第21話

Chap.21


  「そんなに笑わなくったっていいでしょ」

 図書館を出てもまだリオがくすくす笑っているので、春花はちょっと口を尖らせた。

「ごめんごめん。だってまるでお母さんみたいだったからさ」

 俊を一人で図書館に残していくのが心配で、あれこれリオに質問したり俊に注意事項を述べたりした最後に、ごく自然に

「知らない人についてっちゃだめよ」

 と言ったら、リオに大笑いされたのだ。

「だって、俊ちゃんたらまるで小さい子供みたいに夢中になってるんだもの。なんだか心配になっちゃって…。ぼうっとして悪い人に騙されてついてっちゃうんじゃないかって気がして」

「大丈夫だよ。ここでそんなことが起こったなんて聞いたためしがないし」

 でも、何事にも初めてということがあるんだし、俊ちゃんがそんな事件の最初の犠牲者になっちゃったら絶対に嫌だもの、と心の中で思ってから、春花は自分でも少し訝しく思った。

 どうしてこんなに心配なんだろうな。

「それに植物園は目と鼻の先だしね。ほら、もうここから植物園。あそこにちょっと見えてるのが温室」

 アーチの下の小さな門を開けて春花を先に通してくれながらリオが言う。アーチに絡みついているのは大小のまん丸の葉っぱと、その間に隠れるようにして咲いている小さな白い鈴のような花だ。

「わあ、かわいい」

 指先でそっと花に触れてみると、花はかわいらしく揺れて、ちりんちりんと微かに鳴った。

「なんていうお花?」

 下に小さな札が立っているけれど読めない。

「リスルスメニア。通称小さい鈴」

「小さい鈴…小鈴ちゃんか。かわいいな。よろしくね」

 歩を進めながら、リオが微笑む。

「春花は本当に花が好きなんだね」

「大好き」

 そう言って、木々の向こうに見える青い空を見上げる。

 「大好き」っていい言葉だなと思う。「大好き」と口にすると、嬉しくなって身体がちょっと宙に浮かぶような気がする。

 ハル。

 ハル、大好き。

 一緒にたくさんお花見ようね。

 植物園には春花が見知っている植物たちもあった。見事な藤を見上げながらリオに訊ねる。

「そういえば、季節は一緒なのね。日本も『お隣』もここも」

「そうだね」

 日本、と言ったらお父さんの顔が浮かんだ。

「ねえ、お父さんもこの世界に来たことがあるのかな」

「そりゃああると思うよ」

「お父さん、思い出せるといいのに…。どうしたらいいのかなって色々考えてるんだけど…、写真も向こうに持って行っちゃだめなんでしょ?」

「規則だからね」

「ここの世界の写真もだめなの?」

 リオは首を振った。

「そっか…」

 じゃあ絵を描いてみるしかないか…。俊ちゃんにも頼んでみようかな。私よりずっと上手だし…。 

 あっ。そうだ!

「俊ちゃんと一緒に絵本作ってみたらどうかな」

 リオがにこりとする。

「隣の世界に行った男の子の物語?」

「そう!湖のお家の絵とか、子供時代のお父さんやフランツやエルザの絵もできるだけ似せて書いて…」

 心にふっと冷たい風が吹き込んだ。

 俊ちゃんは、私とそんなことするより、メラニーと時間を過ごしたいかもしれない。でもお父さんのためだと思って、無理して付き合ってくれちゃうかもしれない。そんなのよくないよね。それに、やきもち焼いて俊ちゃんを引き留めておこうとしてるとか思われちゃうかもしれない。

 メラニーにも、やっぱり私が俊ちゃんに金魚のフンみたいにくっついてるとか、自分と一緒にいることを強制してるとか思われるかもしれない。そんなの嫌だな。

「どうしたの」

「うん…」

 ちょっとためらったけれど、優しい灰色の目を見たら相談してみたくなった。玉砂利を踏む音を数歩分聞いてから口を開く。

「…俊ちゃんは、そんなことするよりメラニーと一緒に時間を過ごしたいよね、きっと」

「そう思う?」

「うん…。でも俊ちゃんは優しいから、たぶんそんなこと言わないで、できるだけ手伝ってくれちゃうと思う。でもそれじゃ私、お邪魔虫になっちゃうし、そんなの嫌だもの。メラニーにまた、私が俊ちゃんに強制してるとか自由にさせてあげてないとか思われるのも嫌だし」

 リオが青い空をゆっくりと横切っていく白い雲に向かって微笑んだ。

「でもあの時、俊は、自分は自分のやりたいようにしてるし、誰にも何も強制されてないって言ってたよね」

「…そうだけど」

「それに、メラニーがなんて思うかなんて、本当に気になる?」

「…そうでもないけど」

「もうひとつ。絵本づくりの作業そのものは日本でする方がいいよね。僕たちの世界でやるんなら、材料は全部日本から持ってこなくちゃいけないから、かえって面倒じゃない?」

