第22話

Chap.22


 温室をほぼ周り終えたところで、春花はある花のことを思い出した。

「昔特別な時に乾杯するときに使ってたソラスっていうお花はないんですか?」

 シェルダンが嬉しそうににこりとした。

「お、よく知ってるね!」

「エルザに…『お隣』のお友達に教えてもらったんです。白いお花なんでしょ?」

「そう。外の庭にあるよ。案内しよう」

 ロビーに続くドアの前まで来た。なんだか名残惜しい。ドアの前で振り返り、心の中で植物達に挨拶する。また来るね。今日はありがとう。

 そんな春花を見て、シェルダンが微笑んだ。

「いつでもおいで。僕かジョアンナが大抵ここにいるから。花たちも喜ぶよ」

「ありがとうございます。絶対また来ます!」

 不思議な経験だった。見たことも想像したこともなかったような変わった花たちとの出会い。今までで一番『違う世界』というものを感じたひと時だったかもしれない。

 温室の世界にまだどっぷりと浸ったまま、ぼうっとして建物の外に出ると、妙に見慣れた人がこちらに向かって歩いてくるのが目に入って、春花は一瞬言いようもなく混乱した。

「…俊ちゃん!」

「ちょうどよかった」

 俊がにこにこして言い、春花は近づいてきた俊に思わず駆け寄っていた。夢中になって腕を掴む。

「どうしてここにいるの?危ないじゃない!」

「え?」

「ここすごく広いのに…。会えなかったらどうするつもりだったの?図書館で待ってる約束だったでしょ!スマホないんだよ?行き違いになって迷子になったらどうするの?」

 俊が苦笑する。

「迷子になんかならないよ。最悪の場合は『扉』の係の人たちに助けてもらえばいいかなと思って出てきた。あんまり遅いからちょっと心配になってさ」

 言われて腕時計を見た春花は仰天した。もう三時間も経っている!長くても二時間くらいと話していたのに。

「…信じられない。ごめんね、俊ちゃん」

「いいって」

「悪かったね、俊。僕もつい時間を忘れちゃって」

 リオが申し訳なさそうに言った。俊が笑って肩をすくめる。

「全然構わないよ。俺もたくさん本読めたしさ。すげえ楽しかった。…あ、はじめまして」

「ああ、ごめん。俊、こちらシェルダン。シェルダン、こちら俊」

「はじめまして。うーん、君も桜が似合うね」

 シェルダンが言って、俊は目を丸くした。

「桜?」

「また言ってる」

「いやほんと。ちゃんとバックに桜が見えるんだから。さて、それじゃ、みんなでソラスを見にいこうか」

 歩き出したシェルダンとリオについていきながら、俊が春花にひそひそ訊く。

「ソラスってなんだっけ」

「この世界で昔特別な乾杯に使ってたお花」

「ああ!」

「ほんとにごめんね、俊ちゃん。こんなに遅くなっちゃって」

「いいって言ったろ。楽しかった?」

「すっごく楽しかった!見たこともないお花がいっぱいあって、…あ、そうだ、これ」

 ポケットからティッシュに包んだ金の蜜の粒々を取り出す。

「学名は忘れちゃったけど、『女神の葡萄』って呼ばれてるお花の蜜みたいなもの。ピンク色のガラスでできた葡萄みたいに見えるお花なの。すっごい綺麗なんだよ」

「へえー」 

 一粒つまんでしげしげと眺める。

「その花の蜜で作ったってこと?」

「ううん。あのね、一つ一つのお花は下向いた小さな丸いツリガネソウみたいな形なんだけど、それを指先でトントンって叩くと、中からこれがこぼれ出てくるの」

「へえー!すごいな。人工物みたい。完全に球体じゃない?全然でこぼこしてない。自然にこんなきれいに丸くなるんだ…」

 口に放り込む。

「わお。メープルシロップみたい」

「でしょ」

「もっといい?」

「もちろん。半分はね、ハルにって思ったけど、向こうには持って帰れないから、ハルにあげたつもりで食べよう?」

 俊が優しい目をして頷いた。

「了解」

 

 ソラスは丘のように少し高く丸く整えられたところに植えられていた。離れたところから見ると、そこだけまるで雪が降り積もったように見えた。

「ちょうど今頃から夏の前半くらいまでが花盛りなんだ。だから昔は、例えば結婚式なんかはこの時期にやるのが普通だったんだって」

「なるほど。大事な乾杯だからね」

 リオが頷く。

 『お隣』の、上を向いて咲く百合のような形をしたソラスを見ていたからか、なんとはなしに、似たような形の小型バージョンを頭に描いていた春花は、意外さに顔をほころばせた。

 直径5cmくらいの、お味噌汁のお椀をうんと小さくしたような形をした花だ。花びらは分かれていない。まさにそのまま盃として使える。真っ白で美しい光沢があり、まるでサテンでできたお猪口のように見える。縁は柔らかい波型で、波の出方はそれぞれの花で違う。中心には綺麗なブルーのおしべらしきものと、真ん中にグレイのめしべらしきもの。香りはない。

