第6話
Chap.6
「フランツはさっき、僕たちがあの時の子供たちだってすぐに気がついたんですか」
慣れた手つきで、華奢な背の高いカップにホットチョコレートを注いでくれるフランツに俊が尋ねた。
「そうですね。春花さんのことは昨日リオが報告してくれていたので、最初からわかっていたんです。もちろん、同じ名前の他人ということはあり得ますが、招待状を受け取るはずだった春樹くんの妹の春花さんというのですから、ほぼあの時の春花さんに間違いないだろうと思っていました。あの時の賑やかな小さな女の子が、どんなお嬢さんに成長しているだろうと、会えるのを楽しみにしていたんですよ」
洒落た銀のポット越しに微笑まれて、春花はまた赤くなった。賑やかなだって。どれだけ騒がしくしたんだろう。昔の自分を恨みたくなる。
「ですからもちろん、俊くんのことも思い出していました。でもこんなふうにまた会えるとは、全く嬉しいサプライズでしたね。あの小さな男の子がこんな立派な若者になって…。知らずに再会したのだったら、すぐにはわからなかったかもしれません」
ポットを置くと、フランツは笑顔を消して二人を交互に見やった。
「春樹くんのことは本当に残念です。お二人もどんなにか辛いでしょうね」
俯く二人を見て、フランツは悲しそうな顔をしてそっとため息をついた。
「愛する人との別れは、辛いものです。私も相次いで妻と息子を亡くしました。あなた方三人に会ったあの日の、そうですね、半年ほど前でした」
俊が深いため息をついた。
「…そうだったんですか…それであんな、あ、いえ」
具合が悪そうに口をつぐむ。フランツが微笑む。
「顔に出ていましたか」
「…とても悲しそうだな、と思ったのを覚えています」
俊は遠慮がちに言ってから、春花を見やってちょっと笑った。
「だから、春花が歌って踊ってフランツが大笑いした時、ああよかった、って思ったんです。少しは悲しいのが治ったかな、って」
フランツは目を細めた。
「そうですか…」
その目は心なしか少し潤んでいるようだった。
春花もなんだか胸がじんとした。
俊ちゃんて、こう見えて優しいんだよね。
小学校の低学年だった頃、三人でスーパーの前を通りかかった。外に大きなゴールデンがつながれていた。少し前に冬の冷たい雨がぽつぽつと降り始めたところで、俊はひとりで濡れてかわいそうだと言って、自分の空色の傘をゴールデンに差し掛けた。そして飼い主が店から出てくるまで待つと言い張ったので、春樹が俊に自分の苔緑色のチェックの傘を差し掛け、春花が春樹と自分の上に桃色の水玉模様の傘を差した。だいぶしてから飼い主のおばさんがショッピングバッグを持って出てきて、なんて優しい子たちなんでしょうと大感激していたっけ。
フランツと俊が「あの日」のことを話しているのを聞きながら、火傷しないように用心しいしい香り高いホットチョコレートを啜った春花は、目を丸くした。
ものすごくおいしい。無茶苦茶おいしい。大袈裟でなく、舌どころか顔、いや身体全体がとろけそうだ。濃厚で、コクがあって、深い味がするのに泡立てたようにふんわりとしている。甘いとか苦いとか、そういう単純な表現とはとても同列にできない。こういうの、なんて言い表せばいいんだろう…。
陶然となりながらも言葉を探そうとしていると、じんわりと頭の奥の方で何かが動き出した気配がした。深くて暗い海の底から日の当たる明るいカリビアンブルーの珊瑚礁に浮かび上がってきた記憶が、頭の中で再生される。
「……あ」
小さく声を上げた春花を二人が見る。
春花は口を開けたままフランツを見上げた。フランツが問いかけるようににこりとする。春花は頭の中に急に湧いて溢れ出した情報たちに圧倒されながら、言葉を押し出した。
「…このホットチョコレート、前にもいただいたんじゃないですか」
質問ではなかった。訊く必要はなかった。そう、このホットチョコレートだ。
「…初めての味で、すごくすごくおいしくて、これはなんだろう、なんなんだろう、普通の飲み物のわけがないって思って…」
「『これ、魔法のお薬?』」
フランツの言葉に春花は何度も頷いた。そうだった。そう訊いたのだ。
「ホットチョコレートだと教えたら、真剣な顔をして『ホットチョコレート』って何度も呟いていましたね。練習するみたいに。とてもかわいらしかった」
俊がくすくす笑う。
「思い出した。ルカったら、お代わりが欲しくて、でも言えなかったんですよ。向こうに帰ってから、あんなに小さいカップであんなちょっとしかもらえなかった、きっとうんと高いのね、だからお代わりくださいって言えなかった、って…」
