スフィア

琴鳴

エピローグ・決戦

      1

 すべてがここに終わろうとしている。

 キズマは仲間たちを見わたした。

 獣人の格闘士アスラ。

 エルフの戦士ファータ。

 ホビットの賢者トト。

 そしてキズマは人間のアーチャーだ。

 全部で四人。一人も欠けずにここまでこれたのは、それぞれが自分の仕事を果たしたからだ。

 アスラがまず敵の前衛を叩き、次にファータが敵陣に斬りこむ。トトが呪文で援護し、崩れたった敵の中核をキズマの矢が射抜く。

 その戦法で、これまで勝ち抜いてきた。

 むろん、容易な戦いではなかった。誰もが命を落としかねないほどの傷を負いつつ、なんとか生き延びてきたのだ。

 それもすべて、スフィアの平和のため。魔軍の蹂躙に抗するすべを持たない人々を守るため。そして、囚われのヴァルジニアを救出するため、であった。

 「ヴァルジニア……」

 キズマはつぶやく。その横顔をファータが兜の奥から見つめている。そのファータをやや下がって見守るアスラがいる。そしてトトが静かに告げる。

 「行こう。ゾーヴァの神殿―――死の寺院はすぐそこだ」

 「おおっ! やつめ、おれの爪で引き裂いてやる!」

 全身が獣毛で覆われたアスラが喚いた。振りあげた手の爪は鋭く尖り、鉤のように曲がっている。

 「ゾーヴァはわたしが仕留めるわ。この剣で」

 ファータは抜き身を顔の前で直立させ、静かな口調で言った。剣は鞘に収める暇もなく魔物の体液に濡れている。

 「いや、おれだ。おれがとどめを刺す。ファータは黙って見ていればいい」

 アスラがむきになって言う。成熟が早い獣人とはいえ、まだ八歳という年齢だ。気負いがどうしても先にたつ。

 「とどめを刺すのは誰でもいいが、大怪我をせんでほしいものだな。戦いの最中に回復の呪文を使うのは案外に疲れるものだからな」

 にこりともせずにトトが言う。老人のような外見と口調だが、彼とてもまだ三十歳になるかならぬかだ。

 「トト、魔力は大丈夫か? 今朝からほとんど休みなしに戦ってきたからな」

 キズマがトトに心配そうな顔を向ける。キズマの仲間で呪文を使えるのはトト一人きりだ。攻撃はむろん、回復、戦闘補助に至るまで、トトに求められる役割は多い。

 「なあに、わしは後ろで楽をしているからな。あとゾーヴァ一匹くらい、どうということはないわい」

 トトの答えは軽快だった。

 だが、キズマはわかっている。トトの精神力はほとんど限界に近い。呪文を使うために消費される精神力は、少々の休息では回復しないのだ。

 とはいえ、キズマ自身も全身に大小の傷を受けている。先程くらった肩口への一撃などは、肩当てごしとはいえ、骨をくだきかねない衝撃だった。痛みがまったくひかず、熱を持っているところをみると、もしかしたら骨の一部が砕けているのかもしれない。強力な薬草とトトの呪文でもたせてはいるが、ふつうなら痛みで失神し、とても弓を引くどころではあるまい。

 そしてそれは、肉弾戦をむねとするアスラやファータに至っては一層深刻なものとして蓄積しているであろう。

 全員が満身創痍、疲労の極みにあるのであった。

 それでも行かねばならない。最後の決戦のために。

 最後にして最強の敵、ゾーヴァが待ち受ける魔王の神殿、ギンヌンガ・ガップの死の寺院へ。


 巨大な扉がひとりでに開いていく。無数の人骨によって紋様が形作られている扉のむこうはまさに魔窟だ。床を染め上げる赤は、数多の罪なき人々の流した血潮の色なのであろうか。

 殺戮と略奪を無上の喜びとする魔軍の総帥、ゾーヴァの本拠である。

 魔軍を構成する魔族の出自は謎につつまれている。なにゆえにこの世に生み出されたのかまったくわからない。どんな古文書にも載っていない。古文書に語られているのは、ただ―――魔族ありき。魔族こぞりてスフィアに大禍なさん。こを魔軍と呼ぶべし―――との記述のみ。太古よりスフィアの人々は魔族に苦しめられ、その災厄から身を守るのに汲々としていたのだ。

 だが、闇を貫く光輝はいつの世にもある。スフィアにも闇を駆逐する光は存在する。

 イシュアプラのクイラ。

 イシュアプラとはスフィアの天頂に住むとされる神人だ。

 クイラこそ、イシュアプラのすべてであり一人なのだ。

 イシュアプラのクイラはスフィアのすべての命を嘉し、慈しみ、守る。

 魔軍と直接戦うことはしないが、スフィアを守ろうとする戦士を守護し、時に大いなる奇跡の力を授ける。それが秘力と呼ばれるものだ。

 秘力を能く使う者は英雄となり、魔軍を打ち破り、スフィアにしばしの平穏と繁栄をもたらす。

 だがしかし、秘力をわたくしし、邪なる目的のために用いれば、すなわちそれは世界に仇なす者となる。そのような者はイシュアプラのクイラの怒りに触れ、その存在を完全に抹消される。

 イシュアプラのクイラがどんな姿をしているのか、絵図はなく伝承もない。それが男の姿をしているのか女の身体を持つのかさえ、伝えるものはなにひとつない。なぜならば、イシュアプラのクイラに出会った者はすなわち秘力を得るからだ。秘力を得た者は人を超える。ために、イシュアプラのクイラのことを他人に漏らすことなどはありえないのだ。

