第17話

Chap.17


「俊ちゃん…」

 言いかけた春花を遮るようにして俊が絵本を手にとる。

「わかってる。どっかに隠そう」

 といってもアルバムの下かエルザがさっき読んでいた雑誌の下くらいしか隠すところがない。

「僕が預かるよ」

 リオが言って絵本を受け取り、絵本の上に医学書を広げて置いた。

 しかし何の心配をすることもなかった。弾むような足取りでやってきたメラニーはキッチンの入り口から顔だけ出すと、

「俊、ちょっと庭で練習するから付き合って。今すぐ復習しときたいの」

 赤く塗られた唇で言った。俊が笑って答える。

「俺踊れないよ?」

「立っててくれるだけでいいから。早く」

「おっけ」

 俊は立ち上がると二人にじゃあと手を振ってメラニーとキッチンを出ていった。

 何あれ。

 春花はそう言いたいのを押さえて心の中でため息をついた。

 やな感じ。ああ、嫌だな、こんな気持ちになるの。

「隠す必要なかったみたいだね」

 絵本の上に置いた医学書をどかしながらリオが言って、二人の目が合った。

「そうね。俊ちゃん以外眼中にないって感じ」

 自分の声の皮肉っぽい響きに気付き、ああ嫌だ、とまた思う。リオがちょっと笑う。

「そうだね」

 少しして、開け放ってある窓の外からメラニーの声が聞こえてきた。

「こっち来て。ここがいいわ」

 窓の近くの、ほっそりしたポプラの木の下に俊を引っ張ってきて立たせる。

「ここに立って。手を出して…そう。そのまま動かないでね」

 俊の手を握ったまま片足で立って何やら練習を始めた。

 あんな練習、俊ちゃんの手じゃなくて壁とか手すりとかにつかまればできるんじゃないの?俊ちゃんだってそんなことわかりそうなものなのに。嬉しそうに付き合ってあげちゃって。やっぱりメラニーのこと好きってことなのよね、きっと。

 それに、なんでこんな近くでやるんだろう。もしかして見せつけてる?

 心の中でぶつぶつ言って、またはっとなる。ああ、嫌だ。こんな気持ちになるのは嫌。他のこと考えよう。

 窓の外の二人から目を逸らして、開いたままのアルバムに目をやる。ヴァイオリンを弾いている、春樹によく似たお父さんの顔。

「ねえ、さっきエルザが歌ってた曲…モーツァルトって言ってたよね」

「そう。モーツァルトのヴァイオリンソナタ」

「ヴァイオリンソナタね。わかった」

 覚えておこうと呟くと、リオが微笑んだ。

「モーツァルトのヴァイオリンソナタはいくつもあるからね。さっきのはその中のケッヘル376のアンダンテ」

「ケッヘル376のアンダンテ…」

 呪文みたいだ。

「綺麗で可愛らしい曲だよ」

「ありがとう。聴いてみる」

 手紙を書くのに使ったペンで、手のひらに「ヴァイオリンソナタ ケッヘル376」と小さく書いた。これでよし。

 そこへ、外からパチン!パチン!と花鋏の音が聞こえてきた。窓のすぐ下辺りだろうか。エルザがガーデニングをしているらしい。

 …もしかしてメラニーを見張るため?