「これにディルサっていう葡萄の一種からできる無色透明の酒を注ぐと、おしべは赤くなって、めしべは金色になるんだよ。そして酒に少し甘みがつく」

「ええー!すごーい!」

 思わず甲高い歓声を上げてしまって、慌てて口を抑える。今のは自分でも俊の言う「女子のやかましいキンキン声」だと思った。

「今ではもうこの花で乾杯しないんですか」

 俊が訊く。

「一時期ずいぶん数が減ってね。元々そんなにありふれた花ではなかったから。それで絶滅を防ぐために、できるだけ使わないようにということになったんだよ。最近ではずいぶん数も増えてきているけど、風習の方が廃れてしまった感じだね。まあ、花にとってはありがたいことだろうけど」

 春花は頷いた。

 確かにその通りだ。ロマンティックで素敵だとは思うけれど、花にしてみれば、摘まれてお酒を注がれちゃうなんて、たまらないだろう。

 そよ風が吹いて、細い茎の上のソラスたちが楽しげに揺らめいた。

 春花は目を細めた。

 「私たち、ここで幸せよ」って言ってる。

 よかったね、と心の中でソラスたちに語りかけた途端、

「なんか幸せそうだな」

 すぐ隣に屈んでいた俊が言ったので、春花はびっくりして、ソラスたちに向かって微笑んでいるその横顔を見つめた。

「盃代わりに使われなくなってよかったって言ってるみたいだ」

 またふわりと風が吹いて、優しい目でソラスたちを見つめる俊の前髪を揺らした。

 こういうのを胸がキュンとするっていうんだ、と思った。


 ゆっくりと辺りを散策して様々な植物たちを見た後——もちろんシェルダンの懇切丁寧な解説付きだ——、植物園の中にある小さなカフェでお茶を飲むことになった。大学構内のカフェだからなのか、セルフサービスで、カウンターの前にはちょっとした列ができている。

「席に座ってて。紅茶とクッキーでいい?」

 シェルダンが言うのをリオが遮る。

「僕がするよ。こんなに長い時間案内してもらっちゃって…」

「私も手伝う」

「いいから二人ともシェルダンと座ってて」

 断固とした口調で言ってリオが三人をテーブルの並んでいる方へ押しやったので、三人は開いた大きな窓の脇のテーブルを選んで腰を下ろした。窓のすぐそばに、大輪の淡い黄色の薔薇たちが美しく咲いている。

 シェルダンが大きな眼鏡のブリッジを長い指で押し上げ、向かいに座った俊に微笑んだ。

「俊は将来研究者になる気ない?向いてると思うけど」

 植物についての説明にぐいぐい食いついてきて、いいポイントをつく質問をする俊がすっかり気に入ったらしい。

「何になりたいかなんてまだ全然わからないけど…、でも研究職っていいなあって思ってます。食べていければだけど」

 シェルダンがあははと笑った。

「食べていければ、か。現実的だね!今何歳?」

「十四です」

「ということは中学?」

「はい。三年です」

「じゃ次は高校かな?」

「はい」

「カッサだったら魔法高等学校もあるけど」

 ニヤリとしてみせる。

「君たちのとこじゃ、魔法学校が人気なんだろ?ハリーポッターとかいう本のせいで」

「そこ、誰でも入れるんですか?」

「いや、魔法を持ってる子じゃないと入れない」

 俊が苦笑する。

「じゃダメだ」

 シェルダンが眉を上げる。

「なんで?調べてないんだろう?」

「え?」

 俊がきょとんとする。シェルダンが春花を見る。

「あのね、『扉』を通れるかどうかで魔法を持ってるかどうかがわかるんだって」

 さっき温室でリオに聞いた話をする。

「へえー!俺、知りたいな、魔法持ってるかどうか」

 俊が目を輝かせた。

「でもね、それじゃ規則を破ることになっちゃうもの。私たちのためにリオに規則を破らせることになっちゃうでしょ。そんなのよくないよ」

「…そっか。そうだよな」

 ちょっとため息をついてから、気を取り直したように、

「ま、ブレスレットがあればここに来られるんだしね。それにどっちみち日本には『扉』がないんだから」

「へえ、そうだったっけ」

 シェルダンが言ったので、二人は目を丸くした。そんな二人の反応を見て今度はシェルダンが目を丸くする。

「何?」

「だって…、僕たちの世界のどこに『扉』があるか、知らないんですか?」

「フランスのP市にあるってことは知ってる。ジョアンナがたまに行くからね。でもあとは知らない。君たちの世界だけじゃなくて、他の世界のどこに『扉』があるのかも僕は知らないよ。今は自分の研究で手一杯だから、他の世界に行ってみようなんて気にもならないし」

「『扉』のことって、この世界ではあんまり知られてないんですか?」

「そうだね、そんなに知られてるわけじゃないよ。もちろん『扉』とか他の世界が存在するってことはみんな常識として知ってるけど、実際に『扉』を使う人はそんなに多くないし、だからどこに『扉』があるかもそんなに知られてないね」

