江戸06 いとまごい

 お豊の様子が妙だ。頼みごとも良い話じゃないことは明らかだった。

何から聞こうかと考えあぐねていると、お豊が口を開いた。


「ねぇ宗。あたしを連れて何処か遠くに行かない?」

あまりに突飛な発言に笑ってしまう。

「おいおい、誘う相手を間違えてやしねぇかい?」


「間違えてないよ。だってあの人とは…」

お豊の顔が思い詰めた表情から泣き顔へと崩れていく。


一体何があったんだ?

喧嘩したわけでもないというなら、伊庭の家から何か言われたのか?

でも、さっきまでの伊庭は何のためらいも迷いもなかったはずだ。

お豊が落ち着くのを待って少しずつ聞いてみる。


「今日は伊庭に会ったのかい?」

そう聞くと、お豊は首を横に振る。


「伊庭の家から何か言われたのかい?」

また首を横に振る。

俯いたまま泣いているお豊を抱きしめて、背中をトントンと叩く。


「大丈夫。落ち着いたらじっくり話てくれりゃいいから。

いやぁそれにしても、お豊が俺の腕の中にいるなんざ何年ぶりだろうねぇ」

冗談めかして笑うと腕の中でお豊がクスッと笑う。


 手から伝わるお豊の体がえらく細く感じた。


「お豊。お前… 痩せてないか?」

その一言を聞いて、またお豊が泣き出した。


痩せたことに関係があるのか?

最近お豊と会うことが無かったので普段の様子がわからないが…。


「もしかしてお前…」

「今日医者に言われたんだ。療養しろって…」

「療養?!」

「ん… どこか遠くへ… 転地療養しろって」

「その病って…」

疑いだけで口にするには、憚られる病名が思い浮かんできた。

思わず腕の力が抜ける。俺の様子を見てとったお豊は今まで我慢していたものが

堰を切ったように言葉を吐き出す。


「気がついた?! そう!そうだよ!!その病気なんだよ!!

宗だってあたしがこの病と知ったら今みたいに嫌になっちまうだろう?」


俺の手が怯んだことを感じ取ったのか、今度は俺の腕から逃げようとする。


「そうじゃねえ。嫌なんじゃなくて驚いたんだよ。いつも元気なお前さんが

病なんざ想像つかなかっただけだよ」


離れようとするお豊を強い力で抱きとめる。

「伊庭には言ったのか?」

また首を横に振る。


「で、お前さんの頼みってのは、どんなことだい?」

「とにかく療養に…」

「ん、それで伊庭にはどう伝える?」

「あの病は酷くなると痩せてくるらしいんだ。だからさぁそんな姿を

あの人に見られたくない。綺麗なままであの人の記憶に残っていたいから…」


酷くなると痩せる…?! もしかしたらお豊の体はかなりまずい状況なのか?!


「医者ってのは、あの角のところの玄庵先生かい?」

「ん…」

「で、行く場所は決まったのかい?」

「まだ…」

「急ぐかぇ?」

「そうだね…。あとはあの人に見つからない様にこっそり行きたい…」


「判った。じゃまず場所とか色々なことは当たってみる。

伊庭のことも俺が上手く誤魔化すから。とりあえず時間くれねぇかな?」

「それまでどうしよう… あの人とももう…」

「ここの座敷は今日はもう使わないから此処にいてもいいぜ。

療養先は出来るだけ早く用意する。まずは伊庭には用事が出来て会えないと

伝えておくかい?それとも療養に行く前に会っておくかい?」

「駄目だって判ってる… でも会いたい…」

いつもは気丈なお豊が、こんなに弱い部分を持っていることに驚いた。


「じゃ誰かに伊庭を呼びに行って貰う様にするから待ってな」

「宗はこの後どうするの?」

「誰かさんの頼み事で東奔西走に決まってるだろ!!」


笑いながらお豊のいる座敷を後にした。



数日後、お豊の行先の目処がついた。


「何か心残りはないか?」

お豊は俯いて黙り込んで急に顔を上げて言った。

「ううん。もう行くよ」


「あいつに伝言はしなくて良いのかぃ?」

「あの人に言ってしまうと、どんな手を使っても居場所を

調べて見舞いに来ると思わない? 」

うっすらと力なく笑う。


「あいつならやりそうだな。でもお前さんは、このまま

何も言わずに別れていいのか?」

その一言でお豊は言葉に詰まった。


「宗…」

今まで我慢していた感情が一気にあふれ、そのまま倒れてしまいそうな

お豊を抱き止める。


「あたしだって… 行きたくない… もう長くないってわかってるから…

少しでもあの人の側にいたい。

でも… あの人に病をうつすのなんて嫌だよ… 宗… あたし… あたし…」

俺の袖を握り締めてお豊は号泣した。


抱きしめた腕に力を入れる。

「大丈夫だよ。あいつならお前さんの思いを判ってくれる筈だぜ」

お豊は俯いたまま何度も頷いていた。


腕の中にいたお豊はやっと泣き止んで少し落ち着いてきた。

「ねぇ宗…」

「ん?」

「今更だけど、宗っていい男だね」

「けっ!! なに今頃気づいてんだよ」

「でも、あの人には負けるけどさ」

さっきまで泣いていたお豊がくすくす笑っている。


「そりゃ確かにどこ取ってもあいつには勝てないだろうけど

たった1つ俺の方が勝ってることがあるんだぜ」

「えっ?! そんなところあったかい?」

「賄いが出来るってことさ」

お互いに顔を見合わせて笑った。


「やっと笑顔が戻ったな。少し安心したよ」

「宗ありがとう」

「いや俺はなにもしてねぇよ」

「本当に宗のお陰で助かったよ。ねぇ暇な時に美味しいもの作りに

来てって頼んでもいい?」

「あぁもちろんだ」


やっといつもの様な会話に戻れたことが嬉しかった。

遠くから刻限を知らせる鐘の音が響く。


「そろそろ刻限だ。お前さんの踏ん切りがついたら行くぜ」

「もういいよ。早く行かないと決心が鈍るから」

「そうか。じゃ行こうか」


 急にお豊が居なくなったのを知った伊庭は花街でお豊のことを

聞いて回っているようだった。

俺のことも探していると聞いたので、出来るだけ会わない様に

忙しいふりをして座敷から座敷を渡り歩いたり

伊庭の鬼門の伊豆のいる場所に隠れさせて貰っていた。


 日々逃げ続けていると、追いかけっこをして遊んでいる様で

これはこれで面白いと思い始めた頃、お豊の訃報が届いた。


覚悟はしていたが、思ったよりも早くに逝ってしまった。

まだ賄い作りに行ってないじゃねぇか…

何でそれまで待ってねぇんだよ…。


って俺が落ち込んでる場合じゃないよな。

このことを伊庭に伝えなければ。

そしてお豊の本当の思いを伝えなければならない役目が残っていた。


でも、全てを知ってて隠してた訳だし、怒られることも覚悟だよな。

突然こんなことを聞かされた伊庭の心中を考えれば、

憂さ晴らしに飲んでしまいたいだろうし。

ってことは、一晩中飲んで騒げる様に座敷を用意しなきゃならないか。


ちょと待て。

俺は伊庭が好きなのに、あいつの好きなお豊のことを伝えなきゃならない。

端から知ってて黙ってたんだから俺が悪者になって

嫌われる可能性もありか…。


まぁどうせ俺の恋なんざ叶うはずも無いし、二人の為に役に立てるなら

それは厭わないけど…


なんだか俺って損な役回りだよなぁ…。

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