江戸02 身の程を知る…ということ
冷静に考えてみれば「伊庭道場」と言えば江戸じゃ名の知れた道場だ。
その跡取り息子なのだから、俺なんかとは住む世界が違うのは当然だよなぁ…。
そんなことを考えていたら、伊豆が大きく手招きをしている。
「話は終わった。さあこれからは無礼講で話をしようか」
こういうことを言う時の伊豆は、静かで有無を言わさない迫力がある。
よく考えりゃこの人も俺なんかが気軽に話をする様な身分の人じゃねぇんだよな…。
今更ながらに自分の出自にうんざりする。
「で、お前達。挨拶は済んでるのか?」
「え… 挨拶なんざ最初に会った時にするもんだろ?何今更聞いてんだよ」
いつもの口調で返答をしている俺を秀頴は驚いた顔で見ている。
「そ、、宗さん!! 伊豆守様になんていう口調で…」
「いずのかみさま?」
きょとんとした俺の顔を覗き込む様にして伊豆が言う。
「もうずっと昔に名乗ったから忘れたか?!」
「いや悪ぃ、悪い。そうだったぇなぁ」本気で忘れてたことがおかしくて
笑いが止まらない。
「そ、宗さんってば!! 無礼だってば」
一人だけ困り果てている秀頴を見て伊豆は諭すように言う
「こいつはいいんだ。それにな此処では外の世界の身分は持ち込まない。
それが花街なのだよ」
伊豆は驚いて恐縮している秀頴をよそに、俺をチラと見て続ける
「この宗也もどう見てもただの遊び人でしかないが、これでも武家の出で某道場の師範代をしてる、そうだよな?」
「あぁ… 伊庭道場に比べりゃ大した道場じゃねぇけど師範代ってのは本当だけど…
武家の出ってのは勘弁してくれよ…」
「ほぅお前にも苦手なものがあったのか。さっき儂の名前を忘れた罰だ。伊庭の息子にちゃんの名乗ってみろ。武家を嫌っていてもお前について回っているのも確かだろう。
某藩の指南役に勝ったって噂はお前じゃなかったかねぇ、宗也」
伊豆の口がかすかに上がり含みのある笑いに変わる。
こんな時の伊豆に逆らうとろくなことがないのは経験済みだ。
「あーはいはい。分かりましたよ。挨拶すりゃいいんでしょ」
「最初から素直にしてりゃいいものを。縁を切りたい藩名まで言ってみるか?」
「何なんだよ。今日は一段と底意地の悪いことだぁねぇ。俺がその名前をどれほど嫌ってるか知ってて言うってのは、どういう了見なんだよ!! こうなったらヤケだ!!お望み通り名乗ってやろうじゃないか!!」
勢いで秀頴の方に向き直り、居ずまいを正して両手をつく。
「名を
秀頴に一礼した後
「伊豆!! これで気が済んだかい?」やけっぱちで伊豆に言うと
「まぁそうだな。お前にしちゃ上出来だろな」余裕で笑ってやがる…。
本当に伊豆はくえない男だ…。
伊豆の罠に嵌められて腹立たしい敗北感を味わっている俺を見上げる瞳があった。
「宗さん剣術もしていたんですね!!」
嬉々とした声色で聞いてくる。
「見えねぇかい?」
「えっ… そんなことはないです。俺の理想を見てる様で…」
秀頴が不意に赤くなる。
つられて照れてしまいそうになるのを誤魔化す様に俺は掌の肉刺を見せた。
「ほら… な、これが剣術をやってる証拠だ」
「うわー!!本当だ凄い!! 宗さんって手練なんですね?!」
この後も何を言っても秀頴は嬉しそうに目の輝きが増す。
そんな秀頴のあまりに素直な反応に慣れない俺は戸惑うばかりだった。
秀頴と出会ってしばらくすると、この花街で何度か見かけたり
座敷で会うことも増えてきた。
時には往来で友人達と歩いているところに出くわしたこともあった。
友人といても遊び人風の俺の姿を見てもためらうことな声をかけてくる。
いつも屈託のない秀頴に弟のような思いを抱く様になっていた。
今日もいつもの様に伊豆と二人座敷にいた。
三味を鳴らしながら、ゆったりとした時間が流れている。
「えらく懐かれてるようだな」伊豆はいきなり切り出す。
「そうかぇ?ただ人懐こい性分なだけじゃねぇのかい?」
「軍兵衛からは、美丈夫だが無愛想だと聞いていたがなぁ」
初対面の時から俺の前ではずっと人懐こい笑顔でいた。あれは普段とは違うのか?
