第3話 日常

3-1 花金

 葵は、地下鉄を含め、数路線の乗り換えを行い、有楽町に着いた。

 今日は金曜日である。多くの会社組織等では、土曜、日曜が休みであることが多いので、今週一週間の労働日、即ち、平日が終わったということであろう。多くの人々にとっては、仕事のしんどさから解放されていると思われるのである。

 そのせいか、有楽町を行き交う人々の姿も何かしら、明るい表情のものに見えた。

 葵にとっても、一応、今日は平日の終わりである。明日、明後日は、休みの予定である。しかし、捜査に進展があれば、休日であるはずの土、日であっても、桜田門への登庁を求められるであろう。金曜日は、1週間の労働から解放されるという意味で「花金」である、と言ったところで、葵にとっては、必ずしも花金ではないかもしれないのである。

 そんな葵ではあるものの、やはり、1週間の労働から解放された気分を味わいたいという、恐らく、今、道行く人々が味わっているのであろうものと同じ感情にあった。加えて、何だか、残虐な殺された方をした斉藤良雄の死体を見たこと、妻の佳子の涙もあり、何かしら、疲れもあった。まっすぐ、自宅に帰って自炊するという気になれないのである。外食というのが、彼女が有楽町に来た最大の原因である。

 葵は傍の牛丼屋に入った。疲れていることもあり、あまり、にぎやかに誰かと会話する気にもなれなかった。その意味では、退庁前に楓の提案を断ったのは正解であった。 

 「いらっしゃいませ」

 葵が扉を開けて中に入ると、早速、女性店員の威勢の良い声が響いた。

 窓側の席に座った葵のところに、1人の女性店員が来て、

 「ご注文は?」

 と、注文を問うた。

 葵は、鮭定食を注文した。注文しつつ、瓶ビールも1本、注文した。やはり、1本くらい、ビールで飲酒したいらしい。

 「かしこまりました」

 店員は、一度、葵の席から下がった。

 店内には様々な客がいて騒がしい。やはり、花金の解放感からか、ビールを飲んでいるものも少なくない。葵から、数メートル離れた席にて、とりわけ騒いでいる男達がいた。

 騒がしい店内にその男たちの声は殊に良く響いていた。

 「うるさいわね。花金だからって、少しは節度のある態度をとれないのかしら?」

 葵は、自分のテーブルに鮭定食とビールが運ばれてくる間、数メートルはられた場所からの騒音に立腹していた。そこに、

 「お待たせしました。鮭定食とビールでございます。ご注文は以上で宜しかった

 でしょうか」

 「え、あ、はい」

 先程から立腹していた葵は、我に返って返答した。

 「ごゆっくりどうぞ」

 そう言って、店員は下がった。

 「ごゆっくり、じゃないわよ、うるさい男達のせいで」

 そう思い、又、

 「あ~あ、入る店、間違っちゃたみたい」

 そう思いつつも、自身が注文し、来てしまった定食はしかたがないのである。葵は鮭定食に箸をつけ始めた。同時にまた、グラスにビールを注ぎ、まずは最初の一杯を飲み干した。数メートル先は相変わらずうるさい。酔った葵は、料理に箸をつけつつも、酔ったせいもあってか、何だか、益々、数メートル先から届く騒音がうるさく感じられた。半ば、食事をしながら、騒音源の喧騒に付き合わされているような感じになって来た。

 「いやあ、カンザキさん、なかなか、国を憂うるに優れたものがありますな」

 「うむ、俺としても、外国人にこの日本が脅かされ、反日が増えては困ると考えて

 いる」

 そのカンザキに対し、別の男が言った。

 「神崎社長、これからもコクシとして、又、会社社長として、ご活躍を期待させて

 いただきます」

 どうも、右翼的言動からして、「コクシ」は「国士」ということらしい。カンザキは周囲のおだてが良い気分だからなのか、高笑いを上げた。

 葵はふと、カウンターの方に目をやった。忙しく働いて切る店員たちがいる。幸い外国人店員等はいなかった。こうした店舗では、外国人労働者が働いている事例は、それこそ、

 「日常の風景」

 である。

 「外国人店員がいなくてよかった。きっと、外国人店員がいたら、あいつ等の言動

 に傷ついたとしても、店員という立場上、相手に反論もできず、苦しんだでしょう

 に」

 心中にて、そのように思った葵は、同じく心中にて、

 「馬鹿な奴ら」

 と軽蔑の台詞を吐くと、勘定を済ませ、牛丼店を出た。


3-2 帰路

 牛丼店を出た葵は、その後、まっすぐに帰宅することにした。先の牛丼屋の件に加えて、またも、何らかの不快な事件等に巻き込まれる、ということになったら、たまったものじゃない、という気分になったのである。葵はJR有楽町駅に向かって歩き出した。

 そこに、鞄の中のスマホが鳴る音がした。葵がスマホを取り出してみると、スクリーンには、

 「山城 真江子」

 とあった。葵の母からである。葵がスマホに出ると、

 「あ、葵ちゃん?」

 早速、真江子が声をかけて来た。

 「あ、お母ちゃん?一体、どないしたん?」

 葵は京都弁にて返答した。

 「これから、電車に乗るさかいにな、又、後にしてくれへんか?」

 そう言うと、葵は、真江子からの電話を切り、鞄にしまった。

 有楽町のJR駅は高架である。品川方面に向かおうと、上野方面に向かおうと、暫くは高架が続く。東京の夜景がある意味、俯瞰的に見える。

 葵は思った。

 「日常か...」

 東京の夜景は、それこそ日常の生活の中で、日々、見るものである。夜景を見ることそのものが日常であった。しかし、その中には、先程も見たように、様々な人間模様がうごめいているのである。ホームレス、カンザキの件、全てそういった類のものである。

