DAY 2-2

「もうこんな時間か……」


 時計を見ると十七時を過ぎていた。


 執筆に没頭すると、あっという間に時間が経っている事がある。


 遥翔はるとは机にペンを置くと、思いっきり伸びをした。


 それにしても結衣ゆい陽輝はるきはまだ帰って来ないのか。


 スマホを見てもメールや電話は来ていない様なので、こちらから電話をかけてみる事にした。


 発信ボタンを押し、しばらく待ってみたがなかなか出ない。


 十回ほどコールした所でやっと結衣が電話に出た。


『はい』


「もしもし、結衣?今どこ?まだ帰れないの?」


『ああ、ちょうど良かったわ。今電話しようと思ってたとこなの。急で悪いけど、今日はこっちに泊まっていくから』


「ええ?聞いてないよ。何かあったの」


『お父さんがどうしても泊まっていけってうるさいのよ。最近ずっと陽輝を連れて行ってなかったから、きっと拗ねてるんだと思うわ。一度抱っこしたらなかなか離さないのよ。全く、いい歳して子供みたいなとこあるんだから』


「そんな、僕だって陽輝に会いたいよ。それに晩ご飯どうするの」


『あなたまで子供みたいな事言わないでくれる?今はスマホ一つで食べたい物がすぐ家に届く時代なんだから、どうとでもなるでしょ。言っとくけど私、あなたのお母さんでも家政婦でもありませんから』