もう一度秀頴と会った時を思い出しながら杯を口に運ぶ。
「あいつが、芸妓連中からどう呼ばれてるか知ってるか?」
「いや、俺の耳には入ってねぇけど」
「お前でも知らないことがあったのか」伊豆は愉快そうに笑う。
「『氷の若様』の噂は聞いてないか?」
「あぁその噂なら聞いてるけど、あれは秀頴のことだったのか…」
「信じられないといった顔だな。お前にだけ態度が違うって事はだ…
ひょっとすると、あいつにとってお前は特別な存在なのかもしれないな」
「あはは… そんなことねぇよ。気楽な兄貴分みたいなもんじゃねぇのか?」
「宗也」
「あぃ?」
「惚れるなよ」
突然の言葉に驚いて持っていた三味線を横に置き身を乗り出して反論する。
「は?! いきなり何だよ?そんなことある訳ねぇだろう!!」
「そうか?お前もまんざらじゃない風に見えたが…」
「人に好かれて嫌な気分になる奴はいねぇでしょう」
「あいつといる時、お前もいつもに増して楽しそうに華やいで見えるのは何故だ?」
「そう見えるかい? もしそうだとすれば、それは秀頴がそうさせてるんじゃ
ねぇかな…。あいつの笑顔見てるとつい俺の顔も緩んじまうからさ」
俺の返答を聞いて伊豆は急に笑い始める。
何が可笑しいのか俺にはちっとも判らない。
「本当にお前は自覚がないようだね」
呆れた様ような口調で伊豆は続ける。
「宗也… お前は自分が変わってきてることに気づいているか?」
突然の伊豆の言葉に驚いて身動きが取れない。
「い、いきなり何言ってんだよ」
動揺する俺を、いきなり後ろから引き寄せて耳元で囁く。
「本当に気づいてないのか?」
「俺は浮船なんだろ?、これからもこの先も惚れるなんて事はないだろうさ」
「おい、それは儂に対しても惚れちゃいないってことか?」
伊豆の口調が詰問の様に聞こえる。
「ここに来てから世話になりっぱなしで感謝はしてるよ。でも惚れてるか
って聞かれると困るんだよねぇ…。それに秀頴の事は別だと思うぜ。
それともなにかい? 俺と秀頴のことを妬いてるとか?俺も罪な奴だぁねぇ」
「ほぅ、そんな憎まれ口を叩いていて良いのか?!」
そう言うと伊豆は俺の顎に指をかけ伊豆の方を向かせる。
「いいか宗次郎。お前が傷つく前に言っておく。あいつは…伊庭の息子は
男が苦手だ。触れられるだけで嫌悪感を示すらしい。
今までの関係を壊したくなければ手を出さないことだ」
「だから俺はそんな気はないって!!」
「その言葉この先もずっと忘れるんじゃないぞ」
「あいあい。わかりましたよ伊豆のお殿様」
この街で一番呼ばれたくない名前を口にしていた。伊豆の顔色が険しくなる。
不機嫌さを露にした伊豆の首に腕を回し更に挑発する。
「俺のことを本気で相手を出来るのは伊豆しかいないでしょうに」
伊豆の眼がすっと細くなり俺の芯をとらえる。
「お前は儂からは離れられない。その事を身をもって教えてやるよ…なぁ宗次郎」
言葉と同時に伊豆の手は熱を帯び俺の懐から全身を這う。
その腕の中で翻弄され、いつもの快楽を貪る時間に身を任せた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます