第15話

Chap.15


 「ねえハル」

 十時少し前、春樹の机の脇に立って春花はそっと囁いた。

「ハルはメラニーみたいな子、好きになんかならないよね。俊ちゃんは『ハルが惹かれそうなタイプ』なんて言ったけど、実は惹かれてるのは俊ちゃんじゃないのかな。…あんな性格悪そうなのに。私のこと睨んだんだよ」

 椅子に座って、机の上に頬杖をついて微笑んでこっちを見上げている春樹が見えるような気がする。よくこうやって話をした。

 ハルだったら、私のこと睨んだりする子なんて、追い払ってくれるのにな…。

 そんなことを考えていたら、部屋の空気がふわりと乱れて、リオと俊が現れた。俊が手にしていた紙を見せる。

「大使館の広間でいい?」

 青いインクで書かれていた。

 頷いて、差し出されたリオの手を握って目を閉じた。目を閉じると、『移動』の後にくらっとならなくてすむ。

 ふっと辺りの空気が変わって目を開ける。ひんやりした草花の匂い。高い高い天井。見上げると、やっぱり思わず「うわあ」と口が開きそうになってしまう。

「ここから湖の家まで歩いてみたいなって思ってさ」

 春花に訊かれる前に俊が説明した。

「それに、フランツにも会えるかなと思って」

「good idea。でも俊ちゃん、道わかるの?」

 リオが微笑む。

「大丈夫。僕が一緒に行くから」

「授業は?」

「心配御無用。メッセンジャーの仕事が優先だからね」

 昨日のように、リオの設定した『床』の上を歩いていく。

 この大広間は明るい時の方が断然素敵だ、と清々しい空気を吸い込みながら春花は微笑んだ。足元の色とりどりの花たち。淡いピンクやカナリーイエロー、勿忘草色、雪のような白、薄紫、柔らかなオレンジ、艶やかな赤…。立ち並ぶ背の高い白い円柱は大木のようで、半透明の大理石のような壁を通して入ってくる心地いい光の中を歩いていると、まるで不思議な森の中を散歩しているような気持ちになる。

「でも今フランツのとこに行って大丈夫なの?仕事中でしょう?」

「今日の午前中は公式の予定は入ってないはずなんだ。でも大使は非公式の来客が結構多いからね。今すぐ会えるかはわからないけど、とりあえず行ってみよう」

 広い廊下を歩いていくと、ちょうどフランツの部屋のドアが開いて、フランツと背の高い男の人が談笑しながら出てきたところだった。来客中だったらしい。三人の姿を認めると、フランツが嬉しそうに微笑んだ。

「やあ、いらっしゃい」

 男の人がこちらを振り向いた。二十代くらい。黒い髪。褐色の肌。濡れたように光る大きな黒い目が印象的だ。ジーンズに鮮やかなロイヤルブルーのTシャツ。銀のイヤリング。溌剌とした空気を纏った人だった。

「フェルナンド、こちらは春花さんと俊くん。リオは知ってるね。春花さん、俊くん、こちらはフェルナンド」

 初めまして、よろしく、と握手を交わす。

「二人一緒に来てるの?」

「はい」

 フェルナンドは陽気な顔を輝かせた。

「いいねえ!いいなあ、そういうの!すごく憧れるよ」

 俊と春花は顔を見合わせた。

「…そうですか?」

「だって、向こうでもこっちでのことを二人で色々話し合えるだろ?こんな素晴らしい経験をシェアできる相手がいるって、すごいことじゃない?羨ましいな」

 にこりとしてからフェルナンドは、ああそういえば、という顔をして、

「君たちは日本人だよね?」

「はい」

「ねえ、日本では小さい頃からみんなたくさん本を読むんだろ?」

 俊と春花はまた顔を見合わせた。

 みんなというわけではないと思うし、たくさんかどうかもわからないけど…。

「…うーん、まあ、そう、ですね…」

「僕の従姉妹の友達に日本人の女の子がいてね。こないだ初めて会ってちょっと話したんだけど、彼女が、日本ではいかに子供たちが本を読んで育つか話してくれたんだ。小学校低学年のうちから、ちゃんと本を丸々一冊読んで読書感想文を書くなんて宿題が出たりするんだって?それに公立の小学校でもそれぞれの学校に図書室があるし、そうそう、学級文庫があったり、朝の読書運動なんてものもあるって言ってた」