 キズマの曾祖父トザがそうだった。

 トザは青年の頃、狩りの途中で熊と争い、瀕死の重傷を負った。仲間ともはぐれ、ただ死を待つのみであったが、不思議なことに自力で村に戻った。それから誰よりも壮健になり、百歳の誕生日の朝に息を引き取るまで、病気ひとつしなかった。死んだ朝も、じいさまにはめずらしく朝寝をするものだと家人は思い、うっちゃっておいたほどだ。それほどまでに安らかな死に顔だった。

 むろん、トザは生前にイシュアプラのクイラについて語ったことはほとんどなかった。

 だが、死後見つけられた彼の手記によってイシュアプラのクイラと出会っていたことがわかったのだ。

 イシュアプラのクイラは、虫の息のトザに向かって言ったという。

 「汝は子をなさねばならぬ。がゆえに力を授け、命を永らえることを許す。ただ、おぼえおけ。汝が命は汝のものにあらず。さらに時を経、汝の血が続く果てに、真の果実をば得ん。汝が子がなした子がその果実の育み手にならんことを約す」

 そして、トザの死した日の夕にキズマはこの世に生を受けた。

 キズマは十七歳になった年に、ゾーヴァとの闘いに身を投じた。

 そしておよそ一年の時が過ぎ、ついに闘いは最後の局面を迎えようとしていた。

 扉の向こうには、とてつもない面積の広間があった。地平線が見えるほどに広い部屋だ。むろん、これは魔王の力のせいだ。

 「ちっ、迷路ならちっとは慣れたが、こうまで何もないとどっちに行ったらいいのか、わからんぜ」

 アスラが吐き捨てるように言った。

 「おまえの鼻ならば、ゾーヴァの匂いを嗅ぎ分けられようが。なんのための獣の血ぞ」

 トトが揶揄する。

 アスラは毛むくじゃらの顔を険悪にゆがませて、矮人を睨みつけた。

 「いっておくが、ちびの賢者どのよ、おれにはあいにくとゾーヴァのわきがをかぐ趣味はなくてなあ。おまえさんの魔族探索の術のほうが役にたつんじゃないか?」

 「知らぬのか、ゾーヴァめは魔族探索の術にはかからぬ。魔族を率いるものに限って魔族らしからぬ性質を持っているものでな」

 トトがあっさりと受け流す。だが、それでは、この広すぎる広間で迷子ということになってしまうではないか。

 「どうするの、キズマ」

 ファータがキズマに訊く。誰が決めたわけでもなく、キズマがこの集団の統率役ということになってしまっている。当初はそれが不満顔だったアスラも、今ではまったく自然なことだと考えているようだ。

 キズマは一瞬考えてから、ふとある方角に顔を向け、言った。

 「こっちだ。この先に、やつはいる」

 確信を持った言だ。それが秘力のためであるのか、単なる勘か、ほんとうのところは誰にもわからない。だが、ファータたちはそれをキズマの秘力と信じているし、現にそのおかげでこれまで生き延びてこれたのだ。

 「ヴァルジニアの、匂いがする」

 と付け加えたキズマの言葉に、ファータの唇がひくりと引きつる。顔の上半分は兜に隠れて見えはしないから、それが笑いなのか怒りなのか哀しみなのかは判別できない。

 一行は歩き出した。アスラが先頭を行く。

 数歩と歩まぬうちに、床を突き抜けて、魔族が現れた。

 骨と腐肉がからみあった異形のものだ。人型であったり、四つ足であったり、その姿勢はさまざまだ。人間や獣の死体を組みあわせて作られている魔物、ゾンビー・キメラである。

 「しゃらくせぇっ!」

 喚きながらアスラが突進する。鋭い爪で腐肉を裂き、骨をへし折っていく。

 いつものことながら、これはしかし暴走だ。

 行く手を破壊しながら進むはいいが、背後にも新たな異形が現れて、たちまちアスラは敵に包囲される。

 「もう、あの毛むくじゃらっ!」

 小さく毒づいてファータが援護に走る。

 ファータは小柄な身体には似ない長剣を振るう。剣の銘は鬼修羅。魔法鍛冶の手になる逸品だ。

 その刃は鋭いというよりも重い。巨漢の男でも扱いに苦労するであろう大剣を、ファータはレイピアでもあるように軽々と使う。剣先の運びも、十分な膂力に支えられた余裕のあるものだ。しかしそれが、彼女が身にまとう魔法鎧のおかげであることは、一緒に旅をしてきたキズマたちにはわかっている。

