第18話

Chap.18


 「そうだったんだ…」

 翌日、ボートの上で、膝に頬杖をついたユマがそう言って大きなため息をついた。両手で頬を押し上げられた顔が、どんぐりでほっぺたを膨らませた栗鼠のようだ。

「じゃあ俊とは今喧嘩中?」

「ううん。今朝俊ちゃんが謝ったし、私も謝った」

 

 俊と言い合いになって、疲れ果てて夜中の一時頃帰ってきた翌朝、玄関を出たら昨日と同じように、

「おはよ」

 と声がかかった。

「…おはよう」

「昨日は本当にごめん」

 門を閉めて一緒に歩き出すが早いか、待ちかねたように俊は言った。

「ううん、私こそごめん。あのね、」

 急いで言葉を続ける。今朝目が覚めてからずっと言おうか言うまいか迷っていたけれど、今、言おうという気持ちがあるうちに言ってしまいたかった。 

「あのね、俊ちゃんがハルじゃないのはちゃんとわかってるし、ハルの代わりになってほしいとも思ってない。それからメラニーのことは、私は好きになれるとは思えないし、仲良くなりたいとも思えないし、正直言って俊ちゃんがどうしてあの子にそんなに優しくするのか理解できないけど、でも俊ちゃんがあの子のことを好きなら、それは俊ちゃんの自由だし、デートだってなんだってすればいいと思う。でも、私があの子を嫌いなのも私の自由でいいはずだから、だから、私に、あの子に優しくしろとか、わかってあげなきゃだめとか、そういうこと言うのはやめてほしい」

 早口で一息にそう言って、ふうっと息をついた。

 言っちゃった。

 俊は驚いたようにちょっと黙って、それから小さく微笑んだ。

「…了解」

 そのままこちらをじっと見下ろしている。

「何?」

「いや…ルカもやればできるんだなって思って」

「何を?」

「そういう…なんていうか、自分の思ってることをちゃんと言うの」

「?いつもしてるよ」

「してないだろ。ハル任せでさ。ハルが、ルカはこうこうこうだよねって言うことに、うん、そう、その通り、って相槌打ってるだけで」

 春花は口を尖らせた。

「そんなことないよ」

「そんなことある。昔っからいっつもそうだよ。自分じゃ気づかなかったのかもしれないけど」

「でも、だって、…ちゃんと私の思ってること言ってたつもりだけどな」

 俊が柔らかく笑った。

「ハルはルカの気持ちの代弁が上手いから…。ちゃんとルカが何思ってるか、どんなふうに感じてるか、いつもわかってるから。だからルカも自分で自分の思ってること言ってるように感じてたんだよ」

「そう…なのかな」

 自分ではよくわからない。ふと思いついて訊いてみる。

「もしかして、そのことでもハルと口論した?」

「…かもな」

 俊のその言い方で、そういう話はしないでおこうと昨日言われたのを思い出して、春花は口をつぐんだ。

 ——ハルの陰口言ってるみたいで嫌だからやめよう。

 そう言った時の俊の顔を思い出して、不意に胸がいっぱいになった。

「俊ちゃんは…」

 涙声になりかけて、慌てて言葉を切る。

「なに?」

 喉につかえた塊を飲み込む。泣いたりしないでちゃんと言いたかった。俊を見上げる。

「俊ちゃんは、ほんとにハルのことすっごく大好きなんだね」

 しっかりと春花の視線にとらえられた俊の目がたちまち潤んだ。

「私もね、ハルがすっごく大好き。俊ちゃんがいてくれてよかった」

 おんなじくらいハルのことを好きな俊ちゃんがいてくれて、ハルのことをこんなふうに話せる俊ちゃんがいてくれて、ほんとによかった。

「…俺も。ルカがいてくれてよかったって思ってる」

 潤んだ目同士で見つめ合う。昨日の夕方のように俊の眼差しに吸い寄せられるような感じがしたけれど、魔法のような数秒間が過ぎると急に恥ずかしくなって、春花は目を伏せてえへっと笑ってみせた。

「思ってることちゃんと言うのって、なんだか照れくさいね」

 

 俊はまたリオと一緒に出かけている。今日こそは朝市に行かれるといいけど、と思いながら、本当はそれよりも「メラニーが来ないでくれればいいけど」と自分が思っているのが春花にはよくわかっていた。