「えっ?…ああ、そうか…。『お隣』の材料で作っても持って帰れないのね」

「その通り。だからどっちみち俊とメラニーのデートの邪魔にはならないわけだ」

「…そっか」

「そう。いいアイディアだと思うよ。スケッチブックと鉛筆だけ持って来て、ささっとスケッチだけすればいい。それくらいならメラニーもとやかく言わないだろうし」

 ふと、春花の頭の中に映像が浮かんだ。湖の家の庭の緑の芝生に座る俊とスケッチブックとメラニー。

「…俊ちゃん、絵本のためのスケッチはそっちのけで、メラニーの肖像画描き出しちゃうかもね」

 なんだか苦いものが胸に広がって思わず顔をしかめる。リオが苦笑する。

「まあ、メラニーにせがまれたら嫌とは言えないだろうね、俊は」

「せがまれなくったって、自分から描きたいって言うよね、きっと。メラニーのこと…好きなんだから」

 自分に言い聞かせるように言ってため息をつくと、リオがからかうようにふふーんと笑った。

「まあ、春花も俊もまだ十四歳だからなあ」

「なにそれ」

「迷える年頃ってこと」

「どういう意味?」

「そのまんまの意味。ほら、見て。大きいだろ」

 カーブを曲がったら視界を遮っていた木立が途切れて、きらきら光るガラスの建物が現れた。

「わあ…」

 小さい頃、水晶の宮殿が出てくる物語を読んだことがある。その時想像した宮殿のようだ。日本でも温室は見たことも入ったこともあるけれど、この建物はどう見ても温室には見えない。なんというか、美しくて荘重でさえあって、設備らしさがまるでないのだ。

 リオは慣れた様子で美しい装飾の施された大きなガラスのドアを開け、春花を先に通してくれた。そこはまだ温室内ではなく、洒落たロビーのようなところで、何人かの人たちがあちこちに置かれているソファに座って静かに談笑したり、新聞らしきものを読んだりしている。向こうの隅の方の洒落た小さなテーブルに書物を積み上げて何やら書き物をしていた若い男の人が笑顔で手を上げた。

「リオ!」

「シェルダン」

 リオも笑顔で応える。

「友達なんだ。ここで研究してる。紹介するよ」

 ソファや小テーブルの間を縫って足早に行くリオについていきながら、目が合った人たちに会釈をする。にこにこして親しげに手を振ってくれたおじいさんもいた。

「春花、こちらはシェルダン。シェルダン、こちらは春花」

 よろしくと握手する。シェルダンは黒縁の大きな眼鏡の奥の目を細めて春花を眺め、

「待って、当ててみるから。君は…アジアの…うーん…日本から?」

「はい」

 シェルダンはどんなもんだいという顔をしてみせた。リオが笑う。

「どうしてわかった?」

「桜の似合いそうな顔だから。バックに桜が見えた」

 シェルダンが冗談とも本気ともつかぬ口調で言い、リオは「またまた」と言って笑ったけれど、春花は素直にとても嬉しく思った。

「ジョアンナは?」

「今日は休み」

「へえ、珍しいんじゃない?」

「うん。P市に用事があるって言ってたよ」

 リオが言っていた『扉』のあるフランスのP市のことだろうか。

「そうか残念。春花に温室を見せてあげたかったんだけど」

「僕が案内するよ」

 リオが眉を上げる。

「大丈夫なの?」

「大丈夫。そりゃまだ身分は学生だけど、ここではジョアンナの助手って認識されてるから。行こう」

 テーブルの上のものはそのままに、シェルダンはさっさと歩き出した。

「ジョアンナはここで魔法植物学を教えてる研究者なんだ。大抵ここで会えるから、温室に入れてもらえるだろうと思ってたんだけど」

 歩きながらリオが説明してくれる。

「さっきも言った通り、関係者以外は入れないことになってるんだ。シェルダンに会えてよかったよ」

 温室に続くガラスの扉が開くと、ふわっと温かい空気が流れてきた。たくさんの植物たちの気配。濃い生気。 

 そこは春花が訪れたことのある温室とはまるで違っていた。美しい宮殿の中に植物たちがゆったりと君臨しているような空間。外から見た時と同じで、設備のような感じがまったくしない。何もかもが純白の大理石とガラス——それとも水晶かもしれなかったが——で美しくしつらえられており、ぴかぴかで汚れひとつない。それでいて、不自然な感じはまったくしない。シミひとつない純白と透明の美しい曲線や段差やスロープや壁棚とそのあちらこちらに植物たちは、とても心地よさそうに寛いで見え、なんだかお客として植物たちの王国を訪れているような気がした。

 でもすぐにガラスだの大理石だのは目に入らなくなった。今までに見たことも想像したこともないような色と形と香りの花たちに春花はすっかり夢中になり、丁寧に説明してくれるシェルダンともさっき会ったばかりとは思えないくらい打ち解けて話をすることができるようになった。

「春花は本当に花が好きなんだね。案内しがいがあるよ」

 背の高い木の下で、まるでピンク色のクリスタルでできた葡萄の房のようにキラキラ光って垂れている花——その名も『女神の葡萄』——を頬を上気させてうっとりと見上げている春花を眺めて、シェルダンがにこにこして言った。

