第11話
Chap.11
「おはよ」
行ってきまーす、と玄関を出たらいきなり声をかけられてびっくりした。
門のすぐ外に俊が立っていた。
「おはよう」
「自転車、置いといていい?」
「もちろん」
門の脇の、道から引っ込んだところに俊の自転車が停めてある。
俊の家は学校から少し遠い。学区分けの線ギリギリのところにある。自転車通学は禁止だったから、寝坊して家を出るのが遅くなった時など俊はよく入江家まで自転車で来て、そこから春樹と春花と一緒に歩いて登校していたけれど、今年度になってからは今日が初めてだ。
「寝坊したの?」
歩き出しながらからかうように言うと、俊は楽しそうに笑った。
「そういうわけでもないけどさ。ルカは?」
「寝坊はしなかった。でもね、すごくよく眠れたみたい」
昨夜隣の世界から戻ってきたのは一時半だった。パジャマに着替えて、ベッドに潜り込み、引き込まれるように眠って、気がついたら朝だった。
「そっか、よかったな」
俊が柔らかく目を細めて春花を見下ろす。
「うん、昨日より健康な顔してる」
「そう?」
そんなふうにじっと見つめられると、なんだか顔が熱くなって、なんて言っていいかわからない。にこりとして話題を変える。
「楽しかったね、昨日」
「すっげえ楽しかった!」
二人は随分長い時間を『失くしたものたちの世界』で過ごした。マリアンヌと俊の絵本たちの他にも、大好きだったよそゆきのワンピースや旅行先でなくしてしまったビーズの指輪、初めてのローラーブレード、渓流で落としてしまったお気に入りのベースボールキャップ、幼稚園の頃使っていたクレヨンやスケッチブック、懐かしいおもちゃたちなどが部屋の中に現れて、二人と会話を交わした。
「今日も行くだろ?」
「うん!放課後?それとも夜?それとも両方?」
「両方って言いたいとこだけどな、今日は部活もないんだし」
春花を横目で見て、
「ルカ、昨日ちゃんと勉強した?」
「宿題と予習はした」
「お、偉いじゃん」
「それくらい言われなくったってちゃんとするもん。俊ちゃんは?受験生」
「それくらい言われなくったってちゃんとするもん」
春花の口真似をしてニヤリとする。
「ま、俺は頭いいから心配ご無用」
「自分で言う?」
「人から言われるのに飽きたから自分で言ってんの」
ハルが言ってたっけ。俊はほんとに頭がいいよ。小学校の時からそう思ってたけど、中学になったらなんか頭脳の鋭さに磨きがかかった感じ。特に数学。負けてられないな。
春樹も俊も小学生の時から「頭のいい子」だった。春樹は真面目にきちんと勉強するタイプで俊はそうでもなかったから、小学生の頃は春樹の方が成績がよかったけれど、中学に入ってからは時には俊の方が順位が上になったりすることもあった。
「俊ちゃん、塾には行かないの?」
何気なく言った途端、春花は自分の言葉に激しく動揺した。
車の急ブレーキの音と衝撃音が頭の中で聞こえた気がした。耳を塞ごうとしたのか、両腕がびくっと震えた。
「行かない」
空を見上げて俊はぽつりと言った。
ふわりと風が通り過ぎた。
「…昨日ね、ハルも一緒に向こうにいたような気がしたの」
少しの沈黙の後、春花はそっと言った。上を向いたまま俊が微笑んだ。
「俺も。三人でいる気がしてた。もしかして、…なんていうか、天国みたいな世界があるとしたらさ、隣の世界の方が、こっちの世界よりも、そういうところに近くて、だからハルが一緒にいるように感じるのかなーなんて思ったりした」
本当にそうかもしれない、と春花は思った。ハルが、ここより近くにいるのかもしれない…。すると俊がふふっといたずらっぽく笑った。
「ハルがメラニーに会ったら、一目惚れかもな」
心底びっくりした。
「…そう?」
「うん、ハルが惹かれそうなタイプ」
「えええー」
思わず顔を思い切りしかめて抗議の声をあげてしまった。あんな子?
