事の道理もわきまえている。だが、自分と自分のまわりの人々についての記憶が完全に欠落しているのだった。

 一方、キズマはこの数日というものドートス王に引きずりまわされ、まともに彼らと話す時間がなかった。やむなく、出発の日程などは人づてに伝えるしかなかったのだ。

 「ええと、準備はいいかな。この後、出発しようと思うんだけど」

 キズマは探るように切り出した。

 「いやだね」

 アスラがぶっきらぼうに言った。

 「どうせ、おれにゃ記憶はねえんだ。今さら故郷に帰ったってしょうがねえ。それよか、おれはこの城が気に入ったぜ。食い物はうまいし、待遇いいしな」

 ファータが、アスラを横目で一瞥して、針のような口調で言う。

 「わたしは出発したいわ。こんなけだものといっしょくたにされるのはたくさんよ」

 かじっていた肉をテーブルに叩きつけ、アスラは吠えた。

 「なんだとお、このアマっ!」

 黄色い目を見開き、噛みつかんばかりの形相でファータに詰めよる。

 ファータは立ち上がり、飛び退いた。腰のベルトにつけた短剣に手が伸びている。

 その拍子に、テーブルが揺れ、トトのスープがこぼれた。

 「暴れるならよそでやってくれ。借り物の本が汚れては困る」

 他人にはまったく興味がない様子でトトは言う。視線は書物に張りついたままだ。

 「このおっさんも故郷に帰る気はないそうだぜ。なんでも読みたい本がざっと千冊はあるそうだからな」

 アスラがもう既に怒りを忘れたような口調で言う。

 トトは答えない。だが、その書物への集中ぶりからしても、アスラの言ったことは的外れではなさそうだ。

 「というわけだ。あんた、このエルフ娘をとっとと連れて行ってくれ」

 アスラは決着がついたと言わんばかりに椅子に座りなおすと、皿から新しい骨つき肉を取りあげた。

 間髪おかずファータが反駁する。

 「待ちなさいよ! わたしは確かにこんなところにいたくはないわ! でも、こんな見ず知らずの男と二人で旅をする気なんてさらさらありませんからね!」

 指し示した指の先にはキズマがいる。

 「ほうほうほう」

 面白そうにアスラがはやしたてる。

 「この国の次期王でも気に入らないとは、好みが厳しいんだな」

 「次期王……?」

 キズマが訝しげに聞きかえす。

 アスラは肩をすくめた。

 「誰だって知っているさ。ヴァルジニア姫さまの恋人、サラデアの恩人、秘力を受け継ぐ英雄が、この国の次の王様になるって話はな。おれらはその家来だった縁で大事にされているってわけさ」

 キズマは強い口調でそれを打ち消す。

 「そんなのは根も葉もない噂だ。確かにドートス王からはこの国に留まってくれと言われているが、むろん一家臣としてに過ぎない。それにきみたちはおれの家来なんかじゃない。仲間だ」

 アスラは肩をすぼめた。

 「はっ、仲間か。ありがたいことだな。その上、今度は記憶も何もないおれたちをご親切にも故郷まで送り届けてくれるってか。もったいなくて涙が出らあ」

 「アスラ……!」

 キズマは痛ましい想いで獣人を見つめた。

 アスラはその視線に含まれた感情を敏感に悟って声を荒げた。

 「そんな目で見るんじゃねえ! 憐れんでいるつもりかよ! だいたい、なんだよ。一度死んだおれたちをよみがえらせただとお? おまえは一体なにさまだっつーんだ! そのまま放っておいてくれりゃあよかったんだ!」

 「よせ、毛むくじゃら」

 トトが静かな声で言った。

 「現に今われわれは生きている。だからこそ食べることもできるし読書もできる。それに、もしかしたらだが、記憶を取り戻せることもあるかもしれぬ。そうすれば、この若者がわれらを生き返らせてくれたことに感謝しこそすれ、怨む筋はないであろう」

 「記憶が戻ったら……か。なるほど、そりゃあいいや」

 アスラはケラケラ笑った。そして、ふっと笑いを収める。

 「誰がそれを保証してくれる? この英雄さんか?」

 「いいかげんにしなさいよ、けだもの。この人にからんだってどうしようもないでしょ。記憶が戻るかどうかなんてわからないわ。でも、このままこの国に厄介になっていて、それでいいの? 自分が覚えていない手柄によって養われていて、平気なの? あたしはまっぴらだわ。故郷に戻れば、まだ自分が誰なのかを思い出すチャンスがあるはずよ」

 ファータが立ったまま言った。

 「そこのおちびさん、トトとかいったわね。さっき言った台詞の責任をとってもらいたいわね。あたしたちと一緒に来てよ。記憶を取り戻すためには、かつて一緒に行動していた者同士で固まる必要があるわ」