 ファータの操る鬼修羅によって、柔らかい腐肉の魔は次々と屠られる。

 アスラは背後に迫っていた敵をファータに撃退してもらって、やや気色ばむ。

 「おいおいおいおいっ! おれの獲物を横取りするなよな!」

 「なにを強がっているの、さっき背中がガラあきだったわよ」

 ファータの指摘にアスラは黙りこむ。外見はともかく生きてきた年月があまりに隔たっている。アスラはファータに反論できるだけの経験は持ちあわせていないのだ。

 だが、ファータもアスラもやや軽挙に過ぎた。ここはゾーヴァの本拠地、ゾンビー・キメラのごとき雑魚のみが待ち受けるはずもない。

 ぞむるるる。

 不快な震動とともに、床から肉が盛りあがる。そしてそれは巨大な牡牛の姿になる。牡牛の背中には半透明の羽が生え、その両眼は緑色に輝き燃えている。

 ガーシュウィン・デーモンだ。魔法を使う強敵である。

 るぐるららる。

 デーモンが唸ると、それはたちまち眠りの霧になり、アスラとファータを包みこんだ。

 「いかんっ!」

 トトが慌てて対抗呪文を唱えるが、遅い。アスラはあっさりと眠りに落ち、ファータは抗うように剣を二三度振ったものの、標的に届くこともなく膝から崩れ落ちる。

 デーモンは巨躯をめぐらせ、キズマとトトを睨む。

 邪眼だ。目を見れば動きを封じられる。

 そして、頭蓋をかじられる。デーモンは生きた人間の頭部を噛み砕くのが大好きなのだ。

 「みるなっ!」

 トトの叫び。

 だが、キズマはデーモンの目を見てしまっていた。

 邪眼が迫る。キズマの目から、その内側へ、心へと邪眼の放つ負のオーラが広がっていく。

 だが、しかし。キズマはあえて眼をそらさない。

 邪眼を真っ向から見据えた。

 秘力が湧きあがる。知っている、キズマは。秘力は使役するものではないということを。危地にあれば、おのずから出ずるものなのだ。ゆえにあえてキズマはデーモンの視線に身をさらしたのだ。

 キズマの全身を光輝のオーラが覆う。邪眼を跳ね返してあまりある強靭さだ。

 デーモンの方が先に眼をそらしてしまった。

 かなわぬとみたのか、デーモンはきびすを返し、倒れ伏しているアスラとファータに向かった。一人でも多く道連れにしようと思ったのか。

 だが、キズマは手にした強弓を構えると、矢を一箭たばさんだ。

 「滅せよ!」

 秘力を鏃にこめ、放つ一矢に外れはない。

 矢はデーモンの首筋に命中する。

 ぐるろあああ。

 内臓が爛れるような醜い音とともに黒い霧がデーモンに肉体から立ちのぼる。魔族の死は闇への帰還だ。ために、全身から黒の瘴気を放ちつつ、現世から去るのだ。

 デーモンが消滅すると、その魔法の力も同時に失せ、アスラとファータの意識も戻る。

 「くそっ、不覚だった」

 ファータが舌打ちをする。

 「ふぁーあ、よく寝たなあ」

 と伸びをするアスラとは対照的だ。

 「アスラ、あんたが突出するからこんなことになったんでしょ、反省しなさい!」

 ファータが叱責の声を叩きつけるのを、アスラは肩をすくめ、

 「だいたい、魔法を使うやつは好かん」

 などとうそぶく。肉弾戦の一手あるのみ、という格闘士なのだからそれも当然かもしれないが。

 「気を引き締めろよ、アスラ。死んだら元も子もないぞ」

 キズマが注意を促し、トトもそれに言葉を重ねる。

 「さよう、さよう。いかにわしが高徳の賢者とて、死者を呼び戻す秘術までは知らぬのでな」

 言ってから、トト本人が誰より顔を暗くした。

 「そうとも……死んだ者は二度と蘇れぬのだ」


      3

 さらに一行は何度か敵と遭遇したが、今度はさすがにアスラも突進をせず、集団戦を心掛けたので、さほどの苦戦はしなかった。

 「しかし、行けども行けども何もない部屋だな。四方に壁さえ見えんというのは、いったいどういうものだ」

 アスラが愚痴るが、詮無いことだ。部屋に入った瞬間に出口も消えてしまい、ただ広いだけの部屋に放り出されたのだ。この手の魔法の部屋に入ったのは、一行とて初めてのことではない。だから、経験的にわかっている。その魔法のかけ主―――ここではゾーヴァ―――を倒さねば、ここから出られることはない、と。

 「この建物そのものが罠なのだ。ゾーヴァがこの地、ギンヌンガ・ガップに死の寺院を建立したのも、われらをおびき寄せんがため。それと知りつつわれらはやってきた。されば、われらはすでにゾーヴァの手のなかにあるも同然」

 トトの言辞は屈折しているが、言いたいことは仲間には伝わっている。

 「何が起こっても不思議はない。ゆめゆめ油断するなかれ……でしょ」

 ファータが先回りして結論を言ってしまう。

 「むむむ」

 きまり悪げにトトがうなる。

 「もう聞きあきたぜ、いいかげん」

 と、アスラが追いうちをかけようとした瞬間、一行の足元の床が消えた。

 落ちる。

 下に。

 「ほうら、見たことか。やっぱり思わぬところに陥穽は口を開けようが」

 落ちながら、トトが自慢げに言う。

 「こんな時にいばらないでよっ!」

 ファータが喚く。その声はすぐに悲鳴に変わる。

 きゃあああああ―――

 じきに息が切れた。

 「まだ下に着かないのかしら」

 つまらなそう、と表現さえできる声音でファータが言った。

 全員が空中に漂っている感じだ。だが、おぼろに見て取れる周囲の壁がもの凄い速さで上へ上へと移動しているところからすると、やっぱり落ち続けているらしい。

 「わしが察するに、これがギンヌンガ・ガップと呼ばれるものじゃな」

 と、言ったのはトトだ。腕を組んで、噛んで含めるように続ける。

 「なんとなれば、ギンヌンガ・ガップとは深い裂け目のことじゃ。このスフィアと外部とをつなぐ長大な竪穴というてよい。であれば、いつまで経っても底がないというのもわかる。なにしろ、スフィアの地面も深いでな。鉱山の坑道をみればわかるが、どこまで掘っても土と岩ばかりだ。それらを突き抜けて外に出るにはなまなかなことではないわい」

