第8話

Chap.8


 その夜、春花はいつになくちゃっちゃと宿題や予習を済ませ、そわそわしながら時計が十時になるのを待った。お父さんもお母さんも、普段——春花がうなされて泣き叫んだりしない限りは——そんな時間に春花の部屋を覗きに来たりはしない。でも万が一ということもあるので、出かける前にぬいぐるみ達を掛け布団の下に入れていくつもりだった。もちろん、布団をめくられてしまえば、ベッドの中にいるふりをしてどこかに行っていることは簡単にバレてしまうけれど、そうなったら本当のことを話せばいいだけだ、と春花は思っていた。悪いことをしているわけじゃないし、俊ちゃんも一緒なんだし、何よりお父さんが昔行っていたところに行くんだもの。

 お父さんといえば、やはり隣の世界のことは覚えていないようだった。

 夕食の時、春花は招待状をテーブルの上のどうしたってお父さんやお母さんの目に入らないわけにはいかないところに置いてみたのだ。それだけではなく、招待状を醤油差しと一緒に指でつまんで

「お醤油って、よく見るとなんだか不思議な色してるね」

 なんて言いながら、お父さんの目の前で振ってみたりもした。お父さんはちょっと笑って、

「ん?うん、そうだね。黒のようだけど黒じゃないんだよね」

 と調子を合わせてくれたけれど、招待状は全く見えていないようだった。

 九時五十九分になった。

 春花は用意しておいたスニーカーを入れた袋と、ハンカチやティッシュやスマホ、それから小さなフォトアルバムと筆記用具を入れたミニリュックを持って、そっと春樹の部屋に滑り込んだ。

「ごめんね、ノックしないで。お母さん達に聞こえちゃうかなと思って」

 口の中で呟く。机の前の椅子から振り向いた春樹が、

 ——いいよ別に。

 と笑った。

 ——何時に帰ってくるの。

「んー、あんまり遅くならないようにしようと思ってる。十二時くらいかな。ほんとはもうちょっといたいけど」

 ——お父さんのこと、訊いてみて。作家のこととか。

「うん、ちゃんと訊いてくるね」

 そう呟いて椅子に向かって微笑んだ時、右の方でゆらりと空気が揺れたような不思議な感じがして、はっとしてそちらを見ると、リオと俊が現れたところだった。目で挨拶して忍足で二人に歩み寄る。差し出されたリオの手を握る。ふっと周囲の光と色彩が流れて、次の瞬間、三人は昼間の光の中に立っていた。

 そこは明るい部屋だった。床にも家具にも明るい色の木材が使われていて、庭に面した大きなフランス窓から入ってくる温かな日差しが部屋中に満ちている。すぐそばには大きな暖炉。

 俊が目を輝かせて暖炉に歩み寄った。

「懐かしい…」

 火の入っていない暖炉の前でちょっと屈んで首を突っ込み、煙突を見上げている。 

 リオが春花を見てにこりとした。

「かわいいセーターだね。よく似合ってる」

 オフホワイトの地の裾の方に不規則にピンク色のチューリップが編み込まれているオーバーサイズの薄手のセーターは、昨年のバースデープレゼントに由里子伯母が編んでくれたものだ。

「ありがとう」

 嬉しくて微笑む。

 ハルもこのセーターが好きで、よく褒めてくれた。

 ——似合うよ。すごくルカらしくてかわいい。

「いらっしゃい!」

 エルザが部屋に入ってきた。慌てて煙突から顔を出した俊を見て吹き出す。

「あらあら、額に煤がついてるわ。まあ春花、素敵なセーター!ちょうどアップルクランブルができたところなのよ。キッチンに来て。リオもそれくらいの時間はあるでしょ。どう?」

 リオはちらりと腕時計を見ると、

「ちょうど休み時間になるところですから、それではお言葉に甘えて」

 といたずらっぽい笑みを浮かべた。

「休み時間?…ああ、そうか、学校があるのね」

 エルザについていきながら春花が言うと、

「そう、もうすぐ卒業だけどね。秋からは大学」

「メッセンジャーやりながら大学にも行くの?」

「もちろん。僕はね、勉強が趣味だから」

「……」

 冗談で言っているのか本気なのかわからなくて、春花は反応し損ねてしまった。   

「何の勉強?」

 と俊。

「何でも。いろんなことを学ぶのって楽しいだろ?新しいこととの出会い、今まで知らなかった考え方との出会い。そこで出てくるいろいろな疑問。それについて考えたり、分析したり、解明したり」

「ははあ…なるほど…」

 そんなふうに考えたことのなかった春花にとっては、それこそ今まで知らなかった考え方との出会いだった。勉強は、学校でいい成績を取るために、将来いい高校やいい大学に行くために、必要だからやっている。別に嫌いではないけれど、楽しいからやっているわけではない。