 そう思ってリオを見ると、リオがくすっと笑って、

「お目付役シャペロンだね」

 と言ったので春花も小さく笑った。ユマが話してくれたおかげかな。

「大丈夫だよ。俊だって馬鹿じゃない。あの子がどんな子かわかってくれば距離を置くと思うよ」

 リオが優しい目をして言って、春花の中のどこかで壁がちょっと崩れた。

「リオもあの子のこと美人って思う?」

 外に聞こえないように低い声で訊く。

「少なくとも僕の好みじゃないね」

 好み。

「俊ちゃんがね、あの子がハルの好みだって、ハルが惹かれそうなタイプだって言ったの。でも絶対違うと思う。俊ちゃん自身の好みってことなんだと思うの」

「それは僕にはわからないけど」

 リオは頬杖をついて春花を穏やかな目で眺めた。

「春花の好みは?」

「私の好み?」

 そんなこと考えたこともなかった。 

「…私は、ハルが一番好き」

 素直な気持ちがするりと言葉になった。途端に不思議なほど胸の内が満ち足りて温かくなった。

 もう一度ゆっくりと繰り返す。

「ハルが一番好き。小さい時も、今も。ずっと。一番好き」

 こんなふうに声に出して誰かに言ったことは今まで一度もなかった。音になった言葉達が、しっかりと心の中に落ちていく。真珠の粒が重なり合ったベルベットのひだの間に落ちていくように。

 ハルが一番好き。

 リオが優しく微笑んだ。

「…そう」

 そして庭に立っている俊の横顔に目をやった。春花もつられてそっちを見る。

「俊はね、きっと…」

 リオの静かな声がメラニーの甲高い声でかき消された。あまりにはっきりと聞こえるので、春花にはわざとこちらに聞かせようとしているとしか思えなかった。

「ねえ、明日の夜一緒にバレエを観にいこう?先生にチケットをもらったの。それでその後一緒に食事して、うちに泊まっていって。パパとママに俊のこと紹介したいの」

「うーん、ちょっと難しいかな…。バレエだけならいいかもしれないけど、夜中から『もう一つのお隣』に行くことになってるから…」

「私も行きたい!」

 俊は戸惑ったような顔をした。

「…行かれるの?」

「だって俊が行かれるんだったら私だって行かれるでしょ?」

「俺とルカは『お客』だから行かれるけど…」

「リオに連れてってもらうの?」

「うん」

「じゃ、リオに頼めば私だって連れてってくれるはずよ」

 メラニーが声を張り上げる。まるでリオがキッチンの中から返事するのを期待しているかのようだ。 

「メラニー、そんなの無理に決まってるでしょう」

 エルザが窓の下からたまりかねたように割って入った。

「あらどうして?リオはメッセンジャーなんでしょ。リオがいいって言ってくれれば行かれるはずよ。訊いてみるわ」 

 春花はリオを見た。リオが首を振って低い声で言う。

「彼女は行かれない。こっちの人間はきちんとした理由がない限り行かれないんだ。仕事とか授業とかね。そういう場合だって、事前にペーパーワークがいろいろ必要だし」

 春花はほっとした。メラニーと一緒に行くなんて冗談じゃない。

 すぐに廊下に足音が聞こえて、メラニーが戸口に姿を現した。

「ねえリオ、私も俊と一緒に『もう一つのお隣』に行きたいの。いいでしょ?」

 リオは微笑んで首を振った。

「残念ながらそれはできないんだ。規則があるからね」

 穏やかだけれど有無を言わせぬ声音に、さすがのメラニーも反論できないと一発で悟ったらしい。

「…わかったわ」

 悔しそうに言って、遅れてやってきた俊を見上げる。

「ねえ、でもそれは明日の夜じゃなくてもいつでも行かれるんでしょ?明日は一緒にバレエに行ってうちに来て」

 俊はちらりと春花と目を合わせてから、申し訳なさそうにちょっと笑ってメラニーを見た。

「ごめん。ルカが先約だから」

 途端にメラニーが春花をきっと睨みつけ、春花の隣でリオが微かに首を振り、春花は俊の言葉になんだかよくわからない苛立ちのようなものを感じた。ルカが先約だから。どうしてだかわからないけれど、そう言われてなんだか嫌な気がしたのだ。

 どうして嫌な気がするんだろう、と考えようとしたら、メラニーに名前を呼ばれた。

「ちょっと来て」

 そう権高く言い捨てて背を向け、居間の方に歩いていく。長い黒髪が揺れた。

「…うん」

 遅すぎる返事をして急いで立ち上がる。

「一緒に行こうか」

 リオが低い声で言った。

「ううん、大丈夫」

 別に怖くはなかった。むしろ、受けて立ってやろうじゃないかというような、初めて経験する戦闘的な気持ちが沸き起こって、自分でもどきどきした。

 俊と目を合わせることなくキッチンの戸口を通り過ぎ、廊下に出て、居間に入る。フランス窓の近くにメラニーが立って腕組みをしてこっちを見ていた。黒のスパッツに黒のロングカーディガン。黒づくめで黒鳥のオディールみたいだと春花は思った。色白の顔に浮き上がったように見える深紅に塗られた大きな口の両端がふっと上がった。

「ねえ春花、俊は春花の恋人じゃないんでしょ?ただの幼馴染なのよね?」

「うん」

 そこに異論はない。

「だったら、俊にあんまりくっつかないで。十四にもなって幼馴染にベタベタくっついてるなんておかしいと思わない?あなたがいつも金魚のフンみたいに俊にくっついてたら、俊だって恋もできやしないわ」

 金魚のフン?

「くっついてるつもりはないけど」

 さっき俊と口論した時のような、冷ややかな声が出た。メラニーの口元から微笑みが消えて眉根が寄る。

「でもくっついてるじゃないの。あなたが俊にくっついて、自分と一緒にいることを強制してるから、俊は自由にできないんだわ。『もう一つのお隣』にはあなたとリオだけで行って。俊は私とデートだから」

 春花は肩をすくめてみせた。

「強制なんかしてないよ。俊ちゃんは自由だし、俊ちゃんがあなたとデートしたいんだったら私に遠慮なんてしないと思うけど?」  

 皮肉っぽい声。自分じゃないみたいだ。

「もちろん俊は私とデートしたいって思ってるわ。それくらいちゃんとわかるもの。俊はあなたがくっついてくるから義務感で一緒にいなきゃって思ってるのよ。お兄さんを亡くしたばかりだしかわいそうだから面倒見なきゃって。あなたが自分は一人で大丈夫だってちゃんと俊に言えば、俊も自由にしていいってわかるはずよ。だから俊にちゃんとそう言ってあげて」

「ルカ」

 開いたままの居間のドアをコンコンとノックして俊が入ってきた。

「帰る時間」

「俊ちゃん」

 憤然と俊に向かい合う。頭がぐるぐるした。

「私は一人で大丈夫だから、自由にしてくれていいよ。私は俊ちゃんにくっついてるつもりもないし、私と一緒にいることを強制してるつもりもないし、だから、えーとなんだっけ?そうそう、義務感で私と一緒にいなきゃなんて思わなくていいから。面倒見なきゃなんて思わなくていいから!こんな我儘で意地悪な勘違い女が好きなら、デートでもなんでもご自由に!」

 途中から冷ややかどころかだんだんカッカとしてきて言葉が止まらなくなり、早口で投げつけるように言ってから、メラニーを振り返って睨みつけた。

「これでいい?ご満足?」

 俊の後ろに立っていたリオが咳払いのような音を立てて、慌てて横を向いた。口元が笑っている。俊はあっけに取られたような顔をしていたけれど、ちょっと息をついてメラニーを見た。

「…明日は『もう一つのお隣』に行くよ。それから、俺は自分のしたいようにしてる。誰にも何も強制されてないから」

 静かにそう言ってからリオを振り返ると、

「ここからじゃなくて大使館から帰れる?」

「いいよ」

 今度は春花を見る。

「ルカもそれでいい?」

 春花が黙って頷くと、

「行こう」

 促すように首を傾げ、不機嫌顔で立ち尽くしているメラニーにちょっと手を上げると、春花を先に通して居間をあとにした。

 玄関の外で合流したエルザが三人を門まで送ってくれた。

「すみません。なんか変なことになっちゃって」

 俊が言うと、エルザは苦い顔をして首を振った。

「とんでもないわ。謝るのはこっちよ。本当にごめんなさいね、二人に嫌な思いをさせて。あの子がもうここに来ないようにあの子の両親に…」

「いえ、それは。メルも色々…辛いんだろうし。力になれればと思ってるので」

「でも…」

 エルザが気がかりそうに春花を見た。俊も春花を見る。

「メルにはちゃんと言っとくよ。もうああいうことルカに言うなって」

 春花はまた黙って頷いた。頭の中がぐちゃぐちゃでまだ胸が変なふうにどきどきしている。マグマが心の奥の方でどろどろぐつぐつしている。口を開いたらどんな声が出てしまうかわからなかった。


 エルザと別れてしばらく黙って歩いたあと、リオが静かに言った。

「俊、あの言い方はないよ。『ルカが先約だから』なんて。あれじゃまるで、春花が俊にせがんで一緒に『もう一つのお隣』に行ってもらうみたいじゃないか。実際は俊が言い出したんだろう?行きたいって。あんなふうに言ったから矛先が春花に向いたんだ」

「わかってる」

 俊は頷いて春花を見た。

「ごめん、ルカ」

 春花は俊の顔を見ずに頷いた。ルカが先約だからと言われた時のもやもやした黒い煙のような嫌な気持ちを、リオがふっと吹き払ってくれたような気がした。ありがとうと言いたくてリオを見上げると、俊が続けて言った。

「でもルカもメルにあんなこと言うのはよくないよ」

 心の底のマグマがボコッといった。

「…あんなことって?」

「『我儘で意地悪な勘違い女』。あれはちょっと言い過ぎ」

 笑いを含んだ声で少し冗談めかして俊が言い、春花の喉に塊ができ始める。

「……」

 春花が黙っているので、少し置いて俊が今度は真面目な口調で続けた。

「…メルがルカに言ってたことは廊下で聞いてたよ。確かにちょっとひどいこと言ってたけど、でもメルは…なんていうか普通じゃない環境で育っちゃってて、なまじ才能がある分、孤立しちゃって友達もできなくて、しかも今色々上手くいってなくて辛いんだよ。その辺を少し思いやってあげないとさ」

 諭されるように言われて、春花の喉の塊はどんどん大きくなった。

 睨まれたのも初めてだったけれど、面と向かってあんな嫌なことを言われたのも初めてだったし、人に向かってあんなことを言い返したのも初めてだった。なんて嫌な気持ち。まだ心がざわざわどくどくしている。それなのに俊がメラニーのことを弁護していることが春花には信じがたかった。どうして自分がそんなふうにお説教されなくてはいけないのかわからなかった。

「ルカにはハルがいるけど、メルはそういう相手がいたことがないんだ。ひとりで寂しいんだと思うよ。そういうのをわかってあげなきゃ」 

 喉が詰まって、止める間も無く涙がこぼれた。髪で顔が隠れるように俯く。

 ルカにはハルがいるけど? 

 どこにいるっていうの?

 どこにいるっていうの⁈

「…いないじゃない」

「え?」 

「ハルはいないじゃない!」

「ルカ…」

「ハルがいたら、ハルがいたらあんな嫌な子とっくに追い払ってくれてるもん!ハルだったら絶対私にこんな嫌な思いさせないもん!ハルだったら、ハルだったらね、私に意地悪する子なんかと仲良くしたり絶対しないっ…」

 ジーンズのポケットから急いで引っ張り出したクリーム色に三色すみれの散ったハンカチで涙を拭きながら、春花はしゃくり上げた。

 ハルはいない。ハルはいない。ハルはいない。

 私だってひとり。守ってくれるハルはもういない。

 なのにどうして俊ちゃんはあの子の味方するの?

 リオがそっと肩を抱いてくれる。

 気持ちのいい風がざっと吹いて、木々がざあっと波のような音を立てた。緑の木漏れ日がきらきらと揺れる。

「…俺はハルじゃないし、ハルの代わりになろうと思ってるわけじゃないから」 

 感情を抑えたような声で俊が言った。

「俊」

 リオがそれ以上言うなと言うように小さく首を振った。


 


 

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