 「ということは、おれたちはスフィアの外に出てしまうのか?」

 キズマは未知に対するおびえをすら感じつつ、言った。

 「さあな……。ただ、これもゾーヴァの仕掛けた罠であることには違いない。いずれにせよ、もうすぐやつに逢えることは間違いないわい」

 トトは表情のない声で言ったが、技巧では包み隠せない激情が、語尾のわずかな震えに露呈していた。

 トトの予言は正しかった。落下の速度が緩まったかと思いきや、突然眼下にきらびやかな床が見えた。

 クリスタルの床だ。ほのかな光を反射してきらきらと光り輝いている。

 「あれがギンヌンガ・ガップの底……なのか」

 キズマは呟き、目を凝らした。

 「ぶつかっちゃう!」

 ファータが娘らしい悲鳴を上げた。行き着く先が見えたとたん、恐怖がよみがえったらしい。

 だが、床が迫るにしたがい、落下速度が鈍化した。まるで、下から空気の塊が手を差し伸べてくれているようだ。

 徐々に速度が収まり、ほとんど静止状態でキズマたちは着床した。

 クリスタルの床は、間近で見ると完全な透明だった。上から見おろしていた時には、カッティングが光を反射して輝いていたが、いざ足を着けてみると、まるで何も物体が存在していないかのような心細さを覚える。

 足の下は暗黒。完全な闇だ。

 そして、底の世界には荒涼とした光景が広がっていた。

 見わたすかぎり続くクリスタルの床のはるか果てには灰色の壁が立ちふさがる。天井はない。頭上は巨大な空洞が口を開いているだけだ。

 キズマは地上を思った。緑こぼれ、命に満ちあふれる世界を。ここと何とかけ離れていることだろう。

 そもここは一体なんなのか。やはりゾーヴァの魔法が創り出した異界に過ぎないのか。しかし、ここはあまりに無機的だ。魔法が作り出す世界にはもっとあざとさがある。だとすれば、ここは本当にガップの底なのか。

 ゾーヴァたち魔王はスフィアの外からやって来る。やつらはガップから地上に現れる。

 だとしたら。

 ここがその入り口ということなのか。

 スフィアと外界との接点なのか。

 キズマは言葉もなく周囲を見渡した。

 トトもだ。賢者たらんと知識を貯え、スフィアにおいては万物に精通しているはずの彼が、ここにあっては一言も発し得ない。

 ファータだけは戦士らしく、すでに周囲に気を配り、油断なく剣を半構えにして屹立している。

 そして、アスラは。

 「寝るなよ」

 ファータが剣先でアスラの尻をつつく。

 落下中にすでに寝ていたらしい。着床後もそのまま平気で寝息を立てていたのだ。

 ファータにつつかれて、アスラは憤然と立ち上がった。

 「んだよっ! せっかく気持ちいいところだったのに」

 「暗かったら、どういう状況でも寝るの、きみは?」

 「暇だったからなあ」

 大きくあくびをしてアスラは言った。アスラたち獣人族は一日のおよそ六割を寝て暮らす。それだけの睡眠が必要なのだ。だからアスラも時間が空けば空いただけ、すぐに寝てしまうのだ。

 「へんなところだなあ、ここ。なんかまだ下に落っこちているような、いやな気分だぜ」

 アスラは透明な床を気味悪そうに見て、足場を確認するかのように何度も踏みしめてみた。

 「ようこそ、ギンヌンガ・ガップへ。歓迎するよ」

 不意に声が響いた。

 朗朗たる美声だ。まるで天上の楽器が打ち鳴らされたかのような。

 キズマは、ファータは、トトは、アスラは。

 全員が弾かれたように声の出た方角に視線を向けた。

 いた。

 壁の前にいつのまにか。

 男と、女。

 ゾーヴァと、囚われのヴァルジニアが。


     4

 「ここまでの艱難を、よくも乗り越えてこられたもの。心からおめでとうと言わせてもらおう」

 ゾーヴァは流麗な声で言った。

 身長はアスラよりも頭ひとつ以上高い。宝石が象嵌された漆黒の鎧に、やはり闇よりも深い色のマントを羽織っている。

 キズマは、そして他の者たちも、仇敵を目前にして、しかしやはり言葉を奪われずにはいられない。

 なんという美しさか。巨漢でありながらその肢体は伸びやかで、顔貌の形質は玲瓏そのもの。皮肉と残虐をたたえたいびつな笑みさえ、魅力的と言いうるほどだ。

 魔王とは多く、この世ならぬ容貌を持つのだ。

 そして、ゾーヴァの傍らには、魔王の華麗に比しても決して色あせぬ佳人が立っている。

 ヴァルジニアだ。サラデアの王女にして、スフィアの宝玉、イシュアプラの恋人―――その身に受ける尊称は数あれど、彼女が持つ美質を完全に言い表せる言葉は存在しない。姿のみならず心も澄みわたり、弱者に優しく、おごれる強者には毅然たる、まさに女性の王たる人だ。

 キズマはかつて、レムナの浮き城でヴァルジニアにまみえた。死霊と異形たちの充満する仮面舞踏会の雑踏のなかで、ただ一曲踊ったに過ぎないが、その瞬間からキズマの心にはヴァルジニアの姿が焼きついていた。