「大学では何を専攻するつもり?」

 俊が訊く。

「まだ決めてない。入ってからゆっくり考えるつもりだよ」

「日本では入学する前に選ばなければいけないんでしょう?」

 三人をテーブルにつかせながらエルザが言った。

「潤もずいぶん迷ってたわ」

「何と何で迷ってたんですか?」

 お父さんは高校の物理の先生。大学は確か理工学部物理学科…とか言っていたような。

「潤はね、音楽をやりたかったのよ」

 春花は目を見張った。

「音楽?」

「そう」

 同じようにびっくり顔の俊と目を合わせる。

「音楽って…バンドですか?ロックとかそういう?」

 俊が言うと、エルザは軽い笑い声をあげてからため息をついた。

「…知らないのね」

 そして甘酸っぱい香りのする熱々のアップルクランブルを取り分けてくれながら、 

「潤は小さい頃からヴァイオリンをやってたの」

 それは知ってる?と言うように春花と俊を見る。二人の驚きっぱなしの顔にちょっと頷いて、エルザは言葉を続けた。

「音楽大学に行って音楽の道を目指すか、それは諦めて普通に大学に行くか、ずいぶん迷っていた時期があったのよ。こっちにもヴァイオリンを持ってきて、よく練習してたわ。向こうでは夜は練習できないから、って。でもある時を境にヴァイオリンを持ってこなくなった。もう練習しないのかって訊いても、なんだか曖昧な返事が返ってくるだけ。その時はそれ以上は訊かないでおいたわ。でも少し後で…こんなことティーンエイジャーの前で言うのはちょっとあれだけど…三人でちょっとお酒を飲んでほろ酔い気分になったことがあったの。フランツの大学院への進学が決まったお祝いでね。ベランダで夜空を見上げながら色々話した。その時突然潤が言ったの。『普通言う?君の音は全然だめなんだよ、才能が全くないんだから何やったって無駄だ、なんてさ…』って」

 その時のことを思い出したのか、エルザは深いため息をついた。明るい茶色の目が涙で潤んでいた。

「どうしても堪えきれなくて思わず口から出てしまった、っていう感じだった。すぐに自分で話題を変えて、冗談を言って笑って…。痛々しかったわ。なんとか慰めてあげたいと思ったけど、でもそのことは話題にしてほしくないって思っているのがはっきりわかったから…」

 春花は言葉を失っていた。頭の中で言葉がぐるぐる回る。

 お父さんがヴァイオリン?でもうちでは誰もクラシックなんて聞かないのに。音大?君の音はだめなんだよ?そんなこと言ったの誰?先生?何やったって無駄?ひどい。

「アイスクリーム?」

 エルザがバニラアイスクリームを大きなスプーンで掬いながら訊いてくれる。頷いて、淡い黄色のアイスクリームが湯気を立てているアップルクランブルの横に落とされていくのを眺めながら言葉を音にする。

「お父さんは…クラシック音楽なんて全然聞きません。音楽の話なんて全然しないし…。ヴァイオリンだなんて…。ちっとも知りませんでした」

 そこで思い出して、

「…童話を書いていたっていうのも」

 と付け加えると、エルザが微笑んだ。

「二冊出版されたのよ。大学の時。大使館の図書室にもあるけど、うちにもあるわ。読んでみる?」

「はい!」

「じゃ、持ってくるわ。どうぞ召し上がれ」

 エルザは三人ににこりとすると、急ぎ足でキッチンを出ていった。

 居間と同じように陽の光がたっぷり入ってくる明るく広いキッチンに残された三人は、顔を見合わせてちょっと笑ってスプーンを手に取った。甘いものを食べる前の浮き浮きした気持ち。

 いただきます、と言って熱々のアップルクランブルとバニラアイスクリームを一緒にスプーンで掬って口に入れる。

「いやーん、おいしいー!」

 あまりのおいしさに甲高い声をあげてしまって、リオと俊が吹き出す。

「女の子ってさ、どうしてこういう反応するんだろうね」

「そうそう。やーとかきゃーとか、やかましい」

「男子だってうるさいじゃない。うおーとかぐわーとか。同じうるさくても女子の方が可愛いだけマシよね」

 ふんと鼻を鳴らすと、リオがおかしそうに笑った。

「それはまあ好みの問題だね」

「ところでルカ、このキッチン覚えてる?」

 言われて春花は改めてキッチンを見回した。

「うーん……覚えてないと思う。俊ちゃんは?」

「そこの戸棚は前はなかった。そこのベンチも。このテーブルはあの時と同じだと思う。あと、あの絵はよく覚えてる」

 と、ドアと食器棚の間にかかっている大きめのキャンバスを目で示す。

 アヒルたちが青い池のほとりで気持ちよさそうに日向ぼっこをしている絵だ。本を読んでいるのもいれば、編み物をしているのもいるし、難しい顔をしてチェスをさしているのもいる。

「あのハンモックで昼寝してるアヒル。あれがすごく羨ましくてさ、ハンモック欲しいなって思ったんだ」

 ハンモック。

 幼稚園の頃の夏休みに家族で行ったキャンプ場に小洒落た広場があって、広いウッドデッキのあちこちにハンモックやロッキングチェアがあった。大きなハンモックのあっち側とこっち側に春樹と乗ってみた。しばらくして場所を交換しようということになり、四つん這いになってそろりそろり動き出したら、真ん中ですれ違ったところでハンモックがくるりんとひっくり返り、ウッドデッキに背中から落っこちて一瞬息ができなかった。あんまりびっくりして泣くこともできなかったのだけど、近くにいたおばあさんに「強い子ね、泣かなくて偉いね」と褒められてくすぐったかった。春樹が後でお父さんとお母さんに、ルカは強いんだよ、泣かなくて偉かったんだよ、おばあさんに褒めてもらったんだよ、と誇らしげに報告していた。

 ハル、覚えてる?