 「おい、あたしたちってのは、誰だよ!?」

 食ってかかるアスラをファータは冷たくあしらう。

 「もちろん、そこの英雄さんとあたしのことよ。二人だけならお断りだけど、三人ならば話は別だわ。あんたも仲間に入れてもらいたいなら、はっきりそう言いなさい」

 「冗談じゃないっ! おれはここに残るぜ!」

 アスラは猛然と肉を噛りはじめる。

 「勝手になさいな。あたしは別に困らないわ」

 何の感情もこもっていない声で言い、ファータはキズマにグリーンの瞳を向けた。

 「さて、出発しましょうか、英雄さん」


       3

 キズマ、ファータ、トトの三人はサラデアの王城を出発した。

 セレモニーつきの出立であった。むろんキズマは断ったが、ドートスが勝手に段取ったのだ。

 「まあいいじゃないの。未来の岳父でしょ。させたいようにさせてあげたら?」

ファータは鼻で笑いつつ、そう評した。

 トトは式典の類にはまったく無関心である。むしろ、置いてこざるを得なかった書物に大いに未練がありそうだった。

 見送りの兵士が町の外までついてきたのには閉口したが、ようやく街道に入り、彼らだけになって一息ついた。

 街道は森を抜けて独立都市マハンまで続く。マハンから道は赤緑(南北)に分かれ、緑(北)へ行けばヌーブ神皇国へ向かい、赤(南)の道をとれば大陸最赤端のゴズの港に至る。

 アスラがいれば緑の道を選び、途中で街道を外れて獣人たちの部落が散在する獣界に向かうところだ。だが、獣界によらないのであれば、赤の方角へ進み、途中で道を替えて浮橋への入り口であるガンテの市城へ向かうことになる。なぜならば、目的地であるファータの故郷もトトの故郷も、このファジーン大陸にはないからだ。ファータのためにはストラジ大陸へ、トトのためにはアクティア大陸へ渡らねばならないのだ。

 海路を使えば他の大陸に渡るのに三十日以上も要してしまう。だが、浮橋を使えば、十日ほどの行程で海を横断できてしまうのだ。浮橋にかかった魔法の力で、一歩が十歩に相当する速度になるためだ。

 ゾーヴァが滅んだことにより、浮橋もまた人間の管理下に戻り、通行料さえ払えば誰でも通れるようになっているという。

 まずは一行はマハンへ向かった。マハンはサラデア国都からおよそ一メガセルウの距離にある独立都市だ。徒歩で急いで約五日の行程である。

 つい最近まで、出没する魔物どものためにさびれ果てていた街道も、今では行商人や旅行者などの数も増え、勢いと活気に満ちていた。

 「まったく、のんびりと旅ができていいなあ。以前なら、ちょっと歩くだけで魔物が現れて、進むのも大変だったのに」

 キズマがしみじみと言ったものだ。

 だが、記憶のないファータとトトからはなんら共感は寄せられなかった。彼らの認識では、街道に人出があるのは当然のことで、特に驚きに値することではない。

 だいたい、傍から見ていてこの三人ほど珍妙な一行もない。

 軽快な革鎧を身に着けた人間の若者と、長旅にはとても向きそうもない重厚な鎧を身につけたエルフの娘。さらにおおぶりの杖を持った矮人の男まで加わっている。しかも、互いに一緒に歩きながら、ろくに会話もない。

 もっとも、キズマだけはしきりに他の二人に話し掛けていたが。

 宿を取った時もそうだ。

 かつて一緒に戦いながら旅をしていた時は、嚢中が乏しいこともあったが、大部屋で雑魚寝するのが普通だった。

 むろん、今ではそんなことをする必要はない。旅費ならたっぷり持っている。以前の旅で泊まったことのある宿屋なら宿泊費さえかからない。ゾーヴァを倒し、この世に平穏をもたらした英雄たちなのだ。泊まってもらうだけで光栄至極、といった感じで下にも置かぬもてなしだ。

 だから、一人一人が最上級の個室をあてがわれ、ファータなどは食事さえ部屋に運ばせて顔さえ見せない。トトも読書が忙しいらしく、ろくにキズマと話をしない。

 キズマは仲間に違和感を抱かざるを得なかった。かつては一心同体に感じられた仲間たちの心がまったく見えない。

 よみがえらせたのは間違っていたのではないか、かえって彼らを苦しめてしまっているのではないか、と思うことさえある。

 だが、それでも朝が来て、仲間と顔を合わせるとそんな考えは消し飛ぶ。彼らが生きている、ただそれだけで嬉しいのだ。それに、いつかはきっと彼らにも記憶が戻ることだろう。いや、取り戻してみせる、とキズマは思う。アスラもだ。この旅が終わったら、アスラの記憶もよみがえらせてやりたい。たとえそれが無理でも一緒にサラデアのために働ければ、それはそれでいいのかもしれない。獣人とはいえ、サラデア救国の英雄の一人だ。ドートス王もアスラになにがしかのポストを与えてくれるはずだ。