 先程、牛丼店で騒音を発していたある男の言葉の中に、

 「カンザキ社長」

 という言葉があった。殺された良雄とある意味、同じ社会的地位にあるのであろう。一方の社長は殺され、他方は周囲からおだてられる。

 この両者の違いは何故であろうか。

 「いや、考えても仕方がないか。私は私で、斉藤氏殺人事件の件に集中しないと」

 と心中でつぶやいた。雑念によって、捜査に悪影響を及ぼす等のことがあれば、刑事失格である。

 数本の電車を乗り継いだ葵は、いつもの如く、出勤時に電車に乗る駅でもある自宅マンションに一番近い駅で電車を降りた。駅前にはバスターミナルがあるものの、歩けない距離ではない。酔い覚ましをしたいこともあり、歩いて帰宅することにした。

 葵は、本来、酒に弱い方ではない。大学時代のサークルでも、結構、飲む方であった。しかし、今日はビールに酔っている、というのではない。カンザキ達の不快な騒ぎに怒りを感じ、しかも、その怒りに自身で耽溺するような格好になったこと、つまり、自身の怒りの感情に酔う格好になっていたのである。

 「怒りの感情」

 への酔いはなかなか冷めない。結局、葵はその酔いをアルコールの酔いで抑え込もうと、更にビールを飲むことにした。帰宅途中、コンビニに立ち寄り、数本の缶ビール数本を購入した。

 カウンターで会計を済ますと、

 「ありがとうございました」

 という店員の声が続いた。ここのコンビニの店員は日本人であった。葵の住むマンションのある地区一帯は、日本人が多い。政府は、日本人と定住外国人の共生を言うものの、地区によって、「共生」というより「住み分け」、更に厳しく言えば、「隔離」が進んでいる感もあった。

 なだらかな坂道となっている道路を歩いて行った葵は、自宅マンション前に着いた。


3-3 母子戦争

 正面エンタランスからマンションに入った葵は、集合郵便受の中の自身の郵便受のダイヤルキーを回して中を確認した後、エレベーターで自身の階に上がり、廊下を歩いて、自宅前に着くと、扉の開けた。

 自宅内に入った時点で、とりあえず、この一週間の平日としての葵の

 「日常の生活」

 には、一旦、終止符が打たれたというべきであった。

 「さてと」

 鞄と先程、コンビニで買って来たビールとつまみをテーブルの上の置くと、シャワーを浴び、ガウンに着替えて、ソファに座り、テレビのスイッチを入れた。

 「好きなDVDが有るんや」

 そう言いつつ、缶ビールの栓を開け、つまみを口に入れた。

 それから10程、経ったであろうか。葵自身の脇にあったスマホが再び鳴った。再び

 「山城 真江子」

 であった。

 「あ、お母ちゃん、どないしたん?」

 「さっきの話やけどな」

 「何?」

 「葵ちゃんとええお見合いの話が有るんや」

 「え?」

 「あんたももうええ年齢やし、結婚のことも考えるべきや」

 「私は、自分で東京で自立して生きてんねや。それをいきなり、結婚って、何な

 の?」

 真江子は、下の子・綾(あや)、つまり、葵の妹がすでに結婚してることを引き合いに出しつつ、

 「あんたももうええ年齢やし、そう言ったことも考えてみんか」

 と言った。真江子は、親切のつもりで言ったらしい。しかし、これは、警視庁刑事としての葵のキャリアを捻じ曲げかねない大干渉と言うべきものであった。

 酒の入っていた葵は怒気を強めて言った。

 「私は、東京できちんとキャリアを積んでそれなりに生きてるんや。勝手なことい

 わんとって」

 「せやけど、結婚も一つの道やない」

 葵が怒ったからか、真江子の声も強くなった。売り言葉に買い言葉である。

 「あんたって、昔から親の言うことは聞かんし、可愛げのない娘やった!」

 「そうや、それがどないしたん!」

 「親の心が分からんの?」

 「そうや、あんたの心なんかわからんわ!」

 「なんや、その言葉!」

 折角の私的時間を妨害されたこともあり、ぶちきれた葵はスマホに向かって、叫んだ。

 「うっるっさっいっ!」

 そう叫ぶと、更に葵はスマホに向けて怒鳴った。

 「こっちだって、しんどいんや!いちいち余計な話、持ち込んでくるなや!」

 一方的にスマホを切り、ソファに叩き付けた。益々、不快なことである。

 所謂「花金」でありながら、そんな気分ではまったくなくなってしまった。

 真江子は、葵が幼いころから、何につけても自身の「理想」に耽溺し、その延長で葵に口うるさく言う女性だった。葵が大学卒業後、東京の警視庁に就職したのも、うるさい真江子が嫌いだったからである。

 とりあえず、葵は、正面のテレビが放映しているDVDの内容に戻った。

 それを見ているうちに、葵はいつの間にか、笑ったり、泣いたりしていた。勿論、DVDは、視聴者を引き付けるべく演出されている存在である。しかし、葵は、そういったものに感情移入し、そこから自分の世界をつくることによって、自身に耽溺しやすいのかもしれない。その点では、真江子から遺伝しているものがあるのかもしれない。

 しかし、DVDに感情移入し、今まさに、自分の世界をつくることによって、自身に耽溺している葵はそんなことに気付くはずもなかった。

 残りのビールをぐび飲みし、

 「いっそ、おかんからの連絡は着信拒否にしたろうか」

 と心中でつぶやきつつも、曜日が土曜に変わるころには、床に就いた。

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