第7話
Chap.7
庭園に続くバラのアーチの下の小さな門を通ると、小道は玉砂利から石畳に変わった。春特有の柔らかな緑色をした葉の間からきらきらとこぼれてくる朝の光が心地いい。湖のほとりの家の話をしているフランツと俊とエルザの後を、春花とユマが並んでぶらぶらとついていく。
ユマは今十一歳で、小学五年生だと言った。
「五月になったらすぐ花祭りのお休みがあるの。九日間。そしたら学校に行かなくてすむから、一緒にボートに乗ろう?私、ちゃんと漕げるんだよ。ボート部なの」
「ボート部?すごいね」
春花は目を丸くした。小学生がレガッタなんてかっこいい。
「私、ボートなんてちゃんと漕いだことない」
足で漕ぐ、白鳥の形をしたボートにしか乗ったことがないなんて言ったら笑われるだろうな。
「教えてあげる!すっごい気持ちいいんだよ。ぐって漕いですうーっと滑っていく時の感じ!」
しばらくの間ユマは目をきらきらさせて春花にレガッタのことを話してくれた。春花はなんだか眩しいような思いで、身振り手振りを交えて夢中になって話しているユマを見つめた。
こんなふうに何かを好きになってみたいな、とふと思った。こんなふうに何かに夢中になってみたい。
「春花はどんなことするのが好き?」
ユマに訊かれて、春花はうーんと考えた。
「そうねえ…。本を読んだり、絵を描いたり…」
私が好きなことってなんだろう。そんなことあんまり考えたことなかった。
「ふうん、インドア派なんだ。学校のクラブとかチームとかには入ってないの?」
「演劇部に入ってるよ」
「わお。女優になりたいの?」
「ううん。朗読が好きなの」
「朗読」
ユマがしかめっ面を作ってみせる。
「私、すっごく苦手なの、朗読。授業でたまにやらされるけど、全然上手く読めない。先生に、もっと抑揚をつけて、とか、感情を込めて、とか言われるけど、どうやったらいいかわからないんだもの。恥ずかしいし、早く終わらせたいから、早口でだだだーって読んじゃう」
春花はちょっと笑って頷いた。そういう子はクラスにもよくいる。
「今度、朗読のやり方教えて?そうだ、私がボート漕いで、春花がその間朗読してくれるっていうのは?」
そんな、人に教えるほど上手なわけじゃないよ、と慌てて言いかけると、前を歩いていた俊がひょいと振り返ってユマに言った。
「春花の朗読、すごく上手いよ。小学校の頃から有名」
びっくりして目を丸くしたのは春花本人。フランツとエルザは感心の声を上げ、ユマは目を輝かせてまた「わお!」と言った。
「有名だなんて」
何デタラメ言ってんの、と眉をしかめて俊を見上げる。俊がにこりとする。
「ほんとだよ。ま、有名っていうのはつまり、先生達が職員室で春花の朗読褒めてるのを何度か聞いたことがあるってことだけどさ。あと親達。俺が何にも言わないのに、親の方から『春花ちゃん、朗読がすごく上手なんですって?』とか言ってくるんだから、十分有名ってことじゃない?学年違うのに」
フランツとエルザとユマが、うんうん、そうに違いない、と頷き、春花は困惑して口籠った。
「そ…そうかな…」
そんなことちっとも知らなかった。
確かに朗読は好きだし、授業中にもよく褒められるけれど、人の口の端に上っていたなんて。
その時、
「大使」
フランツのスーツのポケットから声がした。
「失礼」
フランツが言って、すっとみんなから離れ、ポケットから取り出した手の中の何かに向かって小声で話し始めた。『ケータイ』だ、と思った途端、
「春花?」
春花のスカートのポケットからも声がした。慌ててハンカチにくるんだ美しい緑色の玉を探り出す。
「リオ?」
「どこにいるの」
「ええと、庭園の門を入ってちょっと来たところ」
「了解。今行くよ」
そういえば、もうそろそろ帰る時間なのかもしれない。どこかに時計がないかと見回していると、エルザが自分の腕時計を見て、
「今五時二十五分よ」
「もう帰っちゃうの?」
ユマが眉を寄せてあんまり悲劇的な顔をしたので、春花は思わず微笑んでしまった。
「またすぐ来るから」
「でも今日はもう会えないんでしょ」
不服げにちらりとエルザを見上げる。エルザが笑いながら眉をしかめて首を振ってみせる。
「学校が終わるのは何時?」
「授業が終わるのは二時半。でも今日はボート部の練習があるからうちに帰ってくるのは五時くらい」
というと、朝の五時か…。早起きすれば来られるかも、と考えていると、エルザが優しく言った。
「そんな時間に来るのは大変よ。無理しないで」
そしてたしなめるようにユマを見た。
「週末とかお休みの時に会えるでしょ」
「父はどれくらいの時間に来てたんですか」
「そうね、最初の頃はやっぱり朝の九時、十時くらいが一番多かったんじゃないかしらね。だから私たちも学校がある日は潤に会えないことが多かったのよ。でも週末なんかは夜に来たりもしてたわ」
懐かしそうに目を細める。
「それなんですけど、こっちに来る時って、いつもあの大広間に着くんですよね?」
『ケータイ』での会話を終えて戻ってきたフランツに俊が問う。
「そうしたければもちろんそうできますよ。でも、行きたい場所に直接、ということも『敷石』を使えば可能です」
「『敷石』?」
「これくらいの」
と、両手の親指と人差し指で10cm四方くらいの四角形を作ってみせて、
「タイルのようなものです。あの大広間の床に使われているのと同じ石です。それを行きたい場所に置いておくと、大広間でなくそこに直接来ることができます」
「うちの居間におけばいいよね」
ユマがそれで決まり、というように頷いて言葉を続ける。
「あのね、居間からだと庭にも出られるし、庭を突っ切るとそのまま湖に出られるの。船着場があってボートがつないであるから、いつでも使いたい時に…」
「決めるのはユマじゃなくて春花さんと俊くんだよ。どうしますか」
フランツが苦笑してユマを遮る。俊と春花は顔を見合わせて頷いた。
「ご迷惑でなければ」
俊が言うと、エルザが笑った。
「大歓迎よ。いつでも来てくれて構わないわ。社交辞令で言ってるんじゃないの。本当にいつでも大歓迎よ。夜中の三時だろうがなんだろうが」
意味ありげに眉を上げたエルザにフランツが目を細めて答える。
「懐かしいね。『真夜中の冒険』か」
「冒険?どんなことしたの?」
ユマが目を輝かせて尋ねる。
「大したことしたわけじゃないのよ」
エルザがおかしそうに目をくるりと回してみせる。
「子供だったから、夜中に大人たちに隠れて色々するだけでも冒険だったのよ。夜の庭を歩き回ったり、キッチンでケーキを食べたり」
また意味ありげに言ってフランツを見る。フランツが笑い声を上げた。
「ああ!あれはおかしかったね」
「なになに?何があったの?」
「まだ潤と知り合ったばかりの頃にね、三人で、夜中にこっそりキッチンに忍び込んでケーキを切って食べた後、二階に持っていく分をそれぞれ一切れずつ手に持って、ケーキを元通りにしまって、足音を忍ばせて階段に向かって歩き出したの。私がしんがりだった。そこでふと、そうだ、チョコレートも持っていこう、と思った私は、一人で戸棚のところに取って返して、暗い中チョコレートの箱を手探りで探して——灯りは先頭のフランツが持ってたからキッチンは真っ暗だったの——、ようやく見つけた箱を抱えて急いで二人の後を追おうとしたら、誰かが後ろから私のパジャマをぎゅっと掴んで引っ張ったのよ!思わず『きゃあ!』って叫び声が出ちゃって…」
「いやいや、そんなかわいい叫び声じゃなかったな。この世のものとも思えないようなものすごい絶叫が後ろから聞こえて、心臓が止まったかと思った。あとはもう家中大騒ぎ」
フランツが笑って続ける。
「両親が何事かと駆けつけ、その途中で父が階段を踏み外して打身と捻挫。悲鳴の原因は何かと思えば、パジャマの裾が戸棚の扉に引っかかっていたというだけだったんですよ。まったく」
からかうようにエルザを見ると、エルザはつんと肩をそびやかしてみせた。
「それでも潤は瞬時に助けに駆けつけてくれたわ。誰かさんと違って」
「そう、そしてね、両親にも自分が悪いんだって言ったんですよ。『僕がお腹が空いたって言ったから悪いんです。二人を叱らないでください』って、きっぱりとね。父も母も潤の紳士ぶりに感激してしまって、それで私たちもお咎めなしで済んだんです」
春花は目を丸くするばかりだった。あの穏やかでのんびり屋のお父さんが、瞬時に助けに駆けつけるだの、自分が悪いときっぱり言うだのというのを想像するのはなかなか難しい。
私の知らないお父さん。
お父さんて、どんな男の子だったんだろうな。
「ああ、リオ」
フランツの声に振り向くと、リオがきびきびとした足取りで小道を歩いてくるところだった。
「わお。噂の天才美少年」
隣でユマがそう呟いて、いたずらっぽく春花を見上げる。
「惚れた?」
「ううん、そんなこともないけど」
春花もいたずらっぽく囁き返す。
「…でも確かに魅力的」
「だよね」
女子二人、くすくすと忍び笑い。
「遅くなりました」
リオがフランツに会釈する。
「いやいや、ちょうどいい時間だと思うよ」
「報告書は机の上に」
「ありがとう。ああ、こちらは妹のエルザと姪のユマ。こちらがリオ」
三人が握手と挨拶を交わす。
「では、そろそろ広間に戻りましょうか。エルザ、ユマ、また後で」
フランツが言うと、ユマが口をへの字にした。
「見送っちゃいけないの?」
「広間は関係者以外は入っちゃいけないのよ」
とエルザ。
「友達だもん。立派な関係者じゃないの」
「規則だからね」
フランツがにこやかに、しかしきっちりとした口調で言うと、ユマは仕方ないというようにため息をついて春花を見上げた。
「またすぐ会えるよね」
「うん。三日経てば土曜日だもの」
にこりと微笑み合う。ユマが本当に輝くように嬉しそうに笑うので、春花は心が温かくなった。
「さっそく友達ができたんだね」
さっき来た小道を逆に辿りながら、リオが隣を歩く春花に微笑む。
「うん、時差があるのがちょっと残念だけど。ね、十二時間違いっていうのは、つまり、どっちが先なの?」
「日本が先。だから、例えば日本の土曜日の朝七時はこっちの金曜日の夜七時ってことだね」
「こっちに来たいときはどうすればいいんですか?」
前を歩いている俊がフランツに尋ねる。
「リオがアシストします。慣れてきたらお二人だけでも大丈夫ですよ」
「何かを使ってするんですか?なんていうか…例えば魔法の指輪とか」
「いやいや、そんなものは必要ありません。気持ち一つで来ることができます。こっちに来たい、という気持ちだけで」
「気持ち一つで…」
春花は呟いた。それって、なんだか却ってコントロールが難しそうだ。
「大丈夫、慣れれば簡単だよ」
春花の気持ちを読んだようにリオが言った。
「それで今夜だけど、何時ごろなら都合がいい?」
俊が振り返ってリオに訊く。春花はふふっと笑った。俊ちゃんたら、すぐ戻ってくる気満々だ。
「何時でも。僕はメッセンジャーだからね。いつなりと、お二人の御用命のままに」
リオが恭しく片手を胸に当ててお辞儀をする。俊がきらきらした目で春花を見る。
「何時にする?」
「…ちょっと待って。あのね、私の家からしか戻ってこられないの?」
リオを見上げる。リオはえっという表情になってから、
「…ああ、そうか。同じ家に住んでるわけじゃないんだよね。じゃあ、そうだな…どうしようか」
「大丈夫だよ、自転車でひとっ走りだし。ルカんとこ行くよ」
「夜中に?無理よ。お母さん達になんて言うの」
「…そっか」
いくら幼馴染でも、それはやっぱり変だ。
…ハルがいたとしてもちょっと変だよね。
そう思ったら心の奥がきりっと引っ張られるように痛んだ。
ハルが
「こうしよう。今、まずは春花のところに三人で戻る。そのあと俊と僕で俊のところに行こう。そうすれば僕にも俊の部屋の場所がわかるから、次回はまず俊を迎えに行って、春花のところに寄って、それから一緒にこっちに戻ってくる、と。ああ、それとも別々がいい?」
俊と春花は顔を見合わせた。
一緒がいいな。でもまたアマルカ姫って言われるかな…。
そう思って春花はちょっとためらったけれど、俊はさらりと
「一緒でいいよな」
「…うん!」
嬉しくて大きく頷く。
「じゃ、そうしよう」
「広間じゃなくて、我が家の居間にね。後で『敷石』を渡すから設置をお願いできるかな」
フランツが言うと、リオが驚いたように眉を上げた。
「大使のお宅に、ですか?」
そこでフランツがかいつまんで二人との関係を話した。
「…そうだったんですか」
リオは深く息をついてしみじみと二人を見つめるとふわりと微笑んだ。
「それで招待状が見えたんだね」
「そうなの?」
「一度ここに来ているわけだから。それにしても…不思議な
その言葉が、きらりと光って春花の心に落ちた。日の光に煌めく雫が、澄んだ泉の水面に落ちて波紋が広がっていくような感覚。ぴったり当てはまる言葉を聞くと、いつもそんなふうに感じる。
顔を上げて、爽やかな薄緑の空気を胸いっぱい吸い込む。
素敵。
ほんと、素敵だ。
素敵だね、ハル。
「それで時間だけど、何時頃がいい?」
リオの質問に、俊と春花は顔を見合わせた。
「うーん…十時頃とか?」
「だな」
「了解。じゃ、十時にまず俊のところ。その少し後に春花のところだね」
「私の部屋じゃなくて、ハルの部屋?」
「どっちでもいいよ。自分の部屋の方がいい?」
「ううん。ハルの部屋がいい」
即答すると、俊がからかった。
「ルカ、部屋散らかしてるんだろ」
「そんなことないもん」
春樹の部屋を拠点にすることで、春樹もこの冒険に加わっているような感じがする。
そう言葉にはしなかったけれど、俊もわかってくれているような気がした。
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