 キズマは日々そんな想いを抱きしめながら、マハンへ近づいていった。


        4

 マハンの城門は大きく開かれていた。かつては昼夜分かたず閉ざされていた大門だ。旅を始めたばかりで金も力もなかったキズマは、ここでしばらく日を過したことがある。町の有力者ゴースのところの居候となり、いくつかの仕事をこなした。そのうちのひとつを果たす途中で、初めての仲間アスラと出会った思い出の地だ。

 キズマはまずゴースのところを訪ねた。

 ゴースの館は以前にも増して賑わっていた。マハン最大の商人であり、自警団の顧問でもあり、自治組織の主席でもある、まさにマハンの実質の支配者だ。その館へは日々数百人もの人間が出入りする。

 来客の応対に忙殺されていたゴースだったが、キズマたちの訪問を知ると、午後のスケジュールすべてキャンセルし、自ら応接室まで案内した。

 キズマはファータとトトをゴースに紹介し、冒険の顛末と今回の旅の目的を話した。そして、マハンで一夜の宿を借りたいので紹介してほしい、とも。

 「宿だぁ? マハンにこの家以上に上等な旅館はねえよ。一日といわず、何日でも泊まっていきな!」

 ゴースは相変わらずの口調で言った。名前とこの喋り方で、むくつけき大男というイメージが浮かんでくるが、実物のゴースは三十代半ばの女性だ。上背はかなりある方だが、けっしてごつごつはしていない。充分に女性的な均整のとれた肢体の持ち主であり、豊かな黒髪をふっさりと垂らしているところなど、肉感的な美女であるとさえいえる。だが、夫と死別してから十五年というもの、ゴース家の当主として絶対的な指導力を発揮してきた女性なのだ。

 その豪快な物腰と迫力のある美貌のため、男関係も派手であると噂されていたが、キズマの知る限り、ゴースはいまだに死別した夫を忘れていない。一度ならず二人で酒を飲んだことがあるが、ゴースは酔うと夫の話を始め、ついには泣きながら寝入ってしまった。ゴースは風来坊のキズマにだけ、そんな弱いところを見せたことがあったのだ。

 キズマはゴースの顔をわずかの間だけ見つめた。

 ゴースはその視線に気付いて、豪快に笑った。

 「なんだよ、人の顔を見て。そんなに昔の女が忘れられないかい?」

 いたずらっぽく笑いながら、軽口を叩く。

 「あんたがいなくなって、みんな言ってたそうだよ。『ゴースが若い男に逃げられた』ってね。それからっていうもの、ツバメになりたがる若い男がひきもきらなくてね。一人残らず叩き出してやったけど」

 キズマは笑った。ゴースは護身用の体術を極め、火筒の扱いにも長けている。色と金の両方に欲をかいてやって来た男たちは、きっとほうほうの態で逃げだしたことだろう。

 ファータはゴースとキズマを交互に見比べて、不快そうな表情を浮かべた。

 キズマとゴースの関係を、ゴースの言葉通りに受けとったようだ。

 (不潔な……)

 かすかに唇がそんな風に動いた。

 商売人であり、他人の表情の動きを見落とすことのないゴースは、それに気づいたようだ。

 面白がっているような笑いを浮かべ、ファータを覗きこんだ。

 「ふぅん……。キズマの新しい恋人はこの子かね。なかなかにかわいい娘だ。もっとも、エルフだけに、きっとあたしなんかよりも年増なんだろうが、ね」

 ファータの眉がぎりっと上がる。激情に駆られた手が剣の柄を求めて動く。

 「おっと、あたしの家では剣を抜くのは御法度だ。抜いたが最後、このマハンからは永久追放だよ」

 「黙れ、人間め!」

 ファータの愛らしい唇が裂け、鋭い気合が放たれる。

 柄を握った指に力が入り、抜きはなつ動作に移ろうとする。

 「おやおや、この子本気だよ。まいったね」

 ゴースが呆れつつ、腰に手をあてた。

 「待て、ファータ! 頭を冷やせ!」

 キズマが割って入る。大剣を抜きはなてないように、ファータの手を押さえる。

 「どけ、英雄気取りの女たらしめ! ヴァルジニア姫を裏切るのはそちらの勝手だが、あたしたちを自分の情婦に引きあわせて悦に入るのはやめてほしいものだな!」

 「いいかげんにしろ! おれに対してはともかく、他人につっかかるのはよせ!」

 キズマはファータを睨みつけた。ファータは、ひるんだ表情を一瞬浮かべ、それを塗りつぶすような憎悪の視線をキズマとゴースに投げつけると、顔を横にそむけた。

 「ゴース、悪いが宿は別に探すことにするよ。明日、ここを発つ前に挨拶にくるから」

 キズマは頭をさげた。

 ゴースは気を悪くした様子もなく、鷹揚に手を振った。

 「いいってことさ。今夜飲み明かせないのは残念だけど、嫁さんでも貰ったら遊びにおいでよ。この家には王族を泊められる部屋だってあるし、エルフだって大歓迎さ」

 意味ありげにゴースは片目をつぶった。


        5

 なかなか宿がない。

 マハンは現在復興期にあって、商人や旅行者が大量に訪れていた。ために、ほとんどの宿が満室だったのだ。むろん、ゴースの名前を出すなり、サラデア王から預かった身分証を見せるなどして便宜を図らせることはできた。だが、たった一夜のことであるし、権威をちらつかせるようなことはしたくない、というキズマの考えで空いている宿を探し歩くことになったのだ。