「でも植物研究には向かなそうだね。花のついてないものは素通りだもの」

 リオがからかうように言う。

「いいの。研究者になりたいわけじゃないもん。すごい綺麗…」

「見て」

 シェルダンが長い腕を伸ばして、届くところに下がっている花房の一番下の花を右手の人差し指でとんとんとんと優しく叩いた。すると、受けるように差し出したシェルダンの左の掌に、下を向いたツリガネソウを丸くしたような形の花から、金色の何かがこぼれ落ちた。

「はい」

 シェルダンが春花の手のひらに乗せてくれたものは、真珠大の金色の粒々だった。

「わあ、綺麗…」

「食べられるんだよ。蜜みたいなもの」

 自ら一粒つまんで口に放り込んでみせる。

「どれ」

 リオも一粒つまみ、春花もいそいそと金色の粒を口に運んだ。目が丸くなる。

「ほんと、甘ーい!おいしい!」

 ちょっとメープルシロップに似た味がする。奥歯でそっと噛んでみると、あっけなく崩れて、すうっと溶けた。

「キャンディが中に入ってるお花なんて、いいなあ。すごーい!」

 庭にこの木があったら、花の下にガラスの瓶をつけて、花をとんとん叩いてキャンディを収穫するのかな。キラキラと金色に光る小さな粒のたくさん入ったかわいい瓶を机の上に置いておいて、勉強の合間に食べるなんて素敵。

「これ、持ってたら溶けちゃいますか?」

「いや、大丈夫だよ」

「じゃ、ちょっと俊ちゃんにとっておいてあげようっと」

 ねえハル。これ、半分はハルのだからね。

 心の中で呟きながら、ポケットからティッシュを出して金の粒々を大切に包む。

「あれ、でも向こうには持って帰れないんじゃないの?」

 首を傾げるシェルダンにリオが説明する。

「一緒にこっちに来てる子なんだ。今は図書館で本読んでる」

「へえ。その子は魔法持ってるの?」

「いや、それはわからないけど」

 リオがちょっと慌てたように言って、春花は二人を見上げた。

「魔法?」

「『扉』を通る魔法だよ」

 シェルダンが言って、春花の左手首にある銀色のブレスレットを指差す。

「それをしてるってことは春花は魔法を持ってないんだろうけど、その俊ちゃんて子はどうなのかなと思って」

 そして訝しげにリオを見た。

「わからないってどういうこと?」

 春花も同じ思いでリオを見上げた。リオは珍しく少し困った顔をしてため息をついた。

「…調べないことになってるんだ。『客人』が魔法を持ってるかどうかは」

「へえ。じゃ、みんなブレスレットを使うわけだ」

「そう」

 頭の上にクエスチョンマークを浮かべている春花を見て、気が進まないけど、という顔で説明する。

「世の中には、魔法を持っている人間と持っていない人間がいるんだ。昔は魔法を持っている人だけしか『扉』を使えなかったけど、今はブレスレットを使えば『扉』を使えるようになった」

「ふうん…。私たちが魔法を持ってるかどうか、どうして調べないことになってるの?」

「そんなこと必要ないからだよ。ブレスレットがあるんだからみんなそれを使えばいいんだし、魔法を持ってるってわかっても、春花達の世界では大していいこともないし、生活や健康状態の向上につながるわけでもない。でも逆に、魔法を持ってないってわかったら、がっかりしたり残念に思ったり、持っている人を羨ましく思ったり、妬んだり、そういうネガティブな感情が出ちゃうだろう?だから調べないほうがいいってことに決まったんだ。お客さん達の心を不必要に騒がせたくないからね」

 ふうん、ともう一度言いながら、春花はなんだかちょっともやもやした気持ちになった。

 シェルダンが肩をすくめる。

「なんだかずいぶん過保護なんだな。そこまで客人の気持ちを考えるなんて」

 リオが苦笑した。

「僕が決めたわけじゃないよ。昔からある規則だからね」

「でもさ、魔法を持ってるってわかったら、春花達の世界から直に『扉』を使ってここと行き来ができるようになるわけだし、調べるベネフィットはあるんじゃないの」

 シェルダンが言って、春花はうんうんと頷いた。その通りだ。

「調べるのって大変なの?」

「いや、ただ『扉』を通れるかどうかでわかるよ」

「じゃあ、今日向こうに帰るとき…」

 リオが首を振った。

「それはできない。ブレスレットで来てる人は、ブレスレットで帰らなきゃならないんだ。今度またこっちに来るときに試してみたいなら試せるけど…誰も見ていなければね」

 誰も見ていなければ。

 …そうか。規則違反になっちゃうんだものね。メッセンジャーのリオに規則を破らせることになってしまうんだ。

 春花は微笑んで肩をすくめてみせた。

「ううん、別に試してみなくってもいい。ブレスレットを使えばここにもいつだって来られるんだし」

 魔法なんて持ってたって持ってなくったって構わない。『お隣』でユマたちと一緒にいられて、こうやってカッサ魔法大学にも来られて、十分幸せだもの。

 


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