「お、やきもち」
「だって…あんな…あんな我儘そうな子?」
「エルザがそう言っただけだろ。才能あって、自分のやりたいことがわかってるってことだよ。美人だし」
「……」
美人。ああいうのを俊ちゃんは美人って思うんだ…。目が大きくてつり上がってて、大きな口にあんな赤い口紅塗ってて…。
「ま、確かに個性的でちょっと付き合うの大変そうだけどな。ハルは女に優しいから、尻に敷かれそう」
「……」
そういえば、あの子、俊ちゃんに「今度あなたのこと色々聞かせて」とか言ってたっけ。私には言わなかったけど。
そう思ったら、考える前につんと顎を上げて言っていた。
「学校にも行かないでバレエばっかりやってるんでしょ。勉強もちゃんとできない子なんて、ハルと釣り合わないよ」
俊ちゃんともね。
「それな…」
またやきもちとからかわれるかと思いきや、俊が真面目な顔でため息をついた。
「ひどい親だと思わない?エルザも言ってたけど、プロのダンサーになれない可能性だってあるわけだろ。そういう時のためにも、親がきちんと学校に行かせなきゃいけなかったのに。まさに甘やかし親の被害者っていうかさ…。なんかかわいそうだよな」
しみじみと言う俊を見て、春花は胸に砂が詰まったような気分になった。
どうしてあの子のことそんなに気にかけるの?会ったばかりなのに。美人で才能があるから?
「ま、それはともかく」
黙り込んだ春花に頓着せず、俊は楽しそうな表情になって両手を頭の後ろで組んだ。
「今日はさ、例のもう一つの世界に行かれないかなあ」
話がメラニーのことから離れてほっとした春花は、いそいそと答えた。
「昨日リオに訊いてみればよかったね」
「そうだな。いきなり行きたいって言って連れてってもらえるわけじゃないかもしれないもんな。何か申し込みとか手続きとかがいるのかも」
「そうね。よりアカデミックな世界って言ってたし、そういうのが必要な世界かもね。パスポートとか」
「うん。…そういえばさ、昨日のあの話、どう思った?」
「どの話?」
「世界と世界の行き来についての考え方の話」
「ああ…」
春花は視線を宙に浮かせた。『失ったものたちの世界』に行った後はそのことをすっかり忘れていた。エルザの言っていたことを思い出しながら、考え考え答える。
「うん…正直に言って、ちょっとよく理解できない。世界と世界の間の移動ってことをそんなふうに大切に思って、だからその決まりも破りたくなくて友達にも会いにいかない、っていうのがよくわからないの。相手が自分のこと覚えてないから、だから会っても悲しいだけだから会わない方がいい、とかいう理由ならわかるけど」
「そうなんだよな」
俊が眉間に皺を寄せて頷いた。
「なんていうか…、やっぱり違う世界の人達だから、感覚とか考え方とかが俺たちと微妙に違うのかな、って思ったりして…」
「文化の違い、みたいなのね」
「そうそう」
周囲に他の生徒たちの姿がちらほら見え出したので、二人は周囲に気を配りながら少し声を低めて話を続けた。
「おじさんに色々話を聞けるといいんだけどな。十一歳の時から就職する頃までっていうと十年ちょいも向こうの人たちと付き合いがあったんだから、向こうの考え方もよくわかってたんだろうし」
「でもほら、フランツがお父さんに同じようなことを説明してた、ってエルザが言ってたじゃない。ってことは、お父さんもあんまり納得してなかったんじゃないかな」
「そっか。そうかもな。…おじさん、思い出せるといいな、向こうのこと」
俊がしんみりとした口調で言った。
「フランツも奥さんと子供を亡くしてるし…、きっとおじさんの気持ちをよくわかってあげられるんじゃないかと思うんだ。会って話せればいいのに」
「ほんとにそうね。どうしたらいいだろう…。例えばお父さんの絵本の話ができたりすれば、思い出すきっかけになるような気もするけど…。あのヴァイオリンの方の絵本じゃなくて、お菓子のお家のお話だったら、ヴァイオリンのことには触れなくてすむし…。あ、ねえ、そういえば、」
と俊を見上げたら、顔が思いがけず近くにあってどきっとした。声をひそめて話していたからだろう。慌てて目を逸らす。
「あのね、お父さん、ホットチョコレートを作ってくれたでしょ。あれってつまりフランツのお母さんに教わったレシピを覚えてたってことよね」
「そうだな」
俊はくすっと笑って続けた。