 結局、みつかった宿は繁華街から数ブロックも離れた場末にあった。建物も古く、主人も愛想がなかった。キズマたちの顔を見ても別段の感想もないようだ。サラデア領内とは違い、このあたりではさすがにキズマたちの顔もそんなに売れているとはいえない。

 それぞれが個室を取り、例によって夕食も別々だ。

 キズマは一階のバーカウンターで一人黙然とビールを飲んでいた。これがゴースの家だったら、思い出話に興じながら、楽しく時を過ごすことができたのだ。それにファータやトトを同席させて、記憶を取り戻させるきっかけにもしたいと考えていたのだが、その作戦も実現できなかった。

 昼間のことを思い出していた。

 ファータのあの憎々しげな視線。キズマを軽蔑しきっていた。

 ゴースとの関係については、あのあと歩きながらきちんと説明した。ゴースの名誉のためにもはっきりさせておかねばならないと思ったからだ。だが、ファータは聞いているそぶりも見せなかった。一言も口を聞かず、キズマから強いて離れようとしていた。

 (嫌われている……らしいな)

 キズマは好きでもない酒をむりやり喉に流し込んだ。

 いまわの際のファータの言葉を思い出す。心が痛くなる。若葉のように鮮やかだった瞳が忘れられない。今のファータは、まともにキズマの目を見ることさえしない。

 (記憶がなくなって白紙に戻ったんだ。しようがない。それに、おれには……)

美しすぎる少女の面影を想った。胸は軽くはならない。違う種類の重さがのしかかるようだ。ヴァルジニアはただの娘ではない。サラデアという大国が付随している。もしも本当に噂されているようなことが現実になったら、キズマには支えきれないような気がする。

 時間が遅くなるにつれ、バーが混んできた。宿泊客は少ないが、この場末の宿屋のバーは二軒め三軒めには格好の立地条件らしく、すでに出来上がった酔客たちが次々とドアベルを鳴らして入って来る。

 一人で飲み続けるには雰囲気が合わないな、とキズマが部屋に引きあげかけた時だ。キズマの隣に腰掛けた二人連れの男たちが声高に話すのが耳にはいった。

 「でな、出たらしいぜ、獣人がよ。死体はバラバラに引き裂かれて、そりゃあむごい様子だってことだ」

 「ああ、ズイムの村の話だろ? こわいねぇ、このマハンから目と鼻の先じゃないか。そんなところにまで獣人たちがうろついているのか」

 「獣界の森は食い物がないらしいからな。人里に出てきて、村を襲いやがるのさ。ズイムなんざ、女子供まで皆殺しだっていうぜ」

 「魔族がいなくなって平和になったと思ったら、これだからな。こうなったら、セイダール公爵に、なんとか獣人どもを討伐してもらわなきゃあな」

 「あの、話の途中で悪いんですが」

 思い切ってキズマは二人に話しかけた。

 見知らぬ若者に声をかけられて、男たちは怪訝そうな表情を浮かべる。

 キズマは旅の者だと自己紹介し、二人に高い酒をおごった。すぐに男たちは顔をゆるめた。

 「で、さっき話していたことなんですが、獣人が人の村を襲ったっていうのは本当ですか?」

 「本当だとも。このところ、襲われる村が続出していてな、次はマハンじゃないかっていう噂もあるくらいだぜ」

 二人の男のうち、年かさの方が言った。

 「しかし、獣人は人間とずっと共存してきたはずでしょう。混血だってあるくらいだし」

 キズマが言いかけるのを若い方がさえぎった。

 「待ちな、にいちゃん。獣人は確かに魔族じゃあねえ。だがよ、人間でもないぜ。ケダモンだ。現にたくさんの村が襲われて全滅している。死体には鋭い牙や爪の跡がある。セイダール公爵の巡羅隊も村を襲う獣人の群れを見ているしな」

 「セイダール公爵……?」

 「知らねえのか? まあ旅行者じゃしょうがねえな。セイダール公爵っつーのは、マハンの青(東)の丘陵地帯を治める、地方領主ってやつだな。魔族のやつらがいなくなってからこっち、獣人どもが暴れ出したのを、軍隊を出して討伐してくれているんだ」