 結衣は早口でベラベラとまくし立ててきた。


 どうやら地雷を踏んでしまったらしい。


 こうなってしまってはどうする事も出来ないだろう。


 こちらが素直に謝るのが一番の解決法だ。


 それに、陽輝が生まれてからは、少しでも育児の助けになれる様にと出来る限りの事は協力しようと思っていたのに、つい大人げない事を言ってしまったと遥翔は反省していた。


「……そうだね。ごめん、僕が悪かった」


『……私もちょっとカッとなっちゃったわね。それから、お父さんのわがままもごめんなさい。明日には帰るから、今日は頼むわね。あっ、お花の水やりもお願いね』


「分かった。気を付けて」


『じゃあね』


「うん、じゃあ」


 朝起きた時は独身生活だと喜んでいたのに、電話を切った後、遥翔は何だか妙に淋しくなってきた。


 晩ご飯は何か出前でも頼もうか。


 とりあえず、花に水をやろう。


 遥翔は椅子から立ち上がると外に出た。


 最近は夕方の水やりもすっかり日課になって慣れてきた。


 初めの内は『あげすぎ』『それじゃ足りない』と、結衣に散々注意されたものだったが……。


 どうやら花は全て元気に咲いている様だ。


 水やりが終わり、ホースを片付けていると、離れから仲野なかのが出て来るのが見えた。


 遥翔が庭にいるのに気付いた様子で、こちらに向かって歩いてくる。


「一之瀬さん、すみません。今ちょっとお時間いいですか」


「はい、どうかしましたか」


「今テレビを見ようとしたら、全然映らなくて」


「ええ?おかしいなあ」


 離れのテレビは最近新しい物に替えたばかりで、壊れるにしてもかなり早すぎる気がした。


「ちょっと見てみますね」


「すみません、お願いします」


 仲野と一緒に離れに入り、テーブルの上に置かれていたリモコンを手に取った。


 ボタンを押して電源を入れてみると、画面には<エラー×××/放送を受信出来ません/アンテナをご確認下さい>と表示されている。


 どのチャンネルに変えてみても全て同じ表示が出た。


「どうですか?」


「うーん、アンテナがダメになったのかな?」


 遥翔も機械にはそんなに強い訳ではない。


 それにもしアンテナがダメとなると、業者に来てもらわなければいけないだろう。


「そうだ、ちょっと配線を見てみますね」


 遥翔はテレビの位置を少しずらし、裏側を覗き込んだ。


「ああ、これですね」


 原因はすぐに分かった。


 アンテナケーブルが抜けかかっていたのだ。


 元通りに差してみると、テレビはすぐに映った。


「良かった、映りましたね。掃除か何かの時にケーブルに引っかけたのかもしれません。すみませんでした」


「そうですか、壊れたんじゃなくて良かったです。どうもこういう機械の配線やら設定なんかは苦手でしてね。ありがとうございました」


<ピンポーン>


 二人が話していると、玄関のチャイムが鳴った。


「あれ?誰だろう」


「ああ、多分私の客です」


 仲野はそう言うと、玄関まで歩いて行きドアを開けた。


「待ってたよ。遠くまでご苦労様。さあ、入って。それ持つよ」


「ありがとうございます。おじゃましまーす」


 仲野に促され、一人の女性が部屋の中に入って来た。


 見た目は二十歳前後の若い女の子だった。


「私の後輩の高嶋たかしまくんです。まあ、カメラマンの卵と言った所ですね。ちょっと必要な物があったので、頼んで持って来てもらいました。こちら、部屋を貸して下さってる一之瀬さん」