 その通りだ。二人が頷くと、フェルナンドは大きなため息をついた。

「そういうのなんだよね、やっぱり。そういうのが大事なんだよ。僕の国ではね、全然そういうことがないんだ。だから大人も子供もほとんど本を読まない。そりゃ一応文学部はあるよ、大学にね。でもなんていうかな、文学ってのは、物語っていうのはさ、いかにも『学問やってます!』って顔した大人が研究したり分解したり論じたてたりするもんじゃなくて、もっと子供のうちから楽しんでさ、こう、自然と人生の一部になっていくべきものだと思うんだよね。でも僕の国でそんなふうに育つことができる子供は、本当にごくごく限られた少数なんだよ。ごくごく限られた少数派である本を読む親を持つラッキーな子供たちだけが、本が日常の中にあるという環境で、物語の世界を楽しみながら、本を読むっていう楽しみを知って育つことができるんだ。やっぱり学校が変わっていかないとだめなんだよ…」

 顔を上気させて早口で喋っていたフェルナンドは、言葉を切って恥ずかしそうに笑った。

「ごめん!初対面の人たち相手に、なに熱く語ってるんだろうね。申し訳ない。じゃあフランツ、今日はこれで。話を聞いてくれてありがとう」

 フランツと握手をし、

「じゃあまたリオ、それから春花、俊。会えてよかったよ」

 三人に向かって笑顔で片手を上げ、足早に去っていった。

「彼は、小学校の先生になったばかりでね」

 三人を部屋に招じ入れながら、フランツが言った。

「彼自身は子供時代を他の国で過ごしていたこともあって、今、自国の子供達の置かれている環境を初めて目の当たりにして、なんとか改善できないかとあれこれ考えているところなんですよ」

「学校に、図書室がないんですか?」 

 信じられない思いで春花は訊いた。

「ええ。人口の一握りの裕福な子供たちが通う私立の学校にはあるようですが」

「でも、そういう裕福な子供たちというのは、もともと家に本があったりする場合が多いんでしょうね。親が知識階級だったりすることも多いでしょうし」

 リオが考え深げに言う。

「そうだね。だから本当は、公立の学校にこそ図書室が必要なのだけどね」

「その…裕福じゃない人たちっていうのは、本も買えないくらい貧しいっていうことなんですか?」

 俊が真剣な顔をして訊く。

「そういう人たちももちろんいるでしょうね。でも大多数は、そこまで貧しいわけではないようですよ。『ゲームだの、サッカーの試合のチケットだの、パーティだの、そういうことに使うお金はあるくせに』とフェルナンドが言ってましたから」

「公共の図書館なんかは?」

「大きな町の中心に一つあるかないか、というところらしいですね。それこそ文学部の学生や知識階級の大人たちが行くような場所であって、子供たちが気軽に訪れるような場所ではないようです」

「…そうなんですか…」

 フランツが窓の外に目をやった。美しい庭園。

「さっきも言ったように、彼自身は他の国…そちらの世界のいわゆる先進国で育っています。恵まれた家庭環境で育っていたけれど、まあ色々…思うことがあったようでね、一時は随分荒れていました。髪の色もブロンドになったりオレンジになったり」

 ちょっと笑ってフランツは続けた。

「それが今は、自国の子供たちのことを思って憤っている。居心地のいい先進国で人生を送ることもできるのに、敢えて色々と問題のある自分の国に戻って、子供たちに本を読む楽しみを知るチャンスを与えたいと奮闘している。…眩しいですね」

