第1章 脱出!
第1話
ハンはいつもより少し早く目を覚ました。
なんだか夢を見ていた様な気がしたが、どんな夢だったか何も思い出せない。夢とは大抵そういうものだ。
ハンは自室のハンモックで仰向けに揺られながら、天井の木目を眺めていた。
幼い頃に、人の顔に見える木目を見つけ恐怖で眠れなかったこともあったが、そんなハンもあと少しすれば数え年で15歳になる。
男の子から男に変わりつつある時期。
木目なんかに怖がることもないし、夜中に便所に行くのだって怖くない。
このコルチ村のしきたりではもう結婚だってできる歳だ。
ハンは『結婚』と言う単語を思い浮かべるのと同時に
「結婚かあ」
婚期の迫った独身のようにため息を混じりに言いながら頭を抱えた。
あまりハンモックの上で動くとロープが千切れる気がしてきて、なんとか気持ちを落ち着かせようと別のことを考える。
ふと、外を眺めてみる。
この家には『ガラス窓』はほとんどない。この家というよりはコルチ村にある大抵の家はそうだ。ガラスを製造する技術がこの村では未発達な為である。
この村のほとんどの家は藁葺き屋根に木造の構造部材、それに薄いベニヤ板で室内と外や部屋同士が仕切られていたり、いなかったりするだけだ。
外壁の一部が四角く切り取られており外が見えるようになっている。ガラスがあるわけでも格子があるわけでもないので虫でも不審者でも誰でも容易に不法侵入ができるが一応これが窓ということになる。
窓の外には海が見える。誰が決めたのか、この海と砂浜をこのコルチ村ではウェンディ海岸と呼んでいる。
海の色は青色というよりは紺色と言った方が正しいような暗さがあった。
ハンは生まれてこのかたコルチ村を出たことがないのでこの世のどこでも海はこの色だと思っていたが、場所によっては透き通る様な綺麗な水の海もあることを最近聞いた。
ハンの腹時計では朝の6時ごろであったが、太陽は地面にも海面にも日差しを振り撒いてる。
海辺を散歩でもしようかとハンモックに揺られながらぼんやりと眺めていると、海辺を一人の少女が歩いているのが見えた。
ハンは思わずハンモックから上体を上げて目を凝らした。
少女の髪は長く、独特の色をしている。
灰色の様な銀色の様な、とにかく色素の足りない色をしている。
この200人程度しか住んでいない狭い村でこの髪の色をしているのはこの少女と少女の母親だけ。見間違えるわけがない。
ハンの結婚問題の重要な要素の一つ。
少女は髪を靡かせながら砂浜を歩いている。
ハンは彼女の髪が潮風に揺れるところをただ無心で眺めていると、あることに気がついた。
少女はせっかく海辺を歩いているというのに、海を見ることもなく自分の足元だけを見て歩いている。そしてその表情はどことなく寂しそうにも見えた。
ただハンがそれを気にしたのは一瞬のことだった。
それほどまでに少女の横顔はハンにとって魅力あるもので朝一番には少々刺激が強すぎるくらいだった。
「あの子が僕の……」
ハンがそう呟くのと同時に、足元を見ていた少女が何かに気がついたかのように目線をハンの方に向けた。
少女と目が合う。正確に言えばハンにはそう感じられた。
慌てて目を逸らす。
よく考えてみれば少女からみればハンはただ海を眺めているだけに見えていたかもしれないのに慌てた事で怪しさが増してしまったと気がついたが、もう遅い。
通り過ぎただろうか?
ハンには、どうにもあの少女に近づきづらい事情があった。
この村で不用意に未婚の男女が二人っきりでいると、婚約関係やそれに近い関係にあると勘違いされかねない。
ハンとしてはそう思われたいぐらいなのだがそういう訳にもいかない事情があった。
そんな風に頭を悩ませていると、気が付けば海辺から彼女の姿はなくなっていた。
よく見れば砂浜を歩いていたはずなのに彼女の足跡はどこにも見当たらない。
幻でも見ていたのかと自分の正気を疑ったが、波打ち際を歩いていたから波で足跡が消された、ということにして自分自身を落ち着かせた。
もう一度眠りに就こうか悩んだが、暑さと窓から差し込む日差しで諦めた。
何よりもこの心臓の高鳴りを抑えて再び眠りに就くなんて到底できる気がしなかった。
ハンモックを降りるときは右足から。
これがハンの毎朝のルーティーンだ。
これを間違えるとその日1日がうまくいかない。ような気がする。
年に数回、間違えてこの習慣を破ってしまうことがあるのだが残念ながら今日はその年に数回のうちの一回になってしまった。
ハンはせっかくの良い気分をそのせいで崩されてしまったがまだ今日という1日は始まったばかりだった。
とりあえず朝の支度をするために隣の居間に向かう。
隣といっても、薄そうな木の板でなんとなく空間を仕切っているだけ。一つの大きな部屋を板で三つに分けて『居間』『ハンの部屋』『両親の部屋』ということにしている、という感じの構造だ。
ドアはないので限りなく隣の部屋との境は曖昧である。というかそもそもこの家には玄関以外にドアはない。
その玄関のドアも鍵をかける機能はあるにはあるが、ハンもその両親も開けっ放しで出かけるのであってもなくても変わらない機能になっていた。
他人でも入り放題な状態ではあるが、コルチ村の約200人の中にはそのような人間は今の所いない。今後も出てこないように村人は毎晩星に願っている。
居間の中央には白樺の木から作られた机と4脚の椅子がある。
この温暖な沿岸地域に白樺の木が生えている訳がないので、おそらく誰かが他の地域から持ってきた物と予想されるが詳細は誰も知らない。
その4脚の椅子のうちの一つに、『こいつは椅子の座り方を知らないのか?』というくらいにやたらとでかい態度で座って釣竿を磨いている男がいる。
この男は一応船大工であるがハンはほとんど船大工として働いているところなんて見たことはない。ハンが思い出せるこの男といえばもっぱら海辺で釣りをしている後ろ姿だ。
ついでに言っておくとこの男がハンの父親だ。
名前はロック・ウェルという。つまりハンのフルネームはハン・ウェルになる。
コルチ村ではハンの親類の家系だけが苗字を持つことを許されている。他の村の人たちは名前だけで苗字はない。
「なんだハン、朝からニヤついてて気持ち悪いぞ。親の顔が見てみたいわ」
「鏡見ろ、鏡。遺伝のせいで元からこういう顔なんだよ」
ハンは適当に答えつつも、表情を引き締めた。無意識のうちに表情が緩んでいたらしい。
「なんだよ、せっかくの休日の朝だってのにうちの息子は冷たいねえ」
「他の人は今日も働くか家事か学校だよ。休日なのは父さんだけ」
「たまには良いんだよ。大人にはこういう時間も必要なのよ」
小指で鼻をほじり出すロック。
「たまにっていうか毎日じゃんよ…」
そう言いながらとりあえず椅子に腰掛けるハン。
机の上には大量のオレンジの皮と保存食になっている羊腸のの肉詰めの残骸。両方ともコルチ村の名産みたいな物だ。
家庭にもよるが1日3食という文化はコルチ村には浸透していない。
多くの家では、果物など質素な朝食に多めの夕食をとる1日2食が一般的。人によっては朝も食べない。ハンは後者だ。
昼間の活動時間をできるだけ多く確保するために、なんとなくこの生活習慣がこの村の普通になっていったと近所のおばちゃんからハンは教わっている。
おかげでこの村では肥満体型の人はあまりいない。
「片付けないとまた母さんに怒られるよ」
「大丈夫、大丈夫。ハンが食べたって言えば怒らないよ。ミーナはハンには甘いから」
