その5
リングアナウンサーが、リングに上がった二人のレスラーを紹介する。
10対0
明らかにそうだった。
当然、”10”は、相手のベビーフェイス。
”0”は、大前田英五郎だった。
リングアナも敵、観客も恐らく総て敵、
しかし英五郎は臆してはいない。
彼は精一杯、ブック通りの悪役を演じ、客席に向かってぎこちなく悪態をつき、花束を渡しに来た女の子を脅しつけた。
テープが飛び、レフェリーと対戦相手二人を残した。
当たり前だがレフェリーも敵である。
相手方はほんのおざなりのボディーチェックをしただけ、
英五郎には、実に念入りに、長々とチェックをしていた。
二人が一旦コーナーに下がる。
ゴングがなり、中央に進み出た。
シャドーズの演奏が始まった。
”ウィリアム・テル序曲”だ。
(まるでエレキの若大将だな)俺は心の中で苦笑いをする。
恐らくベビー・フェイス側のリクエストでそうなっていたんだろう。
英五郎は相変わらずぎこちない動きで、一方的に攻めまくる。
レフリーの制止も無視して、反則のやりたい放題だ。
だが、俺の目から見ると、如何にもやらされてるという雰囲気が見え見えだ。
そして10分ほど経つと、今度は相手側が攻勢に転じる。
今度は英五郎が一方的にやられ始めた。
場内の声が、ブーイングから歓声に変った。
中にはジュースか何かの空き缶を投げる奴までいる。
英五郎は黙ってブック通りに、やられ放題を続け、見るも哀れなヒールを
演じ続けた。
また10分が経った。
シャドーズの演奏が停まる。
何度も続けていた”ウィリアム・テル序曲”が止んだ。
リングから離れたステージの上の松下京子が、ギターの手を止め、メンバーの方を振り返り、アイコンタクトを送る。
メンバーは何やら頷き、また演奏が始まった。
スローなバラード。
どこかで聴いたことのある曲だ。
そう、
”my bonnie”だ。
バラードが途切れる。
だがそれも一瞬だった。
鋭いビートで、スコットランドの民謡を奏でる。
曲が変わった刹那、英五郎の顔色が変わった。
目つきが哀れな
彼は鋭い雄叫びを挙げ、猛然とベビーフェイスに突進する。
それまでの反則技ではない。
ハイキックを何度か飛ばし、相手を翻弄する。
向こうは明らかに、
”約束が違うじゃないか”というような表情に変わった。
それでも彼の攻撃を受けようとする。
場内の空気もその時から変わった。
10対0が、7対3に、
7対3が、6対4に、そしてとうとう、
5対5に、歓声の分量が変わったのだ。
英五郎に対する汚いヤジは消え、彼を応援する声になっていった。
あまりのことに、レフェリーが割って入ろうとするが、しかしその時にはもう場内の歓声は完全に逆転し、7対3で、英五郎への激励に変っていた。
ベビーフェイスはムキになって、ラッシュを繰り返すが、英五郎はそれをものともせず、挙句は相手が繰り出した反則のパンチを潜り抜け、バックを取ると、見事なジャーマンスープレックスに極めた。
もはや7対3どころの騒ぎじゃない。
10対0だ。
会場全体が英五郎の名を叫び、喝采を送った。
レフェリーはしばらく呆然とした顔つきで立ちすくんでいたが、
やがて我に返り、マットに這いつくばるようにしてカウント3を入れた。
再び歓声が会場全体を満たし、高々と英五郎の片手が挙がる。
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