 日に輝く梢を見上げて目を細めたその顔はほのぼのと嬉しそうだった。


 しばらくおしゃべりをした後、別のお客さん——四十代くらいの優しい目をした女性で、ランレイといった。よく名の知られた詩人だと後でリオが教えてくれた——が来たので、三人はフランツの部屋を後にした。

「ほんとによくお客さんが来るのね」

「大使は以前メッセンジャーだったからね。その頃からの向こうの友人がよく訪ねてくるんだ」

 春花が親善大使になったリオのところを訪ねてくる大人になった俊と自分を想像していると、俊が言った。

「フェルナンドもランレイも、招待されてこの世界に来たの?」

「さあ…それはわからないけど、今度会ったら訊いておこうか?」

「いや、わざわざ訊いてもらわなくても。俺たちみたいに、招待状をもらわずにこっちに来る人も結構いるんでしょ?」

「昔よりは随分減ったけどね」

「それってやっぱり子供だけ?」

「いや、大人もいるよ」

 春花は目を丸くした。

「そうなの?」

「意外?」

 リオが微笑む。

「…うん、だって、なんていうか…、そういうのって子供の特権みたいな感じがしてた」

「ピーター・パンの話みたいな?」

「そうそう」

「確かに、言われてみれば、来るのは子供の方が多い気はするね。でもそう変わらないんじゃないかと思うよ」

 俊が不思議そうな顔をした。

「そういうの、統計とか取らないの?」

「ここではそういうことはしない。世界間の行き来は研究するようなことじゃないし、お客さんたちは研究対象じゃないからね」

「…そうなの?」

 訝しげな俊にリオがにこりとする。  

「魔法発明学者たちの世界では、そういうことをしてるそうだよ。年間どれくらいの『客人』が来てるとか、どこの国から何人とか、色々統計を取っているらしい。昔からね。だから彼等にしたら、ここでは世界間の移動について統計も研究も何もされてないってことが信じられないらしい」

 大きな扉を開けて外に出る。明るい日差しに春花は目を細めた。近くに大きなハリエンジュの木があって、真っ白な花が満開だ。甘い香りが風に乗って届く。目を閉じて思い切り吸い込むとふわりと身体が浮かびそうな香り。

「それさ、どうして研究しないの?神聖なことだから?」

 ふわふわしている春花の横を歩きながら、俊が追求する。ハリエンジュに心の中で挨拶の手を振りながら、春花は微笑んだ。小さい時からこうだった。俊はいつも色々なことを「なんで?どうして?」と追求していた。

「神聖ね…。僕はそんなふうに思ったことはないけど。でも研究したりするようなことじゃないとは思うね。だって、研究してどうする?何も変わらないし、変えたいとも思ってないのに」

「でもさ、他の世界と行き来するなんてすごいことじゃない?どうしてそんなことができるのかとか、その仕組みとか、世界と世界の間に何があるのかとか知りたくないの?」

「大昔にはそういうことしてた人たちが少しはいたらしいよ。周囲にはそれこそ神聖冒涜だとか、気狂いだとか言われながら研究していた人たちがね。でも、結局何にもわからなかった。研究したり、統計を取ったりしたって、わからないものはわからないし、わからないと困るものでもない。そんなことに時間や労力を割くのは無駄だって思わない?そんなことするより、たとえば医学とか化学とか、役に立つ研究をする方がいいって僕は思うよ」

 うーんと言って俊は考え込んだ。リオが微笑む。

「納得いかない?」

「いや、そういうんじゃないけど。…ゆっくり考えてみる」

 どこまでも真面目な俊であった。


 庭園を抜け、横の方にあった小さな門を通り、道に出る。たまにバスも通ったりするし交通量もそこそこあるので、バス通りとか大通りとかいう類の道なのだろうけれど、お店もぽつぽつとしかない。街路樹が多くて、広々としたきれいな道だ。