「平気で息子に濡れ衣を着せるな」
突然両手で机を叩き、立ち上がるロック。
「ハンは父さんが怒られているところを見ても心が傷つかないのか?そんな冷たい子に育てた覚えはないぞ!」
「僕も父さんに育てられた覚えはないよ。母さんにいっつも任せっきりだったじゃんか」
「まあまあ、そんな思春期みたいなこと言わずにな?一緒に釣りとか行ってたじゃん?洞窟探検とか一緒にしたし。あ、あとなんか焚き火とかさ」
「遊んでるだけじゃねえか!しかもそれ父さんの趣味に合わせてあげてただけだから!」
ハンは幼少期はかなり『ませた』ところがあった。
3歳ごろには家庭事情をなんとなく察して、この3人家族のバランスをとっていた。
「ほんとに?」
「ほんとに」
「まじ?なんかごめん」
「僕のことはいいからもっと母さんのこと労わってあげてよ。働けとは言わないでおいてあげるからさ」
「ほんとにいい子に育ったわねえ!」
ハンを何者かが後ろからいきなり抱き締めてくる。
「ちょ、ちょっと離してよ。朝から暑苦しいなあ」
この甘い香りですぐにわかる。母だ。
抱きついてくるなんてのは日常茶飯事なのでハンの反応は薄い。
「そんなこと言わないでよお。朝のスキンシップは大事なのよ〜」
チュチュっとハンの頬にキスをする。
「わかったわかった、でももう十分でしょ。母さん」
半ば無理やり母を振り解く。名前をミーナ。ミーナ・ウェルという。
「あら…」
少し冷たくしすぎただろうか。
ミーナの少し寂しそうな表情を見て心の中で反省する。
こんな母親ではあるが、自分をとりあえず人間として育ててくれた恩がある。この情けない父親とは違う。
「冷たいハンもかっこいいわね!これはこれでアリよ!」
ミーナはこのくらいのことでめげたりへこたれたりするような人間ではないことをハンは忘れていた。
一通りハンへの朝のスキンシップを終えたミーナは机の上を一瞥すると
「あれま、机の上が散らかってるけどどうしたの?これ全部ハンが食べたの?ハンが食べたならいいのよ、ハンが食べたならね。まさかハン以外の人がこんなに食べるわけはないと思うのだけれど。まさか働かないどこかの誰かがこんなに食べる訳はないでしょうしねえ…」
頬に手を添えながらミーナがハンに向かって尋ねる。
ハンは無言でロックの方に視線を送る。
先ほどは打って変わって椅子に姿勢良く座っているロック。しかし顔に焦りの色は一切見えない。気がつけば釣竿も持っていない。
この男、伊達に何年も無駄めし喰らいをやっているわけではない。この程度では焦ったりしない。
「やだなあミーナ、僕のことを疑っているのかい?ハンがお腹が空いていると珍しく言って朝ごはんを食べていただけだよ」
ロックの喋り方は完全に棒読みで、抜けているところが多い母でもこの嘘は流石に見抜けるだろうと思ったが
「あら、そうなの!ならよかったわ、ハンがお腹いっぱいになってくれたらこんなに嬉しいことはないわ!」
騙されてしまった。
事実を教えても良いのだが、ハンは心の底から夫婦円満を願っている。
故にこういう場合は余計なことは言わずそのままにしておくようにいつもしている。
「ところでハン、手は洗ったの?」
「いや、洗ってないけど。なんで?」
突然のミーナからの質問に戸惑うハン。
ミーナが椅子に座っているハンの右手を掴み寄せ、くんくんと匂いを嗅ぎだす。
確かに変わり者な母だとは常々思ってはいたが、とうとうここまでの変人になってしまったかと驚きと絶望がハンを襲ったがそうではないとすぐに分かった。
「オレンジの皮を剥いたばっかりなら柑橘系の匂いがするはずよ」
ロックが机の上に置いていた両手を慌てて机の下に隠す。
「おかしいわね。あの柑橘系が香りがしないわね。ハンの指先の良い香りはするけど。子供の頃から全然変わってない甘くて良い匂いよ。何時間でも嗅いでられるわ」
「そこまで言われると照れるというより怖いよ母さん」
「とにかく、おかしいわねえこの状況!」
『決まった!』と言わんばかりにロックに指を差すミーナ。
しかし、この状況になってもロックの表情は変わらない。
「なんとか言ったらどうなの、この役立たず!無職!穀潰し!人類の汚点!業人!」
ミーナの言葉はもはや自分の夫に対して使う言葉ではなかったがハンは止めなかった。口に出さないだけで概ね同じ気持ちなのだ。
「おいおい、待ってくれよミーナ。俺にも事情があったんだよ」
「何よ。まあ言い訳があるんならとりあえず聞いてあげるけど」
またどうせ碌でもない言い訳をするのだろうと、呆れ顔になるハン。
「なあ、ハン。一般的にオレンジの旬はいつ頃だ?」
この下らない父の下らない言い訳に付き合わされるのは少々癪だったが、名指しで聞かれたものを断るわけにもいかず渋々答える。
「まあ、コルチ村で取れる物は普通は秋ごろだろうね。旬というには今はまだ早すぎ」
今は夏真っ盛り。オレンジの食べごろは本来もうすぐ先だ。
確かに机の上のオレンジの皮は、少々青っぽいところも見受けられる。
「わかっただろ?ハン」
「わかるかよ!今の話のどこが父さんが食い散らかした事につながるんだよ?!」
「全く、お前はなんで父さんの言っていることをすぐに理解できないのか。そんな子に育てた覚えはないぞ」
「育てられた覚えがねえんだよ!母さん、こんな人の言うこと真面目に聞く必要ないよ。訳がわからないことばっかり言ってるだけだから」
ミーナに視線を向けるハン。
ミーナは両手で目を押さえ泣いているように見える。
「どうしたの?母さん。まさか自分の夫の醜態に呆れ返って……」
「すごいひどいこと言うね。お父さんちょっとショック。」
「違うのよハン……。分かったわ、あなた。私、あなたを誤解していたわ……」
「いや、さっきの話で納得したのかよ夫婦ってすげえ!」
「分かってくれれば良いんだよ。誤解するようなことした僕も悪かった」
なぜか付き合って三ヶ月のカップルかのような熱い抱擁を交わしだすミーナとロック。
状況と二人の仲が良いのか悪いのかさっぱり理解できないハン。
非常に話しかけづらいが小声で話しかける。
「あ、あの…ちょっと良いですか……」
「ハン、ちょっとは空気を読みなさい。お母さんたち今いいところなのよ」
「そうだぞ、母さんの言う通りだ」
「いや、息子の目の前でいいところになるなよ」
渋々、抱擁を解く二人。
「はあ、いつからこんな聞き分けのない子になったんだろうか。まあそこもミーナに似て可愛いけどな」
「やだあ、あなたったらあ」
顔を赤らめながらロックの肩を叩くミーナ。
この二人を10年以上見てきているハンだが、夫婦仲がいいのか悪いのかいまだに判別がつかない。
イチャつく二人を呆然と眺めるハンにいきなりミーナが話を振る。
「とにかくハン。お父さんは立派な人なんだから、失礼な態度をとっちゃだめよ」
「さっきまで穀潰し呼ばわりしてませんでしたっけ」
「そ、そんなわけないでしょ。コークスクリューって言ったのよ。そんなことはいいから、とにかくお父さんに謝りなさい!」
「なんでよ……」
「お父さんは、旬じゃないあまり美味しくないオレンジをあなたが口にしないように先に食べ尽くしておいてくれたのよ」
「マジでただの穀潰しじゃねえかよ」
「お前も、人の親になればわかる時がくるさ」
「オレンジいっぱい食べただけじゃんか」
「そうだ、オレンジで思い出したんだけど今日の夜ハルちゃんが遊びにくるから早めに帰ってくるのよ、二人とも」
「オレンジ全く関係なくない?」
「いやハルちゃんもオレンジ好きなんだよ、俺と一緒でな。ハハハ」
「ハハハじゃねえよ。てかもうこれ間接的に自白したようなもんでしょ……」
口では色々喋っているハンだが内心では気が気でない状態であった。
というのも、『ハル』という女性こそ目下ハンにとっての最大の悩み事なのだ。この両親を差し置いて最大なのだからどれだけ大きな悩み事なのか容易に想像がつくだろう。
「さあてハルちゃんがくるんだから気合い入れて料理しちゃわないとね〜」
「夜まで待ち遠しいなあ。ちょっくら散歩でも行って暇潰すかなあ」
ハンの悩みの種は尽きない。
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