 ——覚えてるよ。

 笑いを含んだ春樹の声が聞こえたような気がして、ひとり微笑む。なんだか春樹が一緒にいるような感じがする。

 そういえば、私は覚えていないけど、ここにはハルも一緒に来たことがあるんだよね。三人で一緒に来たんだよね…。

「お待たせ!」

 エルザが戻ってきた。大事そうに抱えていた二冊の絵本を春花に差し出す。

「絵本?」

 びっくりして表紙を見ると、

「絵・文 となりの じゅん」

 と書いてある。

 お父さん、絵も描けるの?となりのじゅん…。

「隣の潤?」

 エルザがくすくす笑って、

「潤はその名前がすごく気に入ってたわ。ペンネームを考えてるんだけど、どうもこれというのがない、って。それで三人で月夜の庭をぶらぶら歩きながら、あれこれ考えた。そのうちフランツが冗談混じりに『隣の世界の潤』はどうかって言ったの。そうしたらパチンと指を鳴らして『それいい!』って」

「となりの、じゅん…」

 呟いてみてふふっと笑う。とぼけた感じがお父さんによく合っていると思った。

「素敵な絵だね」

 リオが微笑む。

 柔らかいタッチの絵だ。綺麗な淡い色使い。

「これ、色鉛筆?」 

「パステルだと思う」

 と俊。俊は絵を描くのが好きで、小学生の時は美術クラブに入っていた。

 美しい緑の木立の中で、目を閉じてヴァイオリンを弾いている男の子が表紙に描かれている。あたりには可愛らしい花が咲いていて、森の動物たちがヴァイオリンに聴き入っている。

 タイトルはシンプルに「ヴァイオリンとぼく」

 お父さんがヴァイオリンを諦めた話を聞いたばかりだけに、そのタイトルだけで目がうるうるしてしまった。めくっていい?とリオと俊に訊いてから、そっとページをめくる。

 ヴァイオリンと少年の、出会いと友情の話だった。ごくシンプルな温かいお話だったけれど、春花は何だか胸がじーんとして、涙がこぼれないように何度も目をぱちぱちさせなければならなかった。

「いい話じゃん」

 本を閉じると、やっぱり目をぱちぱちさせながら、俊が照れ隠しのように明るい口調で言った。

 二冊目の表紙を見た春花は、思わずうわあと呟いて微笑んでしまった。

 描かれているのはおいしそうなお菓子でできたお家と、それを建てているシェフのような格好をした男の人で、タイトルは「マーティンさんとおかしのおうち」。これも淡い色使いで、とても繊細に細かく描かれているので、お菓子が本物のように見える。照りのあるチョコレートクッキーや、砂糖のまぶしてあるボンボン。いちごののったクリームのくぼみなんて思わず指で触って舐めたくなる。

「おいしそう…」

「ルカの好きそうな本だな」

 俊がくすくす笑う。

 それはお客さんの望む通りにお菓子の家を建ててあげるお菓子作りの名人のお話だった。ナッツ類に目がないリスのためにはナッツをたくさん使ったお家。人参が大好きなウサギのためにはキャロットケーキのお家。他のお客は甘党のライオンや、グルメの学者、はちみつ好きの熊に、空から落ちてきてホームシックになっている星。わがままで好みのうるさいお姫様にも、マーティンさんは百種類のチョコレートを使ったお家を建ててあげる。

「いいなあー私もこんなお家が欲しい」

 読み終わって思わず特大のため息をついてしまって、みんなに笑われた。

「二冊とも素晴らしい作品でしょう。とっても潤らしくて大好きなのよ」

 春花がお礼を言って絵本を返すと、エルザはしみじみと本を眺め、誇らしげにそう言った。

「でも…どうして今まで見たことなかったんだろう…。出版されたなら、本屋さんにあるはずじゃない?」

 少し冷めてしまったアップルクランブルを食べながら呟く。

「まあ、絵本なんて新しいのがどんどん出版されてるんだろうしさ」

 俊が言う。

「よっぽどのベストセラーじゃないと、何年も前に出版されたのが本屋にあるなんてこと、あんまりないんじゃないの。『ぐりとぐら』とかみたいにさ」

「そっか…。でも、本屋さんになくても、うちにあったっていいのに」

「それはお父さんの意志だろうね。思うところあって、自分の作品はそっとしまっておきたいということだよ」

 リオが静かに言う。深いグレイの目が、その気持ちを尊重してあげなきゃね、と言っているように思えた。

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