「この辺は街の中心地じゃないから、まあ散歩に向いてなくもないけど、やっぱり湖沿いの散歩道の方が気持ちいいね。次の信号で向こう側に渡って、湖沿いを歩こう」

「了解。ああ、そうだ、『もう一つのお隣』だけど、土曜の午後でもいい?こっちだと金曜の夜中になっちゃうけど…」

 俊が言うのを聞いて、春花ははっと気がついた。時差のことをすっかり忘れていた。

「ちょっと待って、俊ちゃん。やっぱり午前中にしよう?夜中なんて…」

 リオがにこりとする。

「僕なら大丈夫だよ。いつも言ってるけど、僕はメッセンジャーだから心配御無用」

 リオが言うと、本当に「心配御無用」に聞こえる。

「ユマが楽しみにしてるだろうし、夜をゆっくりここで過ごして、夜中から『もう一つのお隣』に行くっていうのはいいプランだと思うよ」

「本当にいいの?」

「もちろん」

「…じゃあ、お言葉に甘えて。お願いします」

 ペコリと頭を下げる。

「仰せ、畏まりました。それじゃあ土曜日の正午にバルトヴィッツ家に迎えに行くってことでいいかな」

「『もう一つのお隣』にはどこから行くの?」

 俊が訊く。

「大使館にある専用の『扉』から行くんだ」

「扉…」

 俊と春花はわくわくする顔を見合わせた。他の世界に行く魔法の扉。

 『もう一つのお隣』のことをあれこれ話しながら、木漏れ日のちらちら降ってくる新緑の中の小道を歩いていくと、緩いカーブを曲がったところでバルトヴィッツ家が見えてきた。

「今日はこれからどうするの。どこか行ってみたいところがあったら遠慮しないで言って。案内するよ」

「だって、授業があるでしょ。それに土曜日に『もう一つのお隣』に連れてってもらうんだし」

「そうそう。それにあとでメルも来るかもしれないし…あ、そうだ、おじさんのもう一冊の絵本、俺も見せてもらおう」

 俊が楽しそうにそう言った途端、春花の脳裏に俊とメラニーがお父さんの絵本を一緒に見ているところがパッと浮かんだ。

 そんなの絶対に嫌。

「俊ちゃん、」

 冷たくて硬い声が出た。

「メラニーにお父さんの本見せたりしないで」

 俊はちょっと驚いたように眉を上げ、すぐにニヤリと笑った。

「やきもちですか、アマルカ姫」

 からかうように言われても、なぜかカッとはならなかった。代わりにさっきよりさらに冷ややかな声が出た。

「あんな子に私のお父さんの本読んでほしくないから」

 俊が眉をひそめる。

「あんな子ってなんだよ。メルのことよく知らないだろ」

「少なくとも、私を睨みつけたことくらいは知ってる」

 前を向いたままそう言うと、隣で俊が呆れたような声を出した。

「そんなわけないだろ。なんでメルがルカのこと睨んだりしなきゃいけないんだよ」

「あの子に訊いてみればいいでしょ。なんで私のこと睨んだのか」 

 言いながら、春花は自分で自分に驚いていた。変に落ち着いて冷ややかで銀色の針のように真っ直ぐな自分の声。

 俊もちょっと戸惑っているようだった。一拍の間。

「…気のせいだろ」

「気のせいなんかじゃない。ユマも『睨んでた』って言ってたもの」

 途端に俊の声に笑みが含まれる。

「そりゃユマはもともとメルのことが嫌いなんだからさ…」

「僕も見たよ」

 リオが静かに言った。

「春花の朗読の話が出て、俊がピーター・パンをリクエストしただろう。あの時だよ。こっちを振り返って、春花のことをすごい目で睨んでた」

「……」

「俊、ああいう子にはちょっと気をつけた方がいいよ」 

「…ああいう子、って…」

 腹立たしげに言いかけてから俊は言葉を飲み込み、一息ついた。唇だけで微笑んでみせる。

「…了解。じゃ、メルが来る前に、俺だけおじさんの本見せてもらうよ。俺が見るのは構わないんだろ?」

 皮肉っぽい声音に気づいたけれど、春花はただ

「うん、もちろん」

 と返した。

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