 その時と美しさは変わりない。だが、ブルーマリーンの瞳には生気がまるで感じられない。

 「ヴァルジニア!」

 キズマは叫んでいた。

 反応はない。ゾーヴァの左腕によりかかり、ただ前を見詰めているだけだ。

 「どうしたんだ、ヴァルジニア!」

 再度叫ぶキズマの声には焦燥の震えがあった。

 「無駄だよ。秘力持つ英雄、キズマ」

 ゾーヴァがからかい口調で言う。

 「この娘はレムナの浮き城にあった飛翔の鏡を割った。きみを呪文のかかった迷宮から脱出させるためにね。だが、飛翔の鏡の破片は心を貫くのだよ。無数の破片を受けたヴァルジニアの心は壊れ、今は人形のようなものだ」

 「なんだと……!?」

 キズマは目を見開いた。

 「すべてはきみのせいだ、英雄キズマ。秘力を受け継いだなどといいつつ、結局、イシュアプラの恋人を救い出すことはできなかった」

 ゾーヴァは辛辣に指摘した。言いつつ、ヴァルジニアの細いしなやかな身体を抱き寄せる。ヴァルジニアの表情に変化はない。ただされるがままだ。

 キズマの視界が急速に狭まっていく。怒りの発作が突きあげる。

 「いかん……!」

 トトが切迫した声をあげた。

 「やつめ、キズマを狂兵状態に追い込み、秘力を使わせないつもりだ!」

 秘力の扱いには常に止水の静謐が要求される。怒りに流されて暴走した力はすでに秘力ではありえず、その悪しき力はキズマ自身を滅ぼしかねない。キズマの最大の弱点は、おのが秘力を逆手にとられ、狂兵化されることなのだ。

 「アスラ!」

 ファータがアスラに声をかけた。

 「ゾーヴァをやるよ!」

 「おうとも!」

 獣人は吠えた。

 ファータは頬当てを閉じ、全身を鉄甲に封じる。魔法のかかった鎧がおぼろに発光し、黄金色に近づく。鬼修羅もだ。光っている。

 「トト、キズマを抑えていて! ゾーヴァはわたしたちでやるわ」

 「しかし……!」

 トトは躊躇した。ゾーヴァは強大な魔王だ。全員でかかって、なんとかいい勝負に持ち込めるかどうかだろう。それを、肉弾戦には長じているとはいえ、たった二人で突進して勝ち目があるはずがない。

 だが、このままキズマを放置してはおけない。ゾーヴァが仕掛けた狂兵の罠を外し、キズマに理性を取り戻させねばならない。

 「うがあああっ!」

 キズマは両眼を真っ赤に燃え上がらせ、常にない憎悪の感情を満面に噴出させていた。手にした強弓を引き絞る。つがえられた矢からは、心が冷えるような邪気が放出されていた。

 それが放たれれば、おそらくはゾーヴァの思う壷。悪しき力をゾーヴァは取り込み、より強大な力を手に入れるだろう。そして、秘力の正しきを見失ったキズマは自らの矢で滅ぶかもしれない。

 「やむをえん、行けっ! キズマはわしが鎮める!」

 トトは、既に走り出しているファータの背中に向かって叫んだ。

 ファータの兜からは、長い金髪がこぼれ出て、激しく揺れている。

 「死ぬなよ……」

 トトはエルフの戦士の後ろ姿にそう言葉を送ると、激しくうち震えているキズマへと向き直った。


      5

 「雑魚が。わたしの楽しみを長引かせてくれるとはありがたい」

 遊びに興じている子供のような無邪気さで、ゾーヴァは凶悪きわまりない笑みを浮かべる。

 「下がって見ているといい、ヴァルジニア。獣人とエルフを切り刻み、そうだな、新しいゾンビーキメラでも作ってみるか」

 ゾーヴァは戯れを口にし、さらに笑みを深めつつ、ヴァルジニアを後ろに押しやった。

 そして、長大な剣を抜く。ファータの上背に匹敵する長さだ。

 「さて、エルフの首を獣人の胴に付けたらさぞ面白かろうな」

 「ふざけるなっ!」

 ファータが赫怒して走る。鬼修羅を振りかぶり、打ちかからんとする。

 「おれとファータが一体になるのか。悪くないかもな」

 先行のアスラが走りながら、ぽつりと漏らす。

 「ばかもの!」

 ファータは、アスラに向かって鬼修羅を叩きつけそうな剣幕で怒った。

 「冗談だ。おれは生きているファータが好きだからな」

 アスラは屈託なく笑うと、四つ足になり、跳躍した。後ろ足だけで跳ぶよりもはるかに速く、遠く飛べる。

 「ゾーヴァ! おまえを倒すのは、ゾナの村第一の闘士ヴァイラの仔、アスラだ!」

 空中でアスラは叫んだ。体長は十四セルウ。その爪は鋭く、牙もまた必殺の武器だ。並みの相手なら、その重量感だけで圧倒されるところだが、いかんせん相手はアスラをうわまわる巨躯。飛び掛かられても平然としている。

 「笑止。劣性種族の獣人ふぜいがこのゾーヴァにかなうと思うか」

 「なんだと!?」

 おめきつつ、アスラは前肢の爪をゾーヴァの顔面に叩きつける。

 アスラの爪が食いこむ。その寸前。

 ゾーヴァは動いた。

 「ぎゃひっ!」

 凄烈な悲鳴がアスラの喉を鳴らし、その巨体は空中での軌道を変えた。

 一閃。

 ゾーヴァが振るった剛剣は、アスラの前肢―――右の腕を肘の部位であっさりと切断していた。

 アスラはもんどりうって転げ、呻いた。切断面から勢いよく血が吹き出す。

 「アスラ!」

 ファータは叫びつつ、それでもゾーヴァに突進する。

 剣を振るった直後の身体の隙を突く。アスラの身は気になるが、しかし、今はゾーヴァを倒すのが先だ。

 鬼修羅を身体近くに引き寄せ、念を送る。

 魔剣の光芒がさらに増す。横溢する闘気の放つ光だ。

 「はっ!」

 短い声に裂帛の気合をこめ、ファータは鬼修羅の一撃を、無防備にさらされたゾーヴァの左脇腹の一点に向けて打ち込んだ。

 ゾーヴァは眼だけでそれを追う。

 よけもしない。

 鬼修羅の切っ先がゾーヴァの鎧に吸い込まれる。どんな堅固な鎧であっても、魔力を秘めた鬼修羅の一撃には耐えられない。

 はずであった。

 が、ファータは鬼修羅の絶叫を聞いた。

 甲高い、乙女の悲鳴にも似た叫びだった。

 砕ける。

 強靭な鋼がまるでガラスのようにばらばらになる。

 鬼修羅はその長さを半分に減じた。

 「ばかな……」

 ファータは絶句し、数イントの間、身体を固めた。

 数イント―――一秒にも満たない凝固。だが、それは致命的な隙となっていた。

 「愚か者の魔法剣士が。わが鎧をスフィアの常識で測ったか」

 ゾーヴァの笑みはすでに狂操に近い。

 来る。剛剣が。ファータは自分の鎧の強度を思った。たとえ鎧がゾーヴァの一撃に耐え得たとしても、中にいるファータの肉体がその衝撃をしのげるか。

 ゾーヴァが巨剣を片手で無造作に打ち下ろす。風が泣く。

 ファータは頭上に強大な圧力を感じ、とっさに鬼修羅を掲げた。

 鬼修羅が断末魔の悲鳴を放った。

 ゾーヴァの剣圧を受けて、完全に砕け、飛散した。

 しかもゾーヴァの剣はいささかも勢いを減じることなく、ファータの頭に落ちてくる。

 「ファータっ!」

 必死の声が轟く。

 ファータは声の主をゾーヴァの背後に見出し、驚愕した。

 アスラだ。ゾーヴァに組み付いている。首に左腕を巻き付け、肘から先を失った右腕で、それでもゾーヴァの右肩を押さえつけようとしている。

 アスラの右腕から吹き出す血潮がしぶきをあげ、周囲に撒き散らされている。体毛で顔色はわからないが、アスラの口唇の色が白に近づいているところを見ると、既にそうとうな出血をしているはずだ。

