2月(1)

 浅井遥香宅。週に三回、学校帰りにここで勉強することが習慣になりつつあった。

「あの、はーちゃん」

 勉強中、問題を解き終わって休憩しているときに切り出すことにした。

「勉強会中は遥香先生とおよびなさい」

「あ……」

 普段どおりのおちゃらけた返事だが、その作った真面目な顔も、私が言葉を詰まらせるには十分な圧迫感だった。

「んん、ごめん、え、好きな呼び方でいいよ、休憩中だしね、いやほんとごめんて」

 真面目な表情があっという間に崩れて、少し眉が下がる。

「いや、そうじゃなくて……」

 何回か言葉を発したのにまだ内容にかすりもしていないことを情けなく思った。いつまでも弱気でいいわけがない。

「え? じゃあどしたん?」

 すぐには言い出せなくて、思い切って息を吸って、それでも踏ん切りがつかなくて、吸った息は声にならずに出ていった。

「……」

 私の重い空気に飲まれ、不安そうな表情を浮かべているはーちゃんを見て、覚悟を決めた。

「あの」

「うん」

「私……はーちゃんに勉強を教えてもらってるけど、それって、はーちゃんの時間を奪ってるんじゃないかって」

 それを聞いて、はーちゃんは目を見開いて口をギュッと結んだ。口をちょっと開いて、何か言いかけたみたいだったけど、その前に立ち上がった。

「よし、今から遊びに行こう」

「はい?」

「遊びに行くって言ったの」

「今、六時なんだけど……」

「学校のある日に連れ出した前科者が何を言う」

 言葉を詰まらせた私の脇に手を指して、跳ねた体をそのまま持ち上げた。

「結構チカラあるんですね……」

「まあまあ、それはいいから荷物持って出よう」

 自身のスマホをベッドに放り投げて、定期と財布だけ押し付けるように私に持たせてから、私を部屋から引きずり出した。


 *


 はーちゃん宅の近所の公園。パンダの乗り物しかない殺風景かつ狭い公園だった。

「この後の計画共有のお時間です。駅前のタワーで夜景を眺めましょう。そして、駅前の絢爛豪華な夜景をバックに私からの大切なお知らせです。以上」

「みじかっ。そこでプロポーズでもされるのでしょうか」

「まあそんなもんです覚悟しとけ」

「でも――」

「でもだっては時間の無駄! さあ行くぜ!」

 駆け出したはーちゃんに待ってと言えず、追いかけた。

 ブレザーが翻っても、スカートのひだが取れても走り続けた。冬の冷たい空気に吹き出した汗がさらされて、曇っていた頭の中から一切の思考が消え去った。向こう数メートル先を走る彼女に置いていかれないように、必死、だった――。

 駅まで徒歩十五分の道のりをぶっ通しで走り抜け、私の足は改札を通ると同時に崩れ落ちた。

 でも、なんだかわからない「やりきった」感が私の内に広がって、さっきまで気にしてたはずの制服や髪なんてどうでもよくなった。

 風を押してホームに入ってくる電車に、残ったわずかな体力を絞り出して乗り込んだら、はーちゃんの声が。

「よく頑張りました」

 ターミナルから一駅の、まだ人のほとんどいない車内はすごく静かで、私達に注目している人なんて誰もいなかった。

 *

 電車に揺られておよそ十五分、使い切ったと思った体力もいつの間にか回復していて、目的の駅で降りてからは、はーちゃんに着いて歩いた。

「すっごいきれいなんだよ。なんてったって、お父さんがお母さんにプロポーズしたところだからね」

 それはすごく、すごくきれいなんだろうな。

 景色は、気持ちも色づけるから。美しい景色には良い思い出がある。

 ほどよく高いビルが並ぶ大通りを横目に、はーちゃんと私はただ歩いた。

 北風が容赦なく吹き付けて、走った熱はとっくになくなっていた。

 けれど、ただ寒さに文句をつけることもなく、歩いた。

「チケット買ってくるから、ここで待ってて」

 入口右手の壁でぼんやりとはーちゃんを眺めて待っていた。

 はーちゃんはタワーの受付でチケットを二枚買って、急ぎ足で戻って来て、私に一枚手渡す。私が持っていた財布を開けると、はーちゃんは首を振って、私の手にチケットを握らせた。

「私が連れ出したんだから」

 はーちゃんは私の手を握って、エレベーターに向かっていく。

 他のお客さんとエレベーターに乗り合わせた。普段使うものよりもずっと長い時間、エレベーターは昇り続け、女の人はすごーい、たかーいと隣の男の人と腕を絡ませながらはしゃいでいた。私たちは無言だった。

 好きな人がいるって羨ましいな。

 好きな人と付き合えるのはすごい確率だと思う。

 特に、好きな人なんていない側からすると――ね。

「ちーちゃん、ついたよ」

 そういえば、私ははーちゃんにプロポーズでもされるのだった。

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