「大事なレシピだったんだよ、きっと。好きな女子落とすのに何度も使ったから覚えてたんじゃない?」
春花はどう反応していいかわからなくて、眉を寄せ、口を尖らせ、むむーんと変な唸り方をしてしまった。俊が吹き出す。
「なんだよ」
「だって、なんだか…。『女子を落とす』なんて…。そんなのお父さんらしくない…」
「ま、おじさんだって若かったんだからさ。ティーンエイジャーだったんだよ。俺たちとおんなじ」
「それはわかってるけど」
「ご不満ですか、アマルカ姫」
「そういうんじゃないけど、なんていうか…うまく言えない。変な感じ」
俊がからかうように言った。
「ルカってもしかしてあれ?ブラコンだけじゃなくてファザコン」
「違うもん!」
思わず大きな声を出してしまって、少し前を歩いていた男子三人組がちらりとこちらを振り返った。中の一人が口の形だけで「お」と言って俊に手を上げる。俊も手を振り返した。その男子が春花にもちょっと頷いたので、春花も目礼した。昨日職員室の前で会った三年生だ。
「あの人、誰だっけ?」
自分達の会話に戻った三人組の背中を見ながら低い声で俊に訊く。
「藤本幸太。男バレの部長」
「ああ…それで見覚えがあったんだ」
男子バレー部の部員なら、入江家にも来たことがあるだろう。昨年の秋から春樹が部長だったから、主だった部員が入江家に集まって練習試合のビデオを観たりしていたことがあった。
そうか、あの人が部長になったんだ…。
「見覚えがあるって…」
俊が呆れたように春花を見る。
「結構一緒に話したことあるだろ、廊下とか俺たちの教室とかで」
「そう?よく覚えてない」
「…ルカさ、これ、前から言いたかったんだけど、もうちょっと周りちゃんと見た方がいいぞ」
耳が痛い。神妙に頷く。
「…わかってる。自分でもそう思ってる」
俊を見上げる。
「そんなにバレバレ?私が周り見てないの」
真面目に訊くと、俊はちょっと驚いたように眉を上げてから微笑んだ。
「俺とハルにはわかってたけど、他の奴らにはわかんない程度かな」
「…ハル、何か言ってた?」
「んー、まあ、な」
俊らしくもなく言葉を濁し、からかうようにニヤリとしてみせた。
「ルカが自分で気づいてたなんて意外。ちょっと安心した。そこまでぼんやりじゃなかったってわけだ」
「まあね」
と一応受けて、続けて「ハルはなんて言ってたの?」と訊こうとしたら、
「そういや、相変わらずスマホ使ってないの?」
話題を変えられてしまった。
「え?…ああ、うん、ほとんど使ってない」
一応持ってはいる。でもクラスや部活の連絡を見る時と、外出時の電話くらいしか使っていない。春樹がそうだったから、春花もそうしていた。他の人たちがネットの世界の中で何を話しているかなんて、全く興味がなかった。
「そっか」
「どうして?もっと使った方がいいって思う?SNSとか」
「いや」
俊は首を振って小さく笑った。
「あんなもん、使わない方がいいよ」
「でも俊ちゃんは結構使ってるんでしょ?」
Twitterで誰々がこう言ってたとか、インスタがどうのとか、春樹に話しているのを聞いたことがある。
「最近はもうあんまり。時間の無駄だしな。受験生の敵」
おどけて言ってから、顔を寄せて内緒声で、
「それに、これからは忙しくなるだろ」
と楽しそうに言った。
ぐっすり眠れたからなのか、隣の世界での楽しかった時間のおかげなのか、その日はとても気分がよく、春花はなんだか久しぶりにきちんと目が覚めているような気がした。周囲のものがはっきり見えるし、はっきり聞こえる。授業も頭にまっすぐ入ってくる。
一時間目が終わって前の席の友人と喋っていると、一人の男子が近づいてきて声をかけた。
「入江、沢崎先輩が」
顔で廊下の方を示す。見ると、戸口に俊が立っていた。
「ありがとう」
急いで立って、机の間を縫って教室を横切っていく。俊は戸口から離れ、廊下で待っていた。
「なに、俊ちゃん」
「うん、ちょっと話せる?」
俊は周りを見回し、
「人多いな。あっち行くか」
音楽室や教材室のある方へすたすたと歩き出した。休み時間だから、廊下のどこにだって生徒がいるけれど、教室から離れた教材室のあたりは人が少ない。人通りが少なくなるが早いか、待ちかねたように俊が口を開いた。
「さっき、放課後行くかどうかちゃんと決めなかっただろ」
学校が近くなったところで俊の友人たちと一緒になったので、隣の話の続きができなくなったのだ。
「行くんだったら、早目にリオに連絡しないと」