 「青の丘には以前は山賊団が住み着いていたと思ったのですが、いつの間に公爵の領地になったんですか?」

 キズマの問いに男たちはぎょっとしたような表情を浮かべた。年かさのほうが探るようにキズマを見る。

 「なんだ、にいちゃん、あんた、このへんのことに詳しくなかったんじゃないのか?」

 「以前……一年以上前ですけど、マハンにしばらく暮らしていたことがあるもんですから」

 キズマの答えに男たちは顔を見あわせた。視線がすばやく走ったかと思うと、二人とも酒をあおり始めた。

 「ま、おれたちも噂話でしか知らないからな。山賊団も公爵が追い出しちまったんだろう」

 これで話は終わりだと言わんばかりにキズマに対して無関心になる。

 だが、キズマは問いかけを続けた。

 「山賊団は魔族と組んで、街道を荒らし、獣界にも攻め入ろうとしていました。最終的にはマハンを攻め落として、ファジーン大陸第三の王国を建設することを目指していたはずですが、彼らはどこに消えてしまったんでしょう?」

 「知らねえよ、だから、セイダールさまがやっつけなさったんだろう!」

 若いほうが面倒くさげに言った。

 年かさが、若い男の脇をつつき、それからおもむろにキズマに言う。

 「酒をおごってもらってすまないが、おれたちは別の話がしたいんでな。悪いが放っておいてくれんか」

 とまで言われては強いて会話を続けるわけにはいかない。キズマは礼を言って、席を立った。明日はゴースに事情を聞きにいかねばなるまい、と思っていた。その結果、出発を延ばすことになるかもしれない、とも。

 キズマが部屋に戻りはじめた時だ。

 ドアベルが激しく鳴った。血相を変えた男―――たぶん、この店の常連なのだろう―――が飛びこんで来た。

 「マスター、たいへんだぜ! 獣人が、血まみれの獣人が町に入って来たそうだ! 門をむりやり押し破ってな!」

 「なんだと!?」

 客たちも顔色を変えて立ち上がった。彼らはみんなこの付近に住んでいる連中なのだ。家のことが心配になったのだろう。

 「数は!? 自警団は動いているのか!?」

 宿屋の主人で夜はバーカウンターの中に立つマスターが切迫した声を上げた。

 駆け込んできた男は大袈裟に肩をすくめた。

 「数は―――一匹らしい。ゴースさんのところへはもう連絡が入っているから、きっと自警団も出動したろう。とにかく、おれはこのことをみんなに知らせなくちゃ」

 言うなり、男は店を飛び出していった。別の店に知らせに行くつもりなのだろう。

 「おいおい、本当に獣人が攻めてきやがったぜ」

 「やっぱり、マハンが狙いだったんだな。これではっきりしたぜ」

二人連れの男たちが興奮した口調で言った。


      6

 バーに来ていた客の半分は獣人を見に走り、あとの半分は家人を心配して家に戻った。

 キズマはむろん前者の組だ。

 バーは開店休業の状態だ。マスター本人も獣人がいるという大門のほうへと率先して走りだしてしまったからだ。

 見ると、あちこちの店から同様に男たちが群がり出ている。進む方角はおおむね一緒だ。

 大門に近づくと、人垣にぶつかった。野次馬たちだ。

 制服姿の男たちが野次馬を制している。自警団だ。かつては魔族から町を守るために組織された有志からなる警備組織で、現在でも治安維持機構として機能している。ゴースがその肝いりだ。かつては住民の男たちの大半がこの自警団に参加していた。

 獣人現わるとの報がたちまちのうちに広がったのも、かつての自警団の連絡網の名残だったのだ。集まってきた男たちも以前は自警団に加わっていた腕に覚えのある連中ばかりなのだ。