 栗鼠のような顔のままユマが言う。

「ママがね、やっぱりメラニーがあんまり家に来ないようにする方がいいんじゃないかしらね…って言ってたよ。なにがあったか詳しいことは教えてくれなかったけど」

「うん、でも俊ちゃんは、メラニーの力になりたいから、そんなことしないでほしいって言ってた」

「ふうん…」

 ユマはため息をついた。

「俊は優しいんだね」

 春花もため息をついた。

「そう。すっごく優しい」

「『その優しさが命取り』ってなるタイプかも」

「ええー?」

 冗談だと思って春花は笑ったけれど、ユマは真面目な顔で春花を見返した。

「いるよ、そういうタイプ。もちろん本当に死ぬって意味じゃないけど」

「…学校で?」

 小学校でまさかねと思いながら訊くと、

「主に物語の中でだけど、でも学校にもいるよ。男子でも女子でも先生でも」

 さばさばとユマが答えたので、春花は感心してうーんと唸った。

 多分ユマは、私と正反対なんだな、と春花は思った。周囲の人々をよく見ている。いろいろなことに気づいて、きっちり観察しているんだ、きっと。

「どうしたの?」

「うん…なんていうか…」

 朝の光に柔らかく照らされた湖の水面を見つめる。今朝は風がほとんどなくて、湖は優しい青みを帯びた鏡のようだ。

「私、今まであんまり…どんなことについても、色々考えたり気づいたりしなかったんだよね。でもなんだか最近、…目が覚めてきてるみたいな、前より少し周りの世界が…んー、身近に感じられるみたいな、自分の気持ちとかも前よりよく見えるようになってるみたいな、…上手く言えないけど、そんな感じがしてるの。こっちの世界に来るようになったからだと思うんだけど」

 心の中を探りながら、その中に浮遊している捉えどころのないものに耳を澄ませるようにして言葉にしていく。

「ユマは、なんていうか…ばっちり目が覚めていて、いろいろなことに気づいていて、自分の考えをちゃんと持っていて、自分の好きなこととかしたいこととかがはっきりわかっていて、素敵だなあって思う。私もユマみたいになりたい」

 言い終わって、ふっと息をついた。自分の思っていることを自分で言葉にすることって、一仕事だ。

 今朝登校中に俊に言われたことを思い出す。やっぱり私は今まで、自分でそれをあまりやってなかったのかもしれない。ハルにやってもらってたのかもしれない。

「そんなふうに言われると、なんか照れちゃうな」

 ユマがくすぐったそうに笑う。そして優しい目で春花を見た。

「昨日言ったでしょ、春花はお姫様みたい、って。あんまり自分がどうしたいとか自分は何が好きとか考えないで、ふんわり生きてる。それはきっと、そんなこと改めて考えなくてもいつも幸せだからなんだよね。それはそれで素敵だと思う。でも、今春花はそういう状態から殻を破って脱皮しようとしてる、変わろうとしてるところなんだね。それもきっと楽しいと思うよ。自分のことをもっと知るのはいいことだと思う」

 年下のユマにそんなふうに優しく言ってもらって、なんだかちょっと恥ずかしかったけれど、とても嬉しかった。

「ありがとう」

「どういたしまして」

 うふっと笑い合う。

「さて、じゃあ漕いでみる?」

「うん。よろしくお願いします、コーチ」

 今日はちゃんと制服からジーンズに着替えてやってきたのだ。初めてのボート漕ぎ。わくわくする。

 ハル、見ててね。


 「お疲れー」 

 ヘトヘトになってどうにかこうにか船着場に漕ぎ着けると、笑いを含んだ俊の声が頭上から降ってきた。視界に入ってきた脚は二対。俊とリオだけでメラニーがいないことにほっとするも、いつから見られていたんだろうと思って顔が熱くなる。漕ぐのに精一杯で、岸辺に注意を払う余裕がまるでなかったのだ。

 ボートを漕ぐのがこんなに難しいなんて思ってもみなかった。ユマがすいすいといとも簡単に漕ぐので、もちろんレガッタ選手のユマほど整然と速くは漕げないにしても、一応自分もなんとなくは漕げるんじゃないかと思っていたのだ。ところがまず左右のオールを同じように動かせなくて、春花は驚いた。オールも思っていたよりずっと重い。水の中にちゃんとした角度でオールを入れるのも難しい。間近でユマのスムーズなローイングを見ていただけに、このギャップに春花は呆然とした。私の身体ってちゃんと機能してないんじゃないの?と思ったくらいだ。