「こんにちは。高嶋です」


 高嶋は可愛らしい笑顔でぺこりとおじぎをした。


 長い髪がゆらりと揺れ、服の隙間からは豊かな胸の谷間が見える。


 遥翔は一瞬、目のやり場に困り視線を彷徨わせた。


「あ、どうも、一之瀬です」


「本好きの高嶋くんなら知ってるかもしれないけど、一之瀬さんは作家先生なんだよ。ええと……」


「あっ、桐山きりやまあおい、です」


「そうそう」


「えっ、一之瀬さんって桐山葵さんなんですか?」


 遥翔のペンネームを聞いた瞬間、高嶋は驚いた表情を浮かべた。


「私、すごいファンなんです。やだ、まさか会えるなんて嘘みたい。仲野さんのお使いでこんな遠くまで来て良かったー」


「ほう、それは幸運だったね」


「ホントですか?そんなに僕のファンだと言ってくれる人には初めて会いました」


 そもそも自分は、ファン自体がそんなに多くはないだろう。


 飛び上がりそうに喜んでいる高嶋を見て、遥翔も同じくらい驚いていた。


「中学生の時、初めて読んだ『瑠璃色の殺人』で好きになったんです」


「『瑠璃色の殺人』ですか?結構マニアックですね」


 高嶋が口にしたタイトルは、五年以上前、遥翔がデビューして間もない頃に初めて出した短編集の最初に収録されている作品だ。


 初期の作品と言う事もあり、ほとんど売れていなくて知名度や完成度も低いだろうが、遥翔には思い入れのある一作だった。


 そんな作品を好きだと言ってもらえるとは。


「私、実は先生の名前を見て最初はずっと女性だと思ってたんです。男性だと知ったのは最近なんですけど、こんなイケメンだったなんて」


「えっ、そんな……」


 きっとお世辞だと分かっているのに、遥翔は思わず照れてしまった。


 こんな事を言われたのも初めてだ。


 遥翔の方も、こんなに若くてかわいい子が、ずっと自分なんかのファンでいてくれたと思うと正直嬉しかった。


「残念なお知らせだけどね、高嶋くん。一之瀬さんにはとても美人の奥さんがいるんだから無理だよ」


 仲野はクックッと笑いながら冗談めかした事を言った。


「ちょっと仲野さん、私そういうつもりで言ってるんじゃないですから」


「ははは、分かってるよ。ごめんごめん。ところで、この大荷物は?」


「あっ、そうだ。来る途中のお店でテイクアウトして来たんで、一緒に食べましょ。お酒もいっぱい買ってきましたから」


 高嶋は持って来た大きな袋から次々と料理を出してきた。


「ハンバーグに、パスタに、オムライス。カレーとピザもありますよ。ポテトも買っちゃいました」


「……確かに何でもいいから食べる物買って来てとは言ったけど、ちょっと買い過ぎじゃないのかな?」


 仲野は呆気に取られた顔で、テーブルの上に大量に並べられた料理を見た。


「やっぱそうでした?でも、どれも美味しそうで選ぶに選べなくて……」


「高嶋くんは少々変わってるというか、まあ天然って言うんですかね。そういう所あるんですよ」


 仲野は遥翔の耳元に顔を近付けると、囁く様に小声で言った。


「なるほど……」


「……仲野さん、何か言いました?」


「いやいや、何も」


 高嶋に睨まれ、仲野は大げさに手を広げて首を振った。


「そう言えば一之瀬さん。今日は一人だと言っていましたが、晩ご飯はどうするんですか?」


「ああ、今日は妻が実家に泊まって来るらしいので、僕も何か食べる物頼もうかと」


「それはちょうど良かった。もし良ければ、一之瀬さんもご一緒にどうですか?と言うか、この量なので手伝ってもらえると助かりますが」


「えっ、でも……」


「私も賛成!仲野さんもたまにはいい事言いますね」


「たまにはって、随分だね、高嶋くん」


 高嶋も嬉しそうにしている。


 どうしよう。


 少し考えたが、せっかく誘ってくれたので今日はご厚意に甘えてもいいか、と遥翔は思った。


「いいんですか?じゃあ、お邪魔じゃ無ければ……」


「もちろん」


「先生、どれでも好きなの食べて下さいね。お酒もいーっぱいありますから。あ、足りなかったらまだ車にもありますよ」


 高嶋はもう一つの袋から缶ビールを出してきてテーブルの上に並べた。


 どうせ今日は一人だし、少しくらいなら酒も飲んで大丈夫だろう。


 遥翔はハンバーグ、仲野はカレー、高嶋はオムライスを選び、残りはみんなでシェアして食べる事にした。


 仲野と高嶋はどちらも酒が強いのか、飲むペースも早く床に空き缶がどんどん転がっていった。


「一之瀬さんは普段あまり飲まれないんですか?」


「そうですね、そんなに強くなくて……。前は夜に少しだけ飲むのが習慣だったんですけど、去年息子が生まれてからは全く飲んでいないんです。酔っぱらったり、寝てしまったりして、息子の寝顔を見る時間が減ってしまうともったいない気がして、飲むのを止めてしまいました」


「……かわいいんですね、息子さんが」


「はい、とても」


 遥翔は少し照れ笑いしながらそう答えた。


「素敵ですねえ。私も早く子供が欲しいです」


「高嶋くんの場合は、まず自分が子供を卒業する事から始めないとね」


「ひどーい。先生、どう思います?仲野さんっていっつもこんな事ばっかり言うんですよ」


 高嶋はそう言いながら遥翔に絡んできた。


 二人の言い合いはもはや掛け合いの様なもので、きっと本当は仲が良いのだろう。


 高嶋はまだ何かむにゃむにゃと言いながら新しいビールを取ろうとした瞬間、少しふらついたのか遥翔の腕にしがみついてきた。


「あっ、ごめんなさい。先生」


 ふいに柔らかい物が腕に押し付けられ、遥翔はドキリとした。


 高嶋の長い髪は、とても良い香りだった。


「いや、大丈夫ですか?」


「高嶋くん、ちょっと飲み過ぎじゃないのかな」


「そんな事無いですー。あれえ、先生まだ二本だけですか?」


「ああ、かなり久しぶりに飲んだせいですかね?ちょっと酔いが回るのが早い気がして……」


 遥翔はさっきから少しずつ眠気に襲われていた。


 一年近く酒を飲んでいなかったが、こんなに弱かっただろうか。


 体が熱くなり、頭がボーッとしてきた。


「あれ?おかしいな……すみません、ちょっと……」


「一之瀬さん?酔ってしまいましたか?」


「先生、大丈夫ですか?ここに枕ありますよ。どうぞ」


「ありがとう……ござい……ます」


 枕に頭を突っ伏すと、遥翔は一瞬で闇の中へと落ちて行った。

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