5月

 交通事故から助けて貰った、とかそんなこれ以上ないくらいのドラマチックな出会いではないけれど、間違って進学校に入ってしまった人間が、落とし物がきっかけで学年主席と出会ってしまったことは、それなりに話のネタになるのではないだろうか。

 けれど、私は彼女と知り合ったことは周りには言っていない。ここで問題なのは、意図して言っていないのではなく、そもそも言う相手がいないということだ。

 悲しいことだが事実だった。けれど、そういうことを話せる友達がいてもわざわざ言わなかっただろう。

 そんな空気を彼女は察しているのか、私とすれ違っても例の笑みを送るだけで、手を振ったりは決してしなかった。下の中くらいの私と知り合いだと思われたくないのでは――という考えも一瞬浮かばなかったこともないのだが、その考えはそんなことないか、と数秒後には忘れてしまうような安心感があった――実際、忘れさせてくれた。

 あの人と会えたことが私の人生において一生の自慢になる。そうなんとなく感じていた。

 こんな人は、中学校にはいなかった。私が男だったら惚れていただろう、なんてものじゃない。きっと、恐れ多くて何もできなかった。まるで高嶺の花を玉座に座らせたような神々しさがあった。違うな、この人がいるところが玉座だといえる神々しさ、か。

 ただ彼女が微笑み、私が不審な様子で頭を下げていく、という日々が続いたある日、人の少ない時間帯に帰っていた、あの時。

 学校の最寄り駅までのほんの十数分のことだった。

「一緒に帰らない?」

 背負っていた鞄をはたかれて、横から覗いてきた顔は相変わらず美しかった。なんでテレビに出ていないのだろうと、思考が外に飛んでいくくらい混乱していた。

「久しぶりだねぇ、千恵ちゃん」

「そ、そうだね」

 彼女の話術はとても長けていた。付き合いの長い、心を許した相手としか笑顔で話せない私でも、彼女の傍では勝手に頬が緩むことを自覚していた。

「ね、私になんかあだ名つけてよ」

 私の担任の先生がカピバラに似ているからカッピーとクラスで呼ばれているとか、地理のイケメンの若い先生が美青年で通じるとか、人の少ない電車でコソコソとそんな会話をしているときのことだった。

「なんかないかなぁ。私、ちゃん付けで呼ばれることが多くて、あだ名ってあんまりないんだよね」

 期待を孕んだ優しい笑みが私の顔を覗く。

「なんか、考えてみる」

 少し、心地よい電車の揺れに乗って考える。私を急かすことも、放置することもなく、一緒に揺れている。

 一駅区間、まるごと考えることに使った。

 こんなに人のために考えたのはいつぶりだろうか。

「はーちゃん」

 熟考の末の答えは、最初の文字を延ばしただけの、なんの捻りもない、幼児のようなあだ名だった。だって、それ以外に出てこないから。

 それでも、彼女は笑ってくれた。それが私が彼女を笑顔に出来た、最初のときだった。

「いいじゃん! 私は――ちーちゃんって呼ぶね」

 夕日が差し込む車内、無邪気に笑う彼女は美しかった――なんていうと、彼女が恋人のようだ。友達以上、親友以上の何かというのはあるのだろうかと、ふと思ったことは、心の奥にしまい込んだ。

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