「俊ちゃんっ」
真っ赤になって叫ぶと、フランツがおかしそうに笑った。
「小さい子にはホットチョコレートはあまりたくさんあげてはいけないと聞いていたのでね。カフェインが入っていますから。だから確かデミタスカップを使ったのじゃなかったかな」
春花は頷いた。よく覚えている。
「とっても綺麗な、つやつやした、濃いブルーのグラデーションになっているカップでした。受け皿もそのグラデーションの続きでさらに濃い、藍色みたいな深い色で…」
おままごとみたいな小さなカップだけれど、おままごと用の薄くて軽いプラスティックのカップとは全然違った。取っ手を持つとしんと冷たくて重みがあって、受け皿に置くとかちゃりと高く澄んだ硬い音がして、窓からの光をはね返して艶やかだった。深いブルーのグラデーション。そんな色のカップをそれまで見たことがなかった。うわあ綺麗、と思ったのを覚えている。お姫様になったような気がした。特別なカップ。そしてその中の魔法のような飲み物。
「よく覚えていましたね。あんなに小さかったのに」
フランツが目を細める。
「でも…」
春花は懸命に頭の中を探りながら言った。
「…他のことは覚えていないみたいです。ホットチョコレートのこと以外何も…浮かんでこない…どうしてでしょう」
「食いしん坊だからだろ」
「まだ小さかったのですから」
俊とフランツが同時に言って、三人は吹き出した。
「でも、小さかったっていっても、俊ちゃんと一年しか違わないのに」
眉間に皺を寄せる春花に、
「あのくらいの年頃で一年の差というのは大きいですからね。無理もありませんよ」
フランツが優しく言ってくれた。俊がまたくすくす笑って、
「ルカさ、向こうに帰ってから…確か次の日だったかな、おばさんにホットチョコレートが飲みたいってねだって作ってもらって、一口も飲まずに、こんなのホットチョコレートじゃない、って半べそかいたの覚えてる?」
「あっ」
記憶の底の方から、水彩でラフに描いたような場面がふうっと浮かんでくる。
「そうだった…」
色も香りも、春花の欲しかったホットチョコレートとはまるで違っていた。ピンクと茶色の混ざったような、甘い匂いのする、チューリップ模様のマグカップの中でチャプチャプ揺れる液体。あの時の混乱と失望感。
「…そしたらお父さんが」
新たに頭の中に浮かび上がってきた過去からの映像に自分で驚いて目を見開く。
「…お父さんが、ちゃんとしたのを作ってくれた。まさにそのもの、とはいかなかったけど、もっとずっとあの時のホットチョコレートに近いものを…」
同じ日ではなかった。数日後だったような気がする。お父さんが昼間にいたのだから、日曜日か何かだったのだろう。三人で遊んでいたら、お父さんがおやつだよーと呼んだ。テーブルの上に、お皿に載ったクッキーと、マグカップに入った熱々のホットチョコレートがあった。嬉しくて嬉しくて、クッキーはそっちのけで、マグカップを両手で大事に持って、ふうふうしながら夢中になって啜った。とってもおいしかった。でも、その時にこの世界のことを思い出していたかどうかは記憶にない。とにかく、わあ嬉しい!わあおいしい!と思ったことが強烈に蘇る。幸せな記憶。
はっとしてフランツを見る。
「お父さんは、父は、ここにきたことがあるんですよね?もしかして…」
フランツが、ああ残念、というように笑った。
「もう少し後で、ドラマティックにお話ししようと思っていたのですけどね。そうなんです。潤は…春花さんのお父さんは、私の友人でした。潤も私の母の作るホットチョコレートが大好きでね、母に作り方を教わっていましたよ。好きな女の子ができたら、このホットチョコレートを作ってあげれば一発で落とせる!なんて言っていました」
俊は笑い出し、春花は目を剥いた。あの真面目なおっとりしたお父さんがそんなことを言ってたなんて。いったいどんな男子だったんだ。
「あの秋の日に春花さんたちに会った時は、まさか潤の子供たちだなんて思いもしませんでした。入江という名字がそういえば潤と同じだったな、と気づいたのもずいぶん後になってからでしたしね」
「父も招待状をもらってここへ来たんですか?」
「いいえ。潤は十一歳の時に自分で来たんです。日曜日の午後三時頃でした。父の友人一家が訪ねてきていて、みんなで客間に座ってお茶を飲んだりお菓子をつまんだりしながらおしゃべりしていました。するといきなり客間のドアが開いて、ブルーのパジャマを着た男の子が入ってきたんです」
フランツは懐かしそうに微笑んだ。
「私達も驚きましたが、潤はもっとずっと驚いたでