第10話

Chap.10


 心地いいそよ風を頬に感じながら湖沿いの細い小道を少し歩いた後、左に曲がって普通の住宅街風の道に入った。ゆるい上り坂の両サイドに歩道があって、ところどころにほっそりとした街路樹が植わっている。古風な「屋敷」と呼びたいような大きな家々がゆったりと並んでいて、それぞれの家が生垣に囲まれていたり、低い石垣の向こうから美しい庭が見えたりするので、道に緑がいっぱいだ。

 素敵…。花たちをよく見たくて自然と遅くなってしまう歩調をエルザと俊に遅れないようにできるだけ早めながら、春花は幸せなため息をついた。なんて綺麗なところ。

 ねえハル。

 とっても素敵なところだね。前にGoogleマップでスコットランドのエジンバラに行ってストリートビューで遊んだでしょ。あの時見つけたお屋敷街みたいじゃない?

「あ」

 ある家の庭の低い石垣の向こうから道に顔を覗かせるように、白や淡いピンク色の上を向いた百合のような花たちが咲いていた。大使館のフランツの部屋の四隅に一輪ずつ生けてあった花だ。

「あれ、なんていうお花ですか」

 エルザに訊いてみる。

「どれ?ああ、あれはね、正式名はソラスっていうの。でも普通は『除湿花』って呼ぶわ。根が小さなボールみたいになってるんだけど、その根ごとからの花瓶に入れて部屋に置いておくと、花が部屋の湿気をとってくれる。花が空気中からとった湿気が根から滲み出て花瓶に溜まるというわけ。だから口の狭い花瓶に生けるのよ」

「へえー!」

 春花と俊は目を丸くした。梅雨時や蒸し暑い夏の日にぜひ欲しい。エルザはにこりと笑って続けた。

「さっき俊が言っていた、もう一つの世界、私たちは『もう一つのお隣』って呼んでるんだけど、そこにも同じ名前の花があるの。ソラス。小さな盃のような純白の花でね、彼らの世界では、昔、特別な時に盃を酌み交わす時、その花を盃として使っていたんですって。だから今も、彼らは特別な乾杯をする時に『ソラス!』と言うのよ」

「へええー!」

 春花と俊はまた言って目を丸くした。

「詳しいんですね」

「大学で民俗学のクラスを取ってたから、これくらいはね」

「『もう一つのお隣』ってどんなところなんですか?」

「そうね、私は学生の時に授業の一環として数回行かせてもらったことがあるだけなんだけど、ここよりも全体的にアカデミックな感じの世界ね。魔法学も盛んで、魔法使いもいるわ」

「じゃ、魔法発明学者たちの世界みたいな感じなんですね」

「うーん、ちょっと違うわね。

 魔法発明学者たちの世界には、『魔法使い』というものは存在しないの。魔法はただの技術であって、誰でも学ぶことができる。もちろん才能のあるなしはあるし、誰でも上手にできるようになるというわけじゃないけど。だから彼らは魔法を使う人たちのことを『魔法使い』ではなく『魔法の使い手』って呼ぶそうよ。彼らの世界も非常にアカデミックで、魔法大学もいくつもあるそうだけれど、魔法が科学と融合していて、実用的なことにたくさん使われているそうだわ。

 『もう一つのお隣』では、魔法は『魔法使い』の血が流れている者にしかできない。生まれた時の血液検査でわかるんですって。そしてその中でももちろん優れた魔法使いになる人たちとそうじゃない人たちがいる。彼らの世界にも魔法大学というのがあるけれど、彼らの世界の魔法学というのは学問としての色が強くて、そこを卒業すると『ルキ』つまり彼らの世界の古代語で『魔法使い』という称号を与えられるの。魔法大学には選ばれたごく少数しか入学できないそうだし、『ルキ』と呼ばれる正真正銘の魔法使いになるというのは人々の憧れの的らしいわ」

「へえー」

 今回目を丸くしてこう言ったのは俊だけだった。春花は目を見開いて立ち尽くした。足を止めた春花をエルザと俊が振り返る。

「それ…!その『ルキ』っていうの…!」

 興奮してうまく言葉が出てこない。息をついて、頭の中でぐるぐる回っている映像と言葉を落ち着かせる。「どした?」という顔をしている俊を見る。

「…小さい頃、俊ちゃんがふざけてハルのことをルキって呼んで、私のことをハルって呼んでた時があったでしょ。あの時、うちでもなんだか呼び名がごっちゃになってお父さんたちも面白がってた。その時お父さんが言ったの。夕食の時。ちゃんと覚えてる。『どこかの国では、ルキっていうのは非常に優れた魔法使いに与えられる称号なんだって誰かに聞いたことがあるよ』って」

「……まあ」

 エルザが口を両手で覆った。春花はエルザに頷いて続けた。

「それでハルと二人で、それはどこの国だとか、魔法使いのいる国があるのかとか、どこでそんな話を聞いたんだとか質問攻めにしたら、お父さん、頭を掻いて、『うーん、どこで聞いたんだったかなあ。それともどこかで読んだのかなあ…なんかの物語だったかなあ…』ってしばらく考えていたけど、最終的には、だめだ、思い出せない、って」 

 エルザは嬉しいような悲しいような表情を浮かべてため息をついた。

「…そう…」

「でもじゃあ、やっぱり少しは記憶に残ってることがあるってことなんだ。俺があの湖の家のことを覚えてたみたいに」

 俊は自分の言葉に自分で頷くと、春花の目をまっすぐに見てにこりとした。

「きっとおじさんも思い出せるようになるよ」


 着いたところは、住宅街の中にある煉瓦造りの家の一つだった。

「ここよ」

 と言いながら、エルザが蔦の絡んだアーチの下の小さな黒い門をカシャーンと音をさせて開けた時、春花は戸惑いを隠せなかった。

 ここ?

 どう見たって普通の家にしか見えない。そう大きくもないし、看板が出ているわけでもないし、庭だってごく普通の家の庭程度の手入れのされ方で、公的な場所、あるいは客商売をしている場所のような、隙のない手入れのされ方ではない。ここが別の世界なの?

 不揃いな細い石畳を、家の玄関——ごく普通の白く塗られたドア——に向かって歩きながら、エルザが二人を振り返った。

「二人一緒がいい?それとも別々がいいかしら」

「えっ」

 エルザがいたずらっぽくくるりと目を回して見せる。

「お互い見られたくないものがあったりするなら、別々の部屋の方がいいわよ」

 俊と春花は顔を見合わせてから、お互いちょっと目を逸らせて、うーんと考えた。

 失くしちゃった大事なもので、俊ちゃんに見られて困るものなんて、別にない気がするけどな…。それに、別々の部屋、なんてなんだかちょっと怖い。

 そう思ってちらりと俊を見上げると、目が合った。

「どうする?」

 先に訊かれてしまった。

「んー、一緒でもいいし…どっちでもいいよ」

 慌てて答えてから、お母さんに「どっちでもいい」という答え方は良くないとお説教されたことがあるのを思い出したけれど、後の祭りだ。俊が肩をすくめる。

「ま、別に見られて困るものもないしな」

 エルザが微笑む。

「仲がいいのね」

兄妹きょうだいみたいなもんですから」

 笑って答えた俊の言葉に、なんだか心の奥底がこんがらがったみたいな変な気持ちになりながら頷いた。

 兄妹きょうだいみたいなもん。

 エルザは白いドアの横についている小さな真鍮の呼び鈴を押した。奥の方でキンコーンとグロッケンのような音が鳴り、少しして足音が近づいてきてドアが内側に開いた。

 茶色の髪をアップに結い上げた、びっくりしたような丸い水色の目をした痩せた初老の女の人が「ようこそ」と微笑して三人を招じ入れた。なにやら不思議な雰囲気を漂わせている人だ。

「お部屋は三つ?」

「いいえ、一部屋お願いします。この二人が一緒に入ります」

 女の人は頷いて、

「ではこちらへ」

 女の人について階段を上る。女の人の立てる衣擦れの音で、春花はふと気がついた。随分古風な服装をした人だ。『赤毛のアン』とか『あしながおじさん』なんかに出てきそうなハイネックの黒いロングドレス。踊り場の窓から差し込む光に、女の人の喉元の大きな琥珀のブローチがちらりと光った。

 外から見た時には気がつかなかったけれど、家は三階建てだったようだ。女の人は二階からさらに続いているそれまでより少し狭い階段を上り続け、窓のある小さなホールの両側にある二つのドアのうち右側のドアの前で立ち止まった。近くに立っていた俊に、ドアの脇のフックにかかっていた鈍く光る大きな真鍮の鍵を手渡しながら、

「お隣からですね。初めてですか?」

 と囁くような低い声で訊いた。

「はい」

「では驚かれることもあるかと思いますが、は決してあなた方に害を加えることはありません。それでも怖くなったら、部屋を出てしまえばいいのです。は部屋の外に出ることはできませんから」

 女の人はそう言って小さく微笑んだけれど、春花は背筋がぞっとなった。  

 害を加える?怖くなったら?ど、どういうこと?

「大丈夫よ。お化け屋敷に入ろうっていうんじゃないんだから」

 春花の表情を見て、エルザがくすくす笑った。女の人も申し訳なさそうに小さく笑う。

「初めての方には一応ご忠告申し上げることになっていますので。ごく稀にではありますが、怖いと思われる方もいらっしゃいますから」

「楽しんでらっしゃい。私はここで本を読んでるから」

 エルザは階段近くにあるソファを示した。窓の下には低くて長い本棚が置かれていて古そうな本がぎっしり詰まっている。

 春花は俊の顔を見上げた。俊の顔が緊張しているのを見て、逆に気分が楽になった。そうそう、俊ちゃんたら怪談とか苦手だもんね。

 ハル。

 今から違う世界を覗きにいくよ。一緒に行こう。一緒にいるよね。

 ——もちろん。

 春樹の声が聞こえたような気がして、春花はにこりとして俊の手にあった大きな鍵を自分の手に取った。

「行こ」

「お、おう」

 大きな鍵穴に鍵を差し込んで回す。ガチャリ、と重い大きな音がした。

「鍵は抜いて、持っていらしてください。中に入ったら、中から鍵をかけてください」

 女の人が言って、ドアの脇の鍵がかかっていたフックから、赤いリボンに下げられた『使用中』と書かれた古びた木の札を外し、ドアの上の方についているフックに掛けた。二人に微笑む。

「良い旅を」

 そんなふうに言われたら、また背筋がぞっとしてしまった。

 真鍮の丸いドアノブを掴んで回すと、ドアはこちら側にゆっくりと開いた。

 眩しくて目を細める。

 明るくてがらんとした広い部屋だ。大きな窓。少し古びた感じの、ふさのついた深緑色のカーテン。床には古風な細かい模様の織り込まれた苔緑色の絨毯が敷き詰められている。斜めの天井。窓の近くに蛇腹式の蓋のついた立派なライティングデスクと椅子。脇に彫刻のしてある空っぽの大きな本棚。部屋の真ん中には凝った刺繍の施されたクッションがいくつものっている大きなソファ。部屋全体が古風で、まるで古い物語の中に入り込んでしまったようだ。

 外から女の人に促され、ドアを閉め、鍵を掛ける。またガチャリ、と大きな音がして、ぞくりとする。

「鍵、抜いて手に持ってた方がいいのかな」

「いや、そのままにしとくほうがいいだろ。急いで逃げなきゃいけなくなったら…」

 俊の言葉にまたぞっとなったけれど、わざといたずらっぽく節をつけて言う。

「俊ちゃんたら、怖がり〜」

「ルカもだろ」

「平気だもん。ね、何が起こるのかな」

 ぐるりと一通り部屋を見回してから最初に見ていた机に目を戻すと、そこにさっきはなかったものがあった。

「あっ」

 春花は息を呑んだ。

 深紅色のビロードのドレスと帽子。つやつやした長い茶色の巻き毛。ぱっちりと見開いた茶色の瞳。

「マリアンヌ…」

「へえ、ルカ、人形なんて持ってたっけ?」

「ううん…持ってたってわけじゃないの…」

「?」

「小一の時のクリスマスにね、おじいちゃんとおばあちゃんがくれたの。ちょうど小公女セーラを読んだ後で、ほら、セーラも人形のエミリーとお友達になるでしょ。それで嬉しくって嬉しくって…」

 あの時の気持ちが蘇る。クリスマスの夕食が済んで、デザートのケーキの前に渡された赤いリボンのかかった大きな箱。

 リボンを解いて、丁寧に包み紙を剥がして、ドキドキしながら白い箱の蓋を開けたら、中に薄紙に包まれて豪奢な深紅の装いのマリアンヌが眠っていた。うわあと目を見張り、そうっと抱き上げたら、大きな目がぱっちりと開いた。嬉しくて夢中で抱きしめて、その場でマリアンヌと名前をつけた。

 私、春花っていうの。お友達だね。よろしくね。会えて嬉しい。仲良くしようね。

 しばらくマリアンヌと二人だけの世界に浸っていたので、周囲で起きていることに最初は気がつかなかった。

「その時、田舎に住んでる従妹もおじいちゃんたちのところに泊まりにきてたの。私より一つ下。その子もお人形をもらったんだけど、自分のもらったのが気に入らなくて、マリアンヌが欲しいって泣き出しちゃって…」

 従妹がもらったのは、マリアンヌよりは子供っぽい装いの、短い黒い巻毛の人形だった。顔立ちも小さな淑女然としたマリアンヌよりあどけなくて、普通の小さな女の子という感じだった。春花の方が年上だったから、おじいちゃんとおばあちゃんがそういう選び方をしたのだろう。

「おじいちゃんは不機嫌な顔してるし、おばあちゃんも、お父さんもお母さんも、叔父さんも叔母さんもなんだか困った顔してて…。みんなが私が従妹とお人形を取り替えてあげるのを期待してるのが痛いほどわかって、私はマリアンヌを抱っこして、他の部屋に逃げ込んじゃったの。でもね、絶対嫌だけど、きっと取り替えてあげなきゃいけないんだろうな、って思ってた。私の方がお姉さんだから譲ってあげなきゃいけないんだろうな、どうせそうなるんだろうな、って思いながら、マリアンヌを抱っこして部屋の隅っこに座ってた。しばらくしたらやっぱりお母さんが来て、『お人形、取り替えてあげる?』って訊いた。嫌だって言えなくて、うん、って頷いた」

 あんな昔のことなのに、今でも目が潤んでしまう。何か言ったら泣き出しそうで、だからぎゅっと唇を引き結んで黙って頷いたあの時の気持ち。

「従妹に欲しがられなかったお人形もかわいそうで、だから一所懸命可愛がってあげようって思ったのに、どうしてもできなくて…。なんて名前をつけたのかすら覚えてない。結局お母さんが学校のバザーに出したんだったと思う」

 さっきまで泣いていた顔をニコニコさせてマリアンヌを抱きしめている従妹の横で、短い巻毛の人形に、心の中で一所懸命話しかけた。

 大丈夫だよ、あなたも可愛いよ、欲しがられなかったってわけじゃないんだよ、悲しまないで。

 でも仲良しになれなかった。

「そうか…それは辛かったな…」

 俊がしみじみとため息をついたので、春花はなんだかちょっと気恥ずかしくなったけれど、俊の同情が心に沁みた。

「でね、後日談があるの。次の年の夏休み、その従妹のところに私一人で泊まりに行ったの。そしたら、箪笥の上に白い下着姿になってくっしゃくしゃにもつれた髪をしたマリアンヌが放っておかれてた。びっくりして大ショックで、思わず足を止めてじっと見てたら、叔母さんが気がついて、『ああ、あのお人形ね。あの子が一緒にお風呂に入れて髪を洗うんだって言い張って…。そういうことするようなお人形じゃないのよ、って言ったのに。それでだめにしちゃったのよ。しょうがないわねえ』って」

「…ひでえ…」

「私が、取り替えるのは嫌だってちゃんと言えてたら、マリアンヌはあんなふうにされなくてすんだのに。マリアンヌが可哀想で申し訳なくて…すごく悲しかった」

 めちゃくちゃにもつれて膨れ上がった髪が顔にかかっていて、マリアンヌの目は見えなかった。だからかもしれないけれど、そこに傾いて座っていたのはマリアンヌの抜け殻のような気がした。

「それさ、叔母さんもその従妹も、謝んなかったわけ?ルカに」

「従妹はその場にいなかったから。叔母さんも別に謝ったりしなかった」

「そっか…」

 俊がまたしみじみとため息をついて春花をじっと見つめた。

「アマルカ姫だとばっかり思ってたのに…。ルカもそんな辛いことがあったんだ」

 見つめられてちょっとドギマギする。

「まあね」

「ハルの奴、何してたんだよ、まったく。ルカの人形とるな!って言ってやればよかったのにさ」

 わざとらしく乱暴な口調で俊が言ったので春花はちょっと笑った。

「覚えてない。ハルだって小さかったんだもの。きっと自分がもらったプレゼントに夢中になってたんじゃないのかな。…あ、見て!」

 春花は本棚を指差した。空っぽだった本棚の一番下の段に、いつの間にか大きな本がずらりと並んでいる。何かの全集のようだ。

 俊が振り返って、あっと声を上げた。本棚に駆け寄る。後に続こうとした春花の耳に、鈴のような声が届いた。

「春花ちゃん」

 びっくりして振り返る。机の上に座ったマリアンヌが春花をじっと見ていた。

「…マリアンヌ」

「春花ちゃん、ありがとう。私のこと覚えててくれて。あんなちょっとの間しか一緒にいなかったのに」

「マリアンヌ…。ごめんね」

 涙がこぼれた。マリアンヌが微笑む。

「春花ちゃんはなんにも悪いことしてないわ。謝ったりしなくていいのよ」

 そっと手を伸ばして、はたと躊躇した。触ってもいいのかな。

「あの…抱っこしてもいいの?」

「もちろんよ」

 そうっと抱き上げる。小一の時よりもずっと身体が大きくなったはずなのに、マリアンヌを抱いた時の感覚は記憶の中のそれとぴったり重なった。思わずぎゅっと抱きしめる。

「また会えて嬉しい」

「私も」

 胸をいっぱいにしてマリアンヌを抱き抱えたまま本棚の方へ行くと、俊が嬉しさに顔を輝かせて次々と本を開いているところだった。絵本だ。

「あっ、これ覚えてる!」

 昔、春花も春樹も読ませてもらった絵本だ。大きくて薄いハードカバーの絵本で、シンデレラやアリババ、赤ずきんや七匹の子やぎなどの有名な童話だけでなく、他ではちょっと見かけないような世界の童話が美しい挿絵と共に書かれている三十冊くらいの全集。お姫様が出てくる物語がいくつもあって、美しいドレスの絵にうっとり見惚れたものだ。

「この絵本、失くしちゃったの?」

「そうなんだよ。中一の時。ある日帰ってきたらこいつらが入ってた居間の本棚が空になっててさ、母さんに訊いたら、知り合いで小さい子がいる人にあげた、って言われて。なんで勝手にあげちゃうんだよ、ってすげえ腹立って抗議したら、『だってあなたもう中学生なんだしこんな絵本もう何年も読んでなかったじゃないの』って。そんなことない、結構ちょくちょく引っ張り出して読んでた、って言ったら、じゃあその人のところに行って返してくださいって自分で言えば、って言われたから、本当に行こうとしたら、やめなさい!って怒られた。ったく。理不尽だよな。」

 意外な話に春花は目を丸くした。

「あのおばちゃんが…」

 明るくてお茶目な俊の母親は小さい時から春花の大好きな人たちの一人だ。

「結構ひどいだろ」

「俊ちゃんの本なんだから、俊ちゃんに訊いてからにするべきだよね」

「まったくだよ」

 俊が鼻息荒く言うと、まるでこだまのように、

「まったくですよ」

 と本が言ったので、俊は本を取り落としそうになった。

「あなたは私たちを大事にしてくれましたねえ」

「そうそう。落書きしたりページを折ったり破いたりなんて絶対にしなかった」

「ページをめくるときも丁寧にめくってくれたし」

「クッキーのかけらをボロボロこぼしたりもしなかったし」

「私たちを投げたりもしなかったし」

「散らかしっぱなしにして踏んづけたりもしなかったし」

「同じ子供でもずいぶん違うもんですね」

 本たちが口々に言う。

「…今は大事にされてないの?」

 訊ねた俊の目があんまり悲しそうで、春花は胸を突かれた。本たちも同じだったらしい。一瞬みんながしんとなったかと思うと、また口々に言い始めた。

「大丈夫ですよ、心配しないでください」

「そんなにものすごくひどく扱われてるわけでもないですし」

「私たちは結構頑丈に作られていますしね」

「そうそう。それに、あなたが長いこと大事にしてくれたから、みんなまだまだ丈夫ですよ」

「でも落書きされたり破かれたりしてるんだろ?…俺、やっぱり返してもらいに行くよ」

 俊がきっぱり言うと、嬉しそうなささやきが広がったけれど、

「でも、あの子たちも楽しんで読んでくれてはいるんですよ」

 『五つぶのえんどうまめ』が言うと、みんなまたしんとなった。

「今は特に一番下の女の子がね、私たちをとっても気に入ってくれていて、毎晩必ず一冊ずつ選んで枕元に置いて眠るんです。毎晩違うお話の夢を見たいんだって言って、明かりを消す前に読んでから眠るんですよ。まだ字が読めるようになったばかりで速くは読めないから、途中で眠ってしまうことがほとんどだけど」

 『まほうの赤いほん』も優しげな声で言った。

「あの子たちはお父さんがいなくて、お母さんも忙しくてあの子たちに本を読んであげたりはなかなかできないんです。でもごくたまに時間があると、お母さんがその末の女の子が枕元に置いている本を読んでくれる。そんな時はお母さんもとても嬉しそうなんですよ。『ほんとに綺麗な絵本ねえ。いい本をいただいたわねえ』って」

「…そっか…」

 俊はため息をついて複雑な表情で絵本たちを見やった。

「…みんながその家にいたいなら、取り返しには行かないよ。ほんとは俺だってみんなのこと自分のとこに置いときたいけど、でもその子たちがそんなふうに楽しんでくれてるなら、取り上げるなんてよくないと思うし…。でも、みんながそこから助け出してほしいって思ってるなら、すぐにでも助けに行く」

 本たちは互いに視線を交わしているふうだったが、やがて『ながぐつをはいたねこ』が言った。

「私たちは大丈夫です。今はあの家にいて、あの子たちを楽しませてあげたいと思います」

「了解」

 俊は微笑んで頷いた。

「それに俺はここに来れば、いつでもみんなに会えるんだしね。…ルカ、何泣いてんの」

 春花は慌てて目をしばたたかせて口を尖らせた。

「泣いてないもん。ちょっとうるうるしちゃっただけ」

 腕の中でマリアンヌがうふふと笑った。



 

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