第64話 別人
「夜桜十六夜は私にとって予想外の存在だった。私の巧みな防衛を掻い潜り、優雅に近づいた人物は彼女以外いない。そういう意味ではラッキーだったね。おかげで初めての友だち、そして彼女になり得た。これは私にとって危険な存在だった。だから何としても夜桜十六夜は優雅の元から排除しなければならないって思った」
「十六夜に何かしたら俺はお前を絶対に許さないぞ。そうなれば葵のことは一生嫌いになるからな」
「優雅。今の私は嫌い?」
「あぁ、嫌いだ。俺はお前の行動にうんざりなんだよ。これ以上、裏で手を引くのはやめてくれ」
「へぇ、そう。私のことが嫌いなんだ。だったらもう何でもいいや」
「ん?」
葵は俺の首を両手で掴んだ。
「私がどんな思いで尽くしてきたのかどんな気持ちで優雅を思ってきたのか分からないっていうならもう何でもいい」
グッと葵は腕に力を込める。
「放せ。葵。お前は間違っている」
「うるさい! うるさい! うるさい! 私の今までの思いは何だっていうの! 私が何をしたっていうの!」
葵は頭に血が上って正常な判断が出来ない様子だった。
これではまともに話もできない。
「落ち着け。葵! お前は愛し方を間違えている」
「何が間違っているっていうの。私は勝ちヒロインになろうと努力してきた。それなのに優雅は負けヒロインを選ぶっていうの?」
「そういう問題じゃない」
「じゃ、何だっていうのよ!」
「お前は正常な判断が出来ないだけだ。本来の自分を取り戻せ」
「優雅!」
葵は本気で俺を殺そうとしている。
俺は咄嗟に葵は押しのけた。
「いい加減にしろ! 葵!」
すると葵は頭を強く塀にぶつけてしまった。
ドンッ鈍い音が響いた。そのまま葵はうつ伏せで倒れこんでしまったのだ。
只事ではない事態に俺は血の気が引いた。
「あ、葵? おい! 葵。しっかりしろ!」
俺は葵に駆け寄るが、葵の意識はなかった。
「ぐっ! 待っていろよ。葵、今すぐ救急車を呼んでやる」
俺はスマホからすぐに『119』で救急車を呼んだ。
絶対に助けてやる。その一心で俺は葵のそばで呼びかけた。
数分後、救急車が俺の家に到着して葵は運ばれた。
俺も一緒に乗車して葵を呼びかけた。
脳震盪を起こしたが、命に別条はない。
だが、葵の意識は戻ることはなかった。
それから五日後のことだ。
「葵が目を覚ましたって?」
葵の母親からの連絡で俺はすぐに葵のいる病室に駆け込んだ。
そこには葵の家族たちが集まっていた。
真っ先に葵の母親は俺に駆け寄ってきてくれた。
「優雅くん」
「おばさん。葵は?」
葵はベッドから上半身だけ起こして呆然としていた。
まるで生気が失われたように遠くを見ているようだった。
「葵、無事だったか。心配したんだぞ」
俺が葵に駆け寄った直後である。
「初めまして。あなたは誰ですか?」
「葵?」
「優雅お兄ちゃん。見ての通り、葵姉ちゃんは記憶がない。私たちも誰か分からない状態です」
「……記憶がない?」
確かに目の前の葵は俺の知る以前の葵とは大きく印象が変わっていた。
まるで別人のように目が虚ろで活き活きした姿はどこにもない。
「葵。俺だよ。高嶺優雅。お前の幼馴染の」
「幼馴染? 私に幼馴染なんていたんですか?」
本当に何も知らないような口調だった。
嘘だろ? 俺の知る葵はどこへ行ってしまったのだろうか。
「一時的だって医者は言っていましたが、記憶が戻るには時間を掛ける必要があるって」
「朱莉ちゃん。それはいつ頃戻るの?」
「さぁ、早ければ数日。遅ければ一ヶ月や一年。もしくは戻らないこともありえるって」
「嘘……だろ?」
今の葵は俺が誰だか分かっていない。
それに俺のことが好きだったことすら分かっていないのだ。
この状態がいつまで続くのか、誰にも分からない。
ただ、本人の努力の周りの支えでふと、記憶が蘇るとのことだが、何も確信はない。
「葵。葵……」
そう呼びかけても葵は無反応だ。自分自身も忘れてしまっているのかもしれない。
それから葵の記憶が戻らないまま、五年の年月が過ぎようとしていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます