第16話
Chap.16
「はい、これ」
ホットチョコレートの香りでいっぱいの明るいキッチンに着くなり、エルザが春花に白い封筒を渡した。ぐるりに細い紺と赤のラインが風に吹かれたリボンのようにふわりと描かれている。きちんと封蝋がしてあって、封筒の表には元気よく跳ねる個性的な、しかし不思議と均整の取れた字体で「To Haruka From Uma」と書いてあった。
「女子だなあ。さっき会ったばっかりなのに」
覗き込んだ俊がくすくす笑って、
「じゃ、ルカがそれ読んでる間に。エルザ、今朝春花が読んでた絵本、僕にも見せてもらえませんか」
「いいわよ。ちょっと待ってて、居間にあるから」
エルザがキッチンを出ていくと、リオが二人に訊いた。
「帰りは何時頃にする?」
春花は俊と少しぎこちなく目を合わせた。
「んー、十二時くらい?」
「十二時半でいいんじゃない?」
俊がそう言って、春花は心の中でやっぱりね、と思った。メラニーがランチタイムに来るって言ってたもんね。俊ちゃんはできるだけ長く居たいんだ。メラニーに会えるように。
「了解」
リオはちらりと壁の時計に目をやってから、絵本を手に戻ってきたエルザを振り返った。
「エルザ、春花たちの帰る時間までいさせてもらって構いませんか。授業に出るより試験勉強がしたいので」
「もちろん構わないわ。どこがいいかしら…静かなところがいいでしょう?机もいるわね…」
「いえ、教科書を読むだけですから机はなくても大丈夫です。みなさんと同じ部屋にいさせてもらえれば」
「だって…気が散らない?」
春花が訊くと、リオはにこりとしていつものように綺麗なウインクをしてみせた。
「集中するのは得意。突然ひとりになれるタイプだからね」
そしてリオは大使館から持ってきていたダークグレイのリュックサックを開けると、一冊の本を取り出した。春花は目を丸くした。医学書。
「…高校で医学なんてやるの?」
「いや、試験は試験でも、これは大学の入学試験用」
春花はさらに目を丸くした。
「だって…もうすぐ高校の定期試験なんでしょ?」
「そっちは試験勉強の必要なし」
「…そうなの?」
「まあね」
…羨ましい。
「大学入試に医学が必要なの?」
と俊。
「選択すればね。どうせ入学試験のために勉強するなら、今まで高校の授業では習ってない新しいことを勉強するほうが楽しいだろ?」
「なるほどねえ」
エルザがほとほと感心したというように首を振った。
史上最年少のメッセンジャーだもんね…。春花は心の中でつぶやいてリオの綺麗な横顔を眺めた。
すごい人なんだなあ、ほんとに。
ぼうっと見惚れていたらばちっと目が合って慌ててしまった。
「えっと、それじゃ、話しかけないほうがいいのね?」
「全然構わないよ。集中しててもちゃんと聞こえてるしね」
にこりとして、
「だから僕の悪口言ったらちゃんと聞こえるよ」
「悪口なんて言わないもん」
「ありがとう。優しいね」
リオが楽しそうに笑って長い人差し指で春花の頬をちょんと突いた。思わず顔が熱くなってどぎまぎして視線を泳がせたら、なぜだかこちらも顔を赤くした俊が顔を背けたところだった。
ユマの手紙は封筒と同じ紺と赤の細いラインが入った白い便箋に書かれていた。
「春花へ
明日まで会えないから、今学校に行く前に急いでこの手紙を書いてます。
さっき、春花と俊が帰っちゃった後、メラニーがママに二人のことを色々訊いてました。ママは二人が昔春樹くんと一緒にここに来たことがあることとか、春樹くんが事故にあって亡くなってしまったこととかを話して、潤さんが昔ここに来てたことも話してたけど、でも潤さんの絵本の話はしなかったから安心して。絵本はすぐそばにあったから、ママが見せちゃうんじゃないかとヒヤヒヤしたけど。
メラニーが帰った後、ママにメラニーが俊のこと独り占めしようとしてるって話しておきました。前にアリのことを独り占めしようとした時みたいに、って。ママもちょっと気付いてたって言って、春花や俊が嫌な思いをしないように気をつけなきゃね、って言ってました。ママもメラニーのこと本当はあんまり好きじゃないんだと思います。私にはそう言わないし、『人を嫌いになったり悪口を言ったりするのはよくない』とかお説教するけどね。
今日は一緒にボートに乗れて、いっぱいおしゃべりできて、春花の素晴らしい朗読を聴かせてもらえてとってもとっても嬉しかったです。ママに便箋と封筒と封蝋を預けておくので、もし春花も何か書きたいことがあったら書いてください。封蝋をすれば、他の誰にも読まれないから大丈夫。
もう学校に行かなくちゃいけないので、今日はこれでおしまい。ママが早くしなさいって玄関で怒鳴ってます。またね!
ユマより」
うふふと微笑んでもう一度手紙を読み返す。
私がメラニーにお父さんの本を見せたくないって思ってたの、どうしてわかったんだろう。ユマったらさすが。
返事を書きたいな…と顔を上げ、ちらりと周りを見ると、向かいに座った俊は絵本のページをゆっくりとめくっていて、隣に座ったリオは医学書を読んでいた。突然ひとりになれるタイプ、と言っていたけれど、まさにその表現通りで、リオだけ異空間にいるような、リオの周りに見えない壁があるような感じがした。
エルザは窓際の低いベンチに座って雑誌のようなものを読んでいたけれど、すぐに春花の視線に気づいてにこりとした。
「便箋?」
顔に書いてあったらしい。
「はい」
戸棚の引き出しから便箋と封筒とペンを持ってきてくれる。
「封蝋も預かってるわ。やったことある?」
「いいえ。でもやってるのを見たことはあります」
「そう、じゃ、大丈夫かしらね」
封蝋のセットも持ってきてくれた。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
エルザと微笑みを交わしてから何気なく俊の方を見ると、俊はちょうどあの木と花の物語を読んでいるところだった。
——ルカのことをちゃんと守ってあげる。
春樹の声が聞こえたような気がして、春花はそっとその幻の声の余韻を抱きしめた。
ハル。一緒にいるよね。
大好き。
ユマには俊がメラニーについて言っていたことや、さっき俊としてしまった口論のこと、リオが味方をしてくれて俊に「ああいう子には気をつけたほうがいい」と言ったことも簡潔に書いた。
書き終えて、なんだか楽しいなと思い、こんなふうに感じたのは初めだなと気がついた。 小学生の時も中学になってからも、友達とこういう手紙のやりとりをしたことがある。したくてしていたわけではない。向こうが書いてくるので、礼儀として返事を書く、するとまたその返事がくる、無視するわけにはいかないからまたこちらも返事を書く…とエンドレスで続くのだ。連休とか長期休暇になるとそれが終わるのでほっとしたものだ。こんなふうに返事を書くことを楽しんだのは初めてだった。
いいな、こういうの。
便箋をきっちりと四つ折りにしながらそう思ってちらりと俊の方を見ると、俊はまだ木と花の会話のページを開いたまま、ぼうっとした顔をして頬杖をついていた。
ほんとに羨ましい。
玄関の外でそう言った時の俊の眼差しを思い出す。
俊ちゃんは、私がハルの妹じゃなくて自分の妹だったらよかったのにって思ってるのかな。自分も妹が欲しかったのに、って。
俊が春花の視線に気づき、微かに笑ってみせた。
「もう返事書いたの?」
「うん」
封筒に宛名を書いて、さて封蝋だ。
「懐かしいな」
俊が微笑む。
「え?」
「アマルカ姫の招待状」
「ロザモンド姫です」
苦笑いしながら、ふんわり心が温かくなる。
俊ちゃん、あれ覚えてるんだ。
まだお姫様ごっこをしていた頃、春花は映画の中でお姫様が封蝋を使っているのを観て自分も使ってみたくなった。一緒に観ていたお父さんとお母さんにそう言ったら、お母さんが「どっかにあったかも」と言ってクローゼットをがさごそ探し、古びた小さな木の箱に入った封蝋のセットを出してきてくれた。火を使うし危ないので自分ではやらせてもらえなかったけれど、スタンプを押すところだけは春樹と一緒にやらせてもらった。何度かやらせてもらった後でそうだと思いつき、ロザモンド姫からハル王子とイジシュン王子に舞踏会の招待状を送ったのだ。
「金色の薔薇の封蝋で、相変わらずピンクの封筒でさ。中身はピンクの薔薇模様のカードで」
そうそう、そうだった。デパートでおねだりして買ってもらった、仄かに薔薇の香りがするとっておきのカードのセット。使うのが勿体無くてしまい込んでたまに取り出しては眺めていたのを、わくわくしながら開封した。
「よく覚えてるね」
「だってちゃんと取ってあるもん」
目を丸くする。
「ほんとに?」
「全部取ってあるよ、俺。宝探しの地図とか、秘密基地の設計図とか、学校ごっこした時のテストの紙とか、表彰ごっこの表彰状とか…」
そこでくすくす笑い出して、
「ロザモンド姫からの招待状さ、三つくらいあるんだけど、そのうちの一つがおっかしいの。語尾が、『招待いたしまする』とかなってんだよな」
春花も吹き出してしまった。それじゃお姫様じゃなくてお侍さんみたいだ。
「やあだ。全然覚えてない」
エルザがおかしそうに笑い、隣でリオもくすくす笑っている。集中していても聞こえているというのは本当らしい。
「ごっこ遊び、懐かしいわ…。私たちも色々やったのよ。海賊ごっことかね。そうだ、ちょっと待ってて」
エルザがいそいそと出ていった。リオが柔らかく微笑んで二人を見る。
「羨ましいな、そういうの。僕はそういう経験ないから」
「一人っ子?」
そういえばリオのプライベートの話はあまり聞いたことがなかったなと思いながら春花は尋ねた。
「当たり」
「幼馴染とかいなかったの?従兄弟とか、近所の子とか」
同じく一人っ子の俊が訊くと、リオはにこりとした。
「まあ…子供は周りにたくさんいたけどね。五歳の時から孤児院だったから。でもそんなふうに仲良くできる子はいなかったな」
孤児院?
二人とも返す言葉に詰まってしまった。リオが微笑んで続ける。
「朝から晩まで周りにたくさん同い年くらいの子供たちがいるっていうのも、賑やかで楽しいけど、でも結構疲れるもんだよ。高校に入ってからは一人暮らしになって随分マシになった。友人付き合いは学校だけで十分だなって思うね。でも、二人の話を聞いてるとやっぱり羨ましい。そんなふうに小さい時からずっと一緒の友達がいて、共有する思い出がいっぱいあって」
そこへエルザが戻ってきた。深い臙脂色の表紙の大きなアルバムを抱えている。
「ほら、見て!」
楽しそうに言って開いてみせたページには、船着場から少し離れたところに浮かぶ小船に乗った二人の男の子と一人の女の子の写真があった。三人ともフック船長のような帽子を被ったりバンダナを巻いたり眼帯をしたりして、海賊っぽい服装をし、頬やむき出しの腕に刺青らしきものまでしている。
派手な赤いバンダナを頭に巻いて、ほっぺたに髑髏の刺青をしている少年の笑顔を見た瞬間、春花は心臓が止まったかと思った。
すごい。似てる。
湖の照り返しに眩しそうに目を細めて笑っている少年時代のお父さんは、春樹にとてもよく似ていた。
瓜二つとか、そっくりで見分けがつかないとかいうわけではない。でもよく似ている。どの部分がどう似ているのかは春花には分からなかった。春樹のようで春樹じゃない男の子。少年時代のお父さん。春樹の笑顔のかけらがそこにあるようで懐かしいような悲しいような変な感じがする。面影、という言葉の意味が初めてわかったような気がした。
「勇ましいですね。海賊にさらわれたお姫様じゃなくて、海賊なんですね」
楽しそうな声でリオが言って、春花は我に返った。
「そういえばそうね。とにかくフランツや潤と同じことがしたかったんでしょうね」
「この刺青は?描いたんですか」
俊が訊く。
「いいえ。あれは、なんていうのかしら…。水に濡らして貼り付けてしばらくしてから剥がすと、インクが肌につくのよ」
ああ、と俊と春花は頷いた。向こうにもある。
三人の写真はたくさんあった。海賊ごっこの他にも、木登りをしているところや、お菓子を作っているところ、誕生日パーティ、一緒に絵を描いているところ、泳いでいるところ…。あれやこれやのエピソードを聞きながら、ゆっくりページをめくっていく。三人の年齢が上がるにつれて写真の数は少なくなっていったけれど、そこには変わらぬ親密さがあり、三人が一緒に過ごした時間の重なりが感じられた。
お父さんがヴァイオリンを弾いている写真もたくさんあった。中に一枚、とても綺麗な写真があって春花は思わず見惚れた。斜め横からのクローズアップで、柔らかい光の中、中学生か高校生くらいのお父さんが目を閉じてヴァイオリンを弾いている。微笑みを浮かべているわけではないのに、微笑みの気配が漂っているような、曲の最後の余韻が聞こえるような写真だった。
「…これすごくいい」
俊が吐息のような声を漏らしたのでちらりと見上げると、やっぱり同じ写真を見ていた。
「綺麗でしょう」
エルザが目を細める。
「誰が撮ったんですか」
「私」
いたずらっぽく笑って、
「潤はね、こういう時に写真を撮られるのが嫌いだったのよ。『遊びで弾いてる時』と『本当に弾いてる時』っていうのがあってね、『本当に弾いてる時』に写真を撮ったりするのはやめてくれって、一度やっちゃった時に怒られたの。まだ小学生だった時にね。だからそれからはやらないようにしてたんだけど、この時はカメラが手元にあったし、あんまり綺麗で、どうしてもどうしても撮りたくて、えいっとシャッターを押しちゃった」
「怒られましたか」
「五分くらいしかめっ面して口をきいてくれなかったわ。でもね、撮ったことを後悔はしてない」
そう言って写真を見つめるエルザの表情を見て、春花はふと思った。
エルザはお父さんのことが好きだったりしたのかな。エルザが女の子でお父さんが男の子だった頃。
「何の曲を弾いていたか覚えてますか」
リオが訊く。
「モーツァルトのヴァイオリンソナタ」
エルザがハミングする。すぐにリオがああと頷く。
「ピアノ伴奏は祖母が弾いたの。今は長距離バスで二時間くらいかかるところに住んでるんだけど、あの頃はまだこの近くに住んでいて、潤と演奏するのを楽しみによく遊びに来たわ。孫の私たちよりも潤に会うのを楽しみにしてたわね」
リリーン、と玄関の呼び鈴が鳴った。はっとして春花が壁の時計を見ると、もう十二時を過ぎている。
「メラニーかしら」
春花が思ったのと同じことをエルザが言って立ち上がり、キッチンを出ていった。
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