 「ファータ! 今だ!」

 アスラはゾーヴァの首を締め上げながら叫んだ。

 「ばかめ」

 ゾーヴァは涼しい顔でせせら笑った。

 「それで押さえたつもりか?」

 「ぬっ!?」

 アスラは目を見開いた。

 渾身の力で巻き付けた左腕を、ゾーヴァは左手の人差し指と親指だけで確実に引き剥がしていく。

 「くそっ!」

 アスラは牙をひらめかせ、ゾーヴァの首筋に打ちこんだ。

 ゾーヴァはアスラの左腕をつまむと、そのまま背後に払いのけた。

 肉がちぎれる音がして、アスラの顎がゾーヴァの首筋の肉を噛り取った。

 クリスタルの床にめりこみかねない勢いで、アスラの身体は叩きつけられた。

 ゾーヴァは左手で首筋を撫でた。

 血すら流れていない。

 アスラは床に両手をつき、なんとか身体を起こした。

 ゾーヴァの肉を吐き捨てる。

 「なんだぁ、こりゃあ……味がしねえぞ」

 肉片は床の上でぷよぷよと蠢いている。

 その肉片をゾーヴァの足が踏み潰した。

 アスラは顔を上に向けた。

 ゾーヴァは無造作に刃を落とした。

 アスラの頭頂が裂ける。

 「アスラっ!」

 ファータが駆け寄ろうとした時には、ゾーヴァの剣はアスラの腹部までを一気に切り裂いていた。


      6

 「いかんっ!」

 トトは焦燥に追い立てられながら、キズマの側にあった。

 猛った心を慰撫する呪文をくり返し唱え、キズマの暴走を抑えようと苦闘していた。

 巨大に膨れあがった邪気が矢をまとっている。

 それを射出せんとするキズマと、それを止めようとするトトの努力とが均衡して、キズマの全身は痙攣的な震えを見せていた。

 その危うい均衡を叩き壊す光景が展開したのだ。

 アスラが惨死。それはキズマの理性を失った網膜にも像を結んでいたのだ。

 トトは、爆発的に広がっていくキズマの怒りを押し止めようがなかった。

 「ぐわっ!」

 トトは強烈な力に跳ね飛ばされ、床を転がった。

 弾ける。

 キズマの心が。

 キズマの唇が動いた。

 「よくも……」

 眦が裂け、血の色をした涙が溢れ出す。血の色の目は狂兵化の徴だ。しかし、頬に流れ出た涙は真珠色に変じている。

 「おおおっ!」

 トトが叫んだ。

 キズマの瞳がもとに戻り、そして、矢を包んでいた邪気が、強さはそのままに黄金の光に姿を変えていたのだ。

 「秘力が、よみがえった!」

 「ファータっ! ふせろっ!」

 キズマは叫び、矢を放った。

 ファータは一イントのうちにそれを了解し、矢の軌道から逃れて床にふせた。

 「むうっ!?」

 振り返ったゾーヴァの額に矢は突きたった。

 光が爆発する。

 「ぐおっ! ぬぐああっ!」

 ゾーヴァは左手で矢を掴んで抜こうとした。

 その手がぐすぐずに崩れていく。

 「ばかな、こんなところで、終わりにしてたまるか!」

 喚きつつ、ゾーヴァは右腕で弧を描いた。

 なんと自らの首を切り落としたのだ。

 切断された首は光の中に消滅した。

 左腕も手首から先は失われている。

 ゾーヴァは、しかしなおも健在であった。

 「よくも……よくもやってくれたもの。さすがは秘力を受け継ぎし英雄というところか」

 くぐもった声が、顔を失った首の下あたりから聞こえた。

 どこから、どうやって喋っているのか。

 「ばかな……」

 キズマは呟いた。

 「頭部は生き物の精髄のはず。魔王とは生き物でさえないのか……?」

 「ならば、呪文で滅し去るまで!」

 トトが一歩進み出て、呪文を詠唱し始める。

 呪文は幾つかの力ある文字を組みあわせて形作られる。

 力ある文字は、音読されることで実際の力を世界に対して解放することができるのだ。むろん、ただ声に出せばよいわけではなく、文字を読み解く力を持った者が行なわねばならない。それが呪文使いというわけなのだ。

 「セジェト! 聖なる炎よ、魔を焼きはらえ!」

 トトの指先が虚空に炎の本質を表す文字――音をあらわす×印とパンの形、さらに炎をふきあげる火鉢――を描くと、文字は虚空に赤く浮きあがった。間髪おかずに空間から炎の流れがほとばしり、ゾーヴァに向かっていった。

 首のない魔王は、どういう力でその攻撃を感知したものか、まったくためらいのない動きで、剛剣を構え、炎の奔流をはばんだ。

 「魔法か。それならば、わたしも使えるぞ」

 せせら笑う声。次の言葉が繰りだされると、トトの表情が驚愕に凍りついた。

 「ケベブ―――尽きせぬ水瓶よ。わが危難を流しされ」

 言葉に応じて、虚空に水差しの形が浮かびあがり、大量の水が出現した。

 炎と水がぶつかり、激しい音とともに水蒸気が湧きあがる。

 すかさずゾーヴァが次なる呪文を詠ずる。トトの驚きは、そうだ、文字さえ書かずに魔王は魔法の力をあやつれるのだ。

 「ネシェニ―――セトの名の元に嵐よ来れ。その雷もて敵を撃て」

 波立つ湖とうちつける豪雨を示す文字に大いなる暴慢の神セトの名を刻み、その呪文は完成した。

 水蒸気がみるみる雲になり、トトを包んだ。動揺のためか、効果的な対抗呪文をトトは形作ることができないようだ。

 雲はたちまち暴慢なる嵐に成長し、風と雨をもってトトを打ち倒した。

 「トト!」

 キズマは走り寄ろうとしたが、魔法の嵐は結界となり、キズマの接近を許さない。

 小さな嵐の中で、トトは暴風雨に叩き伏せられた。

 黒雲はさらに邪悪に膨れあがり、青白い光をひらめかせた。

 「雷、撃つべし」

 ゾーヴァが冷酷に宣し、取り出した短剣を投げた。

 短剣は嵐の結界を抜け、トトの背中に突きたった。

 「がはっ!」

 トトの身体がえびぞる。その瞬間。

 落ちどころを得た雷撃は、赤い光を炸裂させ、トトに降りそそいだ。

 そして、嘘のように嵐は去った。

 差し渡し二十セルウ足らずの円周が水浸しになっており、その中心にトトの小柄な肉体が転がっていた。いまだ煙を上げている。

 「トトぉっ!」

 キズマは転げるようにトトの側に駆け寄った。

 死骸に触れることさえできない。炭化し、触れれば崩れ去りそうなほどだった。

 「もう……もう許さん、絶対に許さんぞ!」

 キズマは涙に濡れた目をあげ、ゾーヴァの奇怪な姿を凝視した。

 「このゲームはわたしの勝ちだ。そろそろ諦めてはどうかね?」

 首なきゾーヴァの声は余裕に満ちている。

 「ゲームだと……?」

 キズマの表情が激怒に歪みきる。だが、もはや狂兵に転げ落ちることはない。これはただの怒りではない。仲間を奪われた悲しみから転化した純粋な怒りだ。

 キズマは矢をつがえ、弦を引きしぼった。

 「ばかめ、座して矢を受けると思うたか!」

 ゾーヴァは伸び上がり、剣を高々と振りあげた。

 もとより承知のキズマだ。相打ち覚悟の一矢である。

 「滅びろ、魔王っ!」

 放つ。

 矢を。最後の矢を。

 ゾーヴァの胸甲に突き刺さる。

 「ぐやあああっ!」

 喚くゾーヴァの声が生々しさを加える。

 胸甲が剥がれていく。矢が放つ光がゾーヴァの胸の肉を焼き、えぐっていく。

 だが、剛剣は止まらない。キズマを両断すべく、うなりをあげて落下する。

 キズマはかわすことも考えなかった。秘力を使い尽くし、もはや歩くこともできない。

 「キズマぁっ!」

 耳元に懸命の声が届く。

 ファータだ。

 跳躍している。

 鉄甲がキズマの身体を押しのけ、ファータの身体がゾーヴァの剣の軌道をふさぐ。

 キズマは後方に倒れた。ファータがキズマを抱きしめている。

 やさしい顔がキズマの胸の上に載っていた。

 「キズマ……だいじょ……ぶ?」

 「ファータ……!」

 キズマは首を起こし、見てはならぬものを見た。

 ファータの下半身がない――のを。

 切断された腰から下は、崩れ落ちたゾーヴァの肉体のそばに物体のように転がっている。

 「なぜだ!? なぜ、こんなことを!」

 キズマはファータの上半身を抱きしめ、声を振り絞った。

 「兜を……脱がせて……」

 エルフの娘は弱々しい声で言った。

 キズマはファータの頭から兜を取り去った。

 金色の前髪が汗で額に貼りついているのをキズマは指ですくった。愛らしい少女の額があらわになる。

 新緑を思わせる瞳がキズマをまっすぐ見つめていた。

 「死んでほしくなかったの……キズマに……」

 「ファータ……」

 「知ってる、あたし。キズマはヴァルジニアさまと……でも」

 ファータは眉をしかめ、咳きこんだ。

 「もう喋るな。傷にさわる」

 キズマの言い方がおかしかったのか、ファータは笑いを浮かべた。

 「ばかね。こんな、治るわけない。言わせて、最後だから……」

 「……」

 「忘れないで、あたしのこと……生きて、幸せになってね……」

 ファータの瞳から急速に光が失せていく。

 「もう……見えない……さよなら……キズ……」

「ファータ! ファータぁっ!」

 キズマは少女の頭を抱き、その温みを守ろうとした。

 しかし……。

 半開きの瞳に光はもはや戻りはしなかった。



  エピローグ


 ゾーヴァの肉体は消えていた。

 鎧の残骸だけが転がっていた。

 キズマはファータの骸をトトの隣に横たえ、切断された身体を元の通りにした。

 アスラの骸を運び、さらにその隣に寝かせる。

 目を閉じ、深く黙祷を捧げた。

 そして、ようやく顔をあげた。

 光が目前にあった。

 白い暖かな光だ。

 『キズマよ……わが選びし戦士キズマよ』

 光が声なき声を放った。心に直接響く声だ。

 「イシュアプラのクイラ……」

 今までに何度か苦境に陥った時に道を指し示してくれた光だ。それがクイラの意識体であることをキズマは知っていた。

 『汝は見事にゾーヴァを倒した。よく使命を果たした』

 キズマは黙ったままだ。答えるべき言葉がない。

 『契約によりて、汝の願いをかなえよう。至高の美女ヴァルジニアを娶りてスフィアを統べる王になるもよし。富貴を極め一生を安穏に暮らすもよかろう。あるいは英雄の称号をこの地に残し、さらなる高みをめざすか』

 「そんなものは……要らん」

 キズマは言った。

 「欲しいものは自分で手に入れる。自分がなりたいものには、自分でなる」

 『ほう……ならば望みはもはやないというか』

 「いや、ある」

 キズマは光の中に蠢く人影に向かって、きっぱりと言った。

 「仲間を生き返らせてほしい。イシュアプラのクイラならばできるはずだ」

 『死者はよみがえらぬ。それがこの世界の掟だ』

 「イシュアプラの契約もまた絶対のはずだ。おまえは何でもおれの願いをかなえると言った。それを破るのか」

 キズマは食いさがった。

 光は何度か瞬いた。困惑しているらしい。

 『確かに契約は絶対だ。また、死者の肉体を修復することはできる。だが、死の瞬間に魂は浄化され、生前の記憶の多くを失う。その魂を肉体に戻したとしても、生前と同じにはなり得ぬぞ』

 「それでもいい。かまわない!」

 キズマは光に縋りつかんばかりに求め訴えた。

 『―――願いを聞き届けよう』

 光は拡大し、部屋全体に満ちた。

 アスラ、ファータ、トトの骸が照り輝く。

 見る見るうちに傷が塞がり、癒着する。炭化した組織がみずみずしさを取りもどす。鎧ごと、衣服ごと、再生していくのがわかる。

 「キズマさま」

 仲間たちの様子に見入っていたキズマの背後から、麗しい声が聞こえた。

 振り返ると、そこにはヴァルジニアが立っていた。純白のドレスがあまりにも似合っている。神々しい美貌が光の中でさらに際立つ。

 「よくご無事で……」

 その双眸に涙が浮かぶ。何よりも貴重な宝石だ。

 「ヴァルジニアさまこそ……怖い思いをさせて申しわけありません」

 キズマはヴァルジニアの前に片膝をつき、頭を垂れた。

 ヴァルジニアは膝を折り、キズマの手を取った。

 「わたしは信じていました。キズマさまがいらっしゃるのを。レムナの浮城でお別れしてからも、ずっと……」

 「ヴァルジニアさま……」

 「いいえ、わたしはレムナの浮城の門番の娘。あなたの前では、ただの娘でいたい……そう思って、キズマさまもわたしを呼び捨ててください」

 「ヴァルジニア……」

 キズマは可憐な少女の肩を抱いた。

 そして、ゆっくりと二人、立ち上がった。

 光は彼ら二人と、横たわる三名を包み込み、上昇を始めた。

 昇っていく。

 スフィアの大地に向かって。

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