「楽しかった?」

 船着場に上がるのに手を貸してくれながらリオが訊くと、俊がくすくす笑って

「ユマ、冷や汗ものだったんじゃない?」

「そんなことないよ。初めてなんだからうまくできなくて当たり前だもん」

 ユマが爽やかに言って、春花は心が温かくなった。ここで、「そんなことないよ、上手だったよ」なんて言わないユマのことを、いいなあ、好きだなあと改めて思った。

「朝市、どうだった?」

「すげえ面白かった!とても全部は見て回れなくてさ。『もう一つのお隣』のカッサの商人たちもいくつか店を出してて…」

「カッサ?」

「町の名前。今夜俺たちが行く町。そのカッサの商人の店に、ちょっとした魔法を使ったものなんかもあって、いくら見てても飽きなかった。あと栞とか…」

「栞?本に挟む?」

「そう!挟んでおくと本に虫がつかない栞とか、湿気がつかない栞とか、埃がつかない栞とか。あと、なんとかっていう草で編んだ栞もあって、その栞を持ってちょっと動かすだけで、すうーって気持ちいい風が流れてくるんだ」

 春花はくすっと笑った。栞。本の好きな俊ちゃんらしい。

「モンクスだね。あれで作った団扇はいいよ。夏の暑い時なんかは助かる」

「私も持ってる。面白いんだよ、ぶんぶん扇ぐと、すごい風になるの」

「そうそう」

 リオとユマが笑い合う。

「いいなあ、俺も欲しい」

 俊が羨ましそうにため息をついた。

「買わなかっ…あ、そうか」

 訊きかけて春花は気がついた。そういえばこっちのお金なんて持っていないんだった。それに応えるように俊が首を振る。

「買っちゃいけないんだよ。向こうに持って帰っちゃいけないから」

「…ああ、なるほど」

 それはそうだ。

「貸してあげるよ。あ、そうだ、潤さんがこっちで使ってたものの入った箱があるんだって。もしかしたらその中にもあるかも。ママが春花と俊に出してきてあげなきゃって昨日言ってたんだ。行こ。ママに今出してきてもらおう」

 ユマが春花の手をとって庭へと向かう。春花は慌てて言った。

「こんな朝早くから悪いよ。また後でで構わないから」

「お昼に来るの?」

「ううん、今日はうちで勉強。代わりに今夜、『もう一つのお隣』に行く前に遊びに来たいなって思ってるんだけど、ユマ時間空いてる?」

「もっちろん!」

 ユマの顔が輝いた。

「何時ごろ来られる?晩ご飯一緒に食べるよね?わあ嬉しい!」

 そして少し後ろを歩いてくるリオと俊をちらりと振り返ってから、声をひそめる。

「メラニーに知られないようにしないと」

 春花もひそひそ声で答える。

「でも知ってるはずだよ」

「えっ。…ああ、そうか」

 少なくとも、夜中に『もう一つのお隣』に行くことは知られている。ユマが眉間に皺を寄せた。

「うーん…なんとか来させないようにしなくちゃ」

 春花は首を傾げた。

「来ると思う?私だったら…私だったら来ないと思うけどな。来たくても来られないと思う。恥ずかしくて」

 ユマがぐるりんと目を回してみせた。

「そんな殊勝な性格の持ち主じゃないよ。来ないとしたら、恥ずかしいからじゃなくて、つむじを曲げてだね。『俊が謝るまで会わないわ!』とか」

 ぷいと顔を背けて見せたユマの物真似がうまくて、春花は吹き出してしまった。

「似てる」

「いっぱい観察してたからね。で、メラニーが来なくなったら、多分俊は、気になっちゃってメラニーのとこに様子を見に行っちゃったりするタイプ。違う?」 

「あたり」

 春花は小さくため息をついた。そう、俊ちゃんならそうするだろうな。

 

 キッチンに入る前から今日はコーヒーのいい香りがするなあと思ったら、素敵な藤色のネクタイをしたフランツがテーブルでコーヒーを飲んでいた。

「珍しいね、こんな時間にいるの」

 駆け寄っておはようのキスをしながらユマが言う。

「そう、久しぶりにちょっとまとまった空き時間があったから、帰ってきたんだよ」

 にっこりしてフランツはみんなと挨拶を交わし、「ああ、」と言って隣の椅子に置いてあったミニアルバムを春花に手渡した。

「素敵な写真をありがとう、春花さん。潤にこんなふうにまた会えて…とても嬉しかったですよ」

「いつもは大使館のほうに寝泊まりしてるんですか」

 俊が訊く。

「いつもというほどでもありませんがね。ここ数日『もう一つのお隣』との行き来が多くて…ああ、お二人も今夜行かれるんでしたね?」

「はい…すみません、夜中なんかに…」

「いえいえ、とんでもない。『もう一つのお隣』はいいところですよ。きっと楽しめると思います。魔法大学の構内なんかも歩いてみたらどうかな。図書館とか」

 とリオを見る。リオがにこりとした。

「はい、そのつもりです」

「美しい大学ですよ。あの世界では一番大きくて古い魔法大学です。そしてあの図書館ときたら…圧倒されますよ」

 みんなのカップにコーヒーを注ぎながらフランツが言った。春花は俊の顔を見て微笑んだ。図書館と聞いて目がキラキラしている。

「いいなあ、私も行きたい」

 ユマが口を尖らせる。 

「高校生にならないと行かれないなんて、ナンセンスだよ。その辺の高校生より私の方がよっぽど知的好奇心旺盛だと思うけどな」

「規則だからね」

「ちぇっ」 

「あらあら今度は何が『ちぇっ』なの?」

 木の箱を両手で抱えたエルザが入ってきた。

「小学生は『もう一つのお隣』に行かれない話」

「それは仕方ないわ。規則だもの。おはよう、みんな。あら、コーヒーでよかった?ホットチョコレートの方がよければすぐ作れるけど」

「いえ、コーヒーも好きです」

 そう言った俊の隣でうんうんと頷きながら、春花は両手で持ったマグカップから立ち上るコーヒーの香りを深く吸い込んだ。うっとりするような香りがする。

「そう、それならよかった。それからこれ、潤がこっちで使ってたものなの。こっちのものはお隣に持って帰れないから、いつも置いてってたのよ。二人が使えるものもあるかと思って」 

 ユマがにこりとする。

「さっすがママ。さっきそのこと話したばっかり」

 春花はカウンターにマグカップを置いて、エルザがテーブルの上に置いた木箱に近寄った。バスケットボールが二つ並んで入るくらいの大きさ。艶のある深い焦茶色をしたシンプルな木箱で、ちょっと錆びた蝶番がついているけれど鍵穴とか掛け金はついていない。

 そっと蓋を上げる。そんなにたくさんのものは入っていなかった。インク壺がいくつかと、ガラスペンのようなものと絵筆が何本か。淡い灰緑の草で編まれた大きな団扇のようなもの。何冊かの楽譜。スケッチブック。くるくると丸めた艶のある空色の布地。そして美しい銀色の縁取りがしてある深いグリーンのベルベットのような布で装丁された分厚い本。

「わあ…素敵」

 取り出してみると、裁断面にも銀が塗られていた。

「…あれ?開かない」

「それは持ち主だけが開けられるのよ。そういう本、というか、日記のようなものね」

「ええー!いいなあ。秘密の日記」

 思わず羨望の声を上げてしまった。俊がからかう。

「書くような秘密あんの?」

「俊ちゃんほどじゃないかもしれないけどね」

 メラニーへの恋心とか書くんでしょ、と心の中で付け足したら、まるでそれが聞こえたかのように俊が顔を赤くした。

「ほら、これ。さっき言ってたモンクスの」

 ユマが団扇を指差す。

「ちょっと待って!」

 エルザが慌てたように言って、フランツと二人で吹き出した。

「まず外で一度使ってみる方がいいでしょうね」

 フランツが笑いながら言う。

「潤が初めて使ったときにね、ちょっと力加減を失敗したんですよ。そういえばここでだったね」

「そう!クリームとブルーベリーのジャムをたっぷりのせたばかりだった私のパンケーキが飛んだわ。おばあさまの後ろ頭に命中して…」

 またぷーっと吹き出しておかしそうに笑う二人を見ていたら、なんだかその傍らでちょっと恥ずかしそうに笑っているお父さんの姿が見えたような気がして、胸の奥がきゅっとした。

 お父さんを連れてきてあげたいな。絶対に思い出させてあげたい。

 

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