「あ、そうか。そうだよね」
そういえばそうだった。時差があるのだ。
「リオが寝ちゃわないうちに。今ならまだ大丈夫だよね」
「あのガラス玉、持ってきてんの?」
「うん。昨日みたいにハンカチに包んである」
今日は淡い水色に白い百合模様のハンカチ。スカートのポケットに入っているハンカチを思い浮かべる。春花はハンカチが好きなので、毎朝引き出しを開けてハンカチを選ぶのは朝の楽しい儀式の一つだ。ハンカチはいつもはブレザーのポケットに入れるのだけれど、昨日と今日はガラス玉の安全を考えてスカートのポケットだ。
俊が心配そうに眉をひそめる。
「なくさないように気をつけろよ。体育ないのか?今日」
「今日はない。明日はあるけど」
「じゃ明日は持ってこない方がいいぞ。危ないから」
「うん、家に置いとく。何時ってリオに言う?四時二十分とか?」
「そうだな。…ほんとに勉強大丈夫なのか?」
「私は受験生じゃないもん。俊ちゃんでしょ、心配なのは」
「俺はいいの。じゃ、決まりな」
「うん。それじゃ…」
リオに連絡しようとポケットに手を伸ばしかけて、春花は躊躇した。音楽室に行く一年生たちが結構通る。今話していた間にも、何人もが廊下の窓の前に立っている二人に会釈をしながら通っていった。もちろん一クラスだけなのだから人数がそう多いわけではないのだけれど、一斉に移動するわけではないから人通りがなかなか絶えない。
「…ここじゃちょっとまずいな」
すぐに俊が言った。
「屋上は?」
屋上の鍵はいつも閉まっていて出られないけれど、屋上のドアの前にがらんとした隠れ場的なスペースがある。
「よし行こう」
急ぎ足で屋上に続く階段に向かう。
「ルカ次の授業何?」
「数学。俊ちゃんは?」
「俺も」
春樹の言っていたことを思い出して訊いてみる。
「俊ちゃん数学得意なんでしょ」
「んーまあ一番好きかな。楽だし」
「楽?」
「覚えるもん少ないだろ」
「ははあ…なるほど」
そんなふうに考えたことはなかったけど、言われてみれば確かにその通りだ。
「ルカは?数学」
「好きでもないけど嫌いでもないかな。楽って思ったことはない。楽なのは国語」
そういえば、こんなふうに勉強のことを俊と話すのは初めてなような気がする。俊が笑う。
「そりゃそうだ。まあ漢字覚えるのが面倒ってのはあるけどな。文法とか」
「ねえ、国語ってね…」
言いかけた春花を俊が手で制した。屋上の階段下に来ていた。上の方から声がする。
「…誰かいる」
これでは使えない。
「どうしよう。他にどこがあるかな」
二人はうーんと考え込んだ。
「…体育館裏くらいしかないな」
靴を履き替えて行かなくてはならない。今から行ったら、次の授業に間に合わないかもしれない。
「しょうがない。ルカ、三限何?」
「えーとね、あ、美術だ」
美術室は体育館に近い。
「ちょうどいいな。じゃ、次の休み時間にそこな」
「了解。俊ちゃんは?大丈夫なの?」
「俺は確か社会だったかな。二階だし余裕」
階段に背を向けて歩き出した二人の耳に、階段の上の方から女子のキャハハという声が聞こえ、すぐに「しっ。声声」と男子の低い声がして、静かになった。
「なんだ、ったく」
俊が苦笑を浮かべる。
「ああいうの、『束の間の逢瀬』っていうんだって。休み時間とかに隠れて会うの。今流行ってるらしい…」
妙な決まりの悪さを誤魔化そうとそう言ったら余計悪くなって、春花は赤面して口をつぐんだ。家族でドラマや映画を見ていて、キスシーンなんかが出てきた時に似ている。俊が斜め上からニヤリとする。
「ルカはそういうのないんだろ」
つんと顎を上げてみせる。
「ない。興味もない」
俊が目を上に向けてふっと息をついた。
「ま、そうだろうな」
「…どういう意味?」
「ハルみたいなのとずっと一緒にいたら、他の男なんて目に入らなくなるだろうってこと」
宙を見上げている俊の口元に、あるかなきかの微笑が漂っている。
「…あんな最高にいい奴で、なんでもできて、すっげえ優しくて、イケメンで…」
俊はそこで言葉を切ると、大きく息をついた。目が潤んでいた。
「…あんな奴、この世にそうはいないと思う。誇張でもなんでもなくて」
なのに、なんで。
鼓膜は揺らさなかったけれど、その言葉ははっきりと春花の心に届いた。
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