 キズマは人ごみをかき分けて、前に進んだ。予感があった。そして、聞こえてきた吠え声がその予感の正しいことを裏づけた。

 「くそっ! 放しやがれ、このアホがっ!」

 門から町に入ったところは広場になっており、松明の光で赤々と照らされている。その中央に一人の獣人が縛りあげられ、喚き散らしている。

 武装した自警団の若者たちが十数人、ゆだんなく獣人を監視している。

 獣人は、果たしてアスラであった。人間用の衣服で旅装をし、背中には大きな荷物をくくりつけている。

両手と両足を鎖で結わえられ、立ち上がることもできないようだ。

 口元は血の赤で濡れている。狂暴そうな黄金色の目がまわりの自警団員たちを憎々しげに睨んでいる。

 「アスラ! いったいどうしたんだ!?」

 キズマは呼びかけながら、アスラの方に近寄った。

 アスラはキズマを認めると、救いを見出した迷子のような表情を垣間見せた。

 「おうっ! キズマじゃねえか! いいところに来てくれた! こいつらに説明してくれっ! このおれが英雄キズマの仲間のアスラさまだってことをな!」

 キズマはその場の隊長格と見える青年に話しかけた。

 「一体、アスラが――この獣人がなにをしたというんです?」

 隊長格の青年はうさん臭げにキズマを見おろした。この青年は、中背のキズマよりも頭半分背が高い。

 「なんだ、あんたは……」

 「ぼくはキズマ。以前、ゴースさんのところに厄介になっていた者です。今はサラデア国王に寄食する身で、旅の途中でマハンに立ち寄ったのです」

 「ゴースさんの……?」

 サラデア国王うんぬんよりも、この町ではゴースの名前の方がきく。確かに青年の表情が変わった。本当ならば用心せねば、という感じだ。

 「で、この男、アスラがいったい何をしたというんです? 彼はぼくの旅の仲間で、このマハンで合流することになっていたんです。怪しい者じゃありません」

 キズマの言葉にアスラは勢いを得たようだ。

 「そうだ! とっとと鎖を外しやがれってんだ! ひとがおとなしくしていりゃ、図に乗りやがってよ!」

 鎖を地面に叩きつけながら喚く。

 「だまれっ! 関門破りがっ!」

 青年が一喝する。と、その落ち着いた黒い瞳をキズマに向き直して、

 「あんたの話が本当だとしても、この獣人を放免することはできん。このマハンの大門は夜は閉ざされるのが決まりだ。町に入りたい者は、この門の外で夜明かしし、朝の開門まで待たねばならぬ。それを、この獣人は守らず、門番に罵声を投げかけ、ついには門によじ登って、むりやりに入り込んだ。さらに、それを制そうとした門番にも暴行を加えた。門番は顎の骨を折る大怪我をしたのだぞ」

 キズマはアスラを見た。アスラが黙ったところを見ると、事実らしい。

 「それに、その口の周りの血痕もあやしい。噂ではこのあたりの村が次々と獣人に襲われているというしな」

 「これは野兎の血だ!」

 アスラは反論した。

 「夜にこの町の外まで来て、門が閉まっていたからな、腹も空いていたし、しょうがないから野兎をとっつかまえて食ったんだ。それが悪いのかよ!?」

 「野兎ならば別にかまわん。だが、それが人間ではなかったと証明できるか!?」

 青年はアスラを辛辣な言葉で打ちすえた。

 アスラは顔を歪めた。怒りと驚愕にだ。

 「おまえ、おれが、人を食うと思っているのか? おれも、人間なんだぞ!?」

 「おまえは獣人だ。人間ではない。現に、多くの村が獣人に滅ぼされているではないか」

 「殺してやるっ!」

 アスラの顔面が激怒に歪み、白い牙がむき出される。

 全身が膨れあがったように緊張し、鎖が悲鳴をあげた。

 アスラが戦闘体勢に入ると、筋力はさらに増加し、爪の鋭さも増す。ふだんとは比較にならないほどのパワーが生み出されるのだ。

 鋼鉄の連鎖が弾け飛び、無数のピースに分かたれる。巨体が起きあがり、さらに筋肉を誇示するように胸を張る。人間用の服などは簡単に裂けてしまい、剛毛で覆われた大胸筋がビクビク動く。むろん、背中の荷物も吹き飛び、背中の毛も剥き出しだ。

 「うわあっ! 暴れ出したぞ!」

 自警団員たちは一瞬逃げ腰になる。だが、数歩さがって踏みとどまり、剣や槍などの得物を手に、獣人を睨みつける。なにしろ、周囲は全員味方だ。野次馬たちのほうが、対魔族戦ではキャリアが長いくらいだ。ここで弱腰を見せたら、何を言われるかわかったものではない。