「へえ…」

「…やっぱりその辺が違うんでしょうね。昔から、他の世界の存在とか、他の世界と行き来できるなんていうことが、常識として、当たり前のこととして知られてるから、かえって大半の人は注意を払わない。そういうことに興味のある人達だけがそのことについて色々知っている」 

 考え深げに呟いて、俊が春花を見た。

「俺たちの世界で、たとえばディズニーランドが好きな人たちは、行き方とか、何時頃行くのが一番いいとか、パレードのこととか、アトラクションのこととか、レストランのこととか、店のこととか色々知ってるけど、そうじゃない人はディズニーの存在くらいしか知らないし、特に行こうとも思わないのと同じなんだよ、きっと。俺たちにとっては、他の世界の存在とか、行き来ができるとかっていうのは、発見したばかりの、新しい、すっげえことだけど、こことか『お隣』では、そうじゃない。…そっか、そういうことなんだ…」

 俊は椅子の背にもたれかかって、納得したというように何度か頷いた。シェルダンが微笑む。

「ブレイクスルー?」

「少し。この前リオと話していて、世界間の移動のこととか、それに関することがほとんど研究されていないっていうのを聞いて、なんだか納得できなかったんですけど、今ちょっと腑に落ちたような気がします」

「なるほどね」

「そういえば…。今日、図書館で色々物語を読んでいてふと思ったんですけど、ここでは、リオたちの世界はどういう世界っていう認識なんですか?」

「というと?」

「やっぱり、物語を書いたり、作曲をしたりする人たちっていうのはみんなリオたちの世界に行ったことがあるって言われてるんですか?」

 シェルダンはふむ、と考える目つきになって腕組みをした。

「そんなことないと思うなあ。だって、君たちの世界とは違って、ここにはリオたちの世界に行く『扉』があって、誰でも好きな時に行かれるわけだからね」

「あっ、そうか…」

 俊が目から鱗の表情をして嘆息した。

「そうか…なんていうか、世界と世界のつながり方が全然違うんだ」

 誰でも好きな時に行かれる。

 じゃあ、忘れちゃうとか、行かれなくなっちゃうとか、そういうこともないんだ…。

 羨ましい、と心から思って、春花は初めて、自分が常に心の底で「忘れてしまったらどうしよう」と不安に思っていたことに気がついた。ユマたちと突然会えなくなってしまったら——お父さんのように。そんなの絶対に嫌だ。

「ただ、こういう言い伝えは聞いたことがあるよ。あの世界のどこかに精霊の木というのがあって…いや、精霊そのものがいて、だったかな、とにかく、その木だか精霊だかが、人間の目には見えない種を飛ばしている。綿毛みたいにね。それが想像力だか創造力だかの源になる、って」

「なるほど…」

 俊が宙を見つめて呟いた。

「…で、俺たちの世界から、『扉』もないのに…ちゃんとした道もないのに、どうしてかその精霊の種のある世界に引き寄せられた人達が、想像力とか創造力をもらえる、と」

 ふむふむ、とシェルダンが頷く。

「それならわかるね。誰でも行かれるんじゃそんなご利益は期待できないけど、そうやって、人達だけが行かれるなら」

「でもじゃあ、招待状をもらって行く人たちは?」

 春花が言って、シェルダンが首を傾げた。

「招待状?」

 俊が説明する。

「…へえ、知らなかったな。でも、招待状だって見える人と見えない人がいるんだから、やっぱり人ってことになるんじゃない?」

 そこへリオが戻ってきて、

「大変お待たせいたしました」

 慇懃な口調と共に、大きな銀色のトレイをテーブルに置いた。太った大きな淡いクリーム色のティーポットとティーカップ、そして大きなお皿に山盛りのクッキー。たちまち紅茶の香りとおいしそうなクッキーの匂いがテーブルに広がる。

「わあおいしそう!」

「おお豪華版!」

 シェルダンが嬉しそうに手を擦り合わせて説明してくれる。

「これがチョコレート、こっちがバター、これはナッツ、この三角のがジンジャー、これは中にキャラメルが入ってるやつで、この豆の載ってるのはコーヒー、これがチョコチップ、これはチョコレートだけど中にママレードが入ってる」

 クッキーはどれもとってもおいしくて、みんなのおしゃべり——主に俊の魔法科学についての質問にシェルダンが答えるというものだったが——を聴きながら、春花は考えた。これは、環境が変わるとおいしく感じるとか、そいう類の違いじゃない。何が違うんだろう。小麦粉?バター?砂糖?卵?もちろん、ここは別の世界なのだから、言ってみれば空気も水も違うんだし、だから材料の全てが違うと言ってもいいわけなんだけど。

 ハルにも食べさせてあげたいな。

 ちょっと悲しくなる。

 さっきの『女神の葡萄』の蜜もそうだ。あげた、なんてやっぱり悲しい。本当にあげたいのに。

 …本当に、あげたいのに。



  


 

 

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