 「誰から殺されたい!? この英雄アスラさまに歯向かうやつは誰だ!?」

 「よせ、アスラ! こんなことをしたら、立場が悪くなるだけだぞ!」

 キズマがアスラの前に立って、大声でいさめる。

 「黙れっ! おれをけだもの呼ばわりしやがって、こいつら許さん!」

 「アスラ!」

 アスラはキズマを押しのけて、自警団員たちに迫ろうとした。

 その背後より、門の外より、大音声が呼ばわった。

 「開門! 開門! われはセイダール公なり! 独立都市マハンの自治委員会との会見を所望す、ゆえに開門! 開門を!」

 隊長格の青年が、はっと我に返る。

 大門に走ると、門にうがたれた小窓を開いた。

 外となにごとか会話をしているらしい。

アスラも毒気を抜かれた格好で、立ちつくしていた。

 青年は納得がいったのか、門を開くように指示した。

 からくりを内部から操作し、大門がゆっくりと開きはじめる。

 門がある程度開くやいなや、騎馬が数騎広場に駆け入った。

 そして、一切の警告なしに、馬上より矢を射った。

 三本の矢が空を切り、アスラの広い背中に突き立った。

 「がはっ!」

 うめき、膝をつく。

 キズマはあまりのことに声を失いつつも、第二射からアスラを守らんとして、その背中をかばい立った。

 「どけ! その獣人はララトの村を襲った憎むべきやつ! この場で射殺してくれる!」

 騎馬兵が大音声をはなつ。野次馬たちがざわめく。ララトはマハンのほとんど隣にあるといってもいい村で、ララトからマハンに働きに来ている者も多い。

 「ララトが、ララトが襲われたのか!? ひ、被害は!?」

 悲鳴に近い声で喚いた者がある。野次馬の一人だ。ララトに家を持つ者なのだろう。

 「残念だが、全滅だ。間に合わなかった。子供に至るまでが皆殺しだ。獣人どもによってな」

 騎馬兵が痛恨の想いを声にこめて、悲痛な口調で告げた。

 男は絶叫した。

 彼だけではない。野次馬として集まっていた人々の多くが、ララトに親戚や友人を持っていた。

 「おれは……おれは関係ないぜ……」

 アスラが喉から声を絞りだした。

 「おれは獣人かもしれねえが、気持ちのうえでは人間だ。人間のために働いた英雄だ。サラデアでは、みんなそう言っている……」

 「黙れ! おまえら獣人がララトの次にマハンを狙うのはわかっておったわ。さしづめおまえは斥候として町に入り、頃合を見計らって内側から門を開くつもりであったのだろう!」

 騎馬兵はきめつけた。

 野次馬たちの間から殺意が沸き起こる。

 「けだものめ、ぶち殺してやる!」

 先程絶叫をはなった男が双眸に憎悪をたたえて、一歩踏み出した。

 アスラに向かって。

 野次馬たちがじりじりと接近する。

 「やめろ! おれは何もしていねえ!」

 悲鳴に近い声をアスラはあげた。顔が恐怖に歪んでいる。肉体的な苦痛というよりも、精神的に追いつめられているようだ。

 「よせ! アスラはサラデアから来て、今夜マハンに着いたんだ! このあたりの村の襲撃に関わっていたはずはない!」

 キズマが声を限りに叫ぶが、効果はない。自警団員を先頭に、怒りに燃えた男たちが壁のようになって迫ってくる。

 門の方からは、続々と騎馬兵が入って来る。

 白馬にまたがり、ひときわ立派な甲冑に身を固めているのが、どうやらセイダール公らしい。美髭を長々と垂らし、眉は濃く、鼻筋も隆々。四十代半ばと見える、実に堂々とした男である。手には宝石が象嵌された黒塗りの采配を持っている。

 騎兵は全部で五十騎ほど。鎧や槍に血痕がべっとりとついているところを見ると、今し方まで敵と切り結んでいたのだろう。

 「ここに逃げ込んでいたか、獣人め! ようやくと追い詰めたぞ!」

 セイダール公とおぼしき美髭の男が、朗々とした音声でアスラを糾弾する。さらに、手にした采配を振るい、部下に下命する。

 「からめとり、やつらの本拠地を聞き出すのだ!」

 おうっ、という気合とともに、騎馬が迫る。

 キズマは丸腰だ。どうしようもない。ただ、前後から迫る敵からアスラをいかにかばうか、それだけを考えていた。

 以前なら、こんな時必ず仲間が助けに来てくれた。ファータやトトが。

 だが、今は無理だ。

 アスラはうずくまり、とらわれの小動物のような目をした。背中の矢傷から流れ出す血は彼の体毛を赤く染めあげている。

 騎馬兵が殺到する。彼らにアスラを奪われまいと考えてか、自警団と野次馬たちが走りだす。

 彼らを押しとどめようと、立ちふさがったキズマを野次馬たちが引き倒し、さらには馬蹄が踏みしだこうとした時、広場を鋭い声が貫いた。

 「おやめ!」

 という叫びと、さらに説得力に富んだ音。銃声だ。

 銃声は立て続けだ。発射間隔が短い。ほとんど連射している。

 さしもの騎馬兵も馬のおびえを収めるために突進をやめ、野次馬たちも動きをとめた。

 ゆっくりと、人影が近づく。人混みがさあっと分かれ、道をつくる。

 片手にひとつずつ大型の火筒を持った女―――ゴースである。火筒の先端からは青白い煙が立ちのぼっている。大の男でも反動に手を焼く大型の火筒を、片手で自在に操り、連射して見せたのだ。

 ゴースはキズマのそばで足をとめ、それから自警団の隊長格の青年に目を向けた。

 青年は打たれたように身体を硬直させた。

 「情けないねえ、ウル。野次馬ひとつ抑えられないのかい。それに、あたしにも諮らず勝手に門を開けて、どういうつもりだい?」

 ウルと呼ばれた青年は泣きそうな表情になって、顔をふせた。

次にゴースは美髭の男に向きなおる。

 「セイダール公、夜中のご訪問はお断りだよ。なにしろ睡眠は肌の若さを保つのに不可欠なもんでね」

 美髭の中年男、セイダールは馬上で大袈裟に肩をすぼめた。

 「それはそれはマダム、失礼をいたしました。ただ、ことは緊急を要することでしてな。先程、われらの巡羅隊がララトの村を集団で襲う獣人どもと遭遇しましてな、戦闘の末、追い散らしたうちの一匹がこのマハンに向かったと知り、こうして退治に参ったわけです」

 ゴースの眉根がしかめられる。

 「ララトが……? ララトには自警団の一部を差し向けていたんだ。獣人の噂はあたしも聞いていたからね。獣人を見掛けたら、狼煙を上げるように命じてあったのに」

 「それは用意のよいこと。ただ、やつら神出鬼没、つかみどころのない敵ですからな。突然奇襲を受けて、そんな暇もなかったのでしょう。とにかく、村は全滅でひどいありさまです」

 痛ましげにセイダールは言うと、表情をあらため、采配をぴしりと鳴らしてアスラを指した。

 「こやつをわれらで収監し、獣人どもを一網打尽にするための情報を得たいと存じます。ゴースどのにはよろしくご許可をいただきたい」

 「ゴース、こいつはおれの仲間で、サラデアからおれたちを追って来たんだ。絶対に村を襲撃なんかしていない!」

 キズマが訴えた。

 ゴースは目を細めた。ふっと周囲を見渡し、野次馬たちの様子を察する。と、セイダールに対して穏やかな口調で言う。

 「セイダール、ここはマハン、あたしらの町だ。あんたの勝手にはさせないよ」

 セイダールは髭を震わせた。笑ったのだ。

 「だが、現にマハン周辺の村は次々と襲われておりますな。多くの村から、われわれに守って欲しいとの要請が来ております。こう言っては差し障りがあるが、どうもここの自警団は頼りない。そんな獣人一匹に手こずっているようではね」

 セイダールは当てこすりを隠さなかった。自警団の団員たちは顔をあげられない様子だ。野次馬たちの顔という顔に同意の色が浮かんでいるのがわかっているからだ。

 人々の支持を受けているという自信があるためか、セイダールは胸をそらし、自信に満ちた口調で続ける。

 「さあ、獣人を渡してもらいましょうか。それとも、そこの若者の言うことを信じて、お咎めなしとされるおつもりか。マダムは、どうやら若者を周囲にはべらすのがお好きなようだから、その子の言うことなら何でもかなえてしまいそうですな」

 さしものゴースも返答に詰まった。

 その時、アスラが起きあがった。

 切迫した表情でセイダールに叫びかける。

 「おれは他の獣人の仲間じゃねえ! それを証明させてくれ!」

 セイダールは昂然と顎を跳ねあげ、視線をアスラにくだしおいた。まさに家畜を見るような視線だ。

 「証明だと……? どうするつもりなのだ?」

 「戦わせてくれ! おれの手でやつらを退治してやる!」

 アスラは前肢の長い爪を剥き出し、殺気ばしった声をほとばしらせた。

 「おい、アスラ……!」

 キズマはアスラをとめようとした。このあたりに住む獣人とは、アスラの同族であるかもしれないのだ。

 だが、それをこの場で指摘すれば、アスラの潔白をキズマが否定してしまうのに等しい。キズマは言葉を続けられなかった。

 セイダールの傲岸な声が降る。面白がっているような声だ。

 「ほう……おまえが獣人を滅ぼすというのか。確かに獣人には獣人を戦いあわせるのが相応というものかもしれん。よかろう、望むならば獣人退治に同行させてやろう。そして、悪しき獣人どもをその爪と牙とで見事引き裂いたなら、おまえの言い分を認めてやってもよいぞ」

 アスラの表情が人間のそれのように複雑に変化した。おびえ、打算、そして会心の笑みへと。

 「ありがてえ! 役に立ってみせるぜ!」

 「アスラ、おまえ、自分が何をしようとしているのか、わかっているのか?」

 キズマが堪え切れずに口を出す。

 そのキズマをアスラは睨みつけた。

 「うるせえ! 悪い獣人を退治するんだ。英雄の仕事としては別に恥ずかしいことじゃねえだろうがよ! それに、こうでもしなけれゃ殺されっちまうじゃねえか!」

 その反論にキズマは一言もない。キズマの力ではアスラに対する人々の疑いと憎悪とを拭い去ることはできないのはすでに明らかだ。

 「ということで、支障はございませんな、マダム」

 セイダールは嫌味なくらいに手を入れた髭をひねくりながら、ゴースに念を押した。すでに勝ち誇っている。

 ゴースは不快そうに表情を固め、それでもうなずいた。

 「勝手にしな」

 為政者としてはマハンの町からトラブルの種が持ち出されるのは歓迎すべきことであろう。だからといって、嬉しそうな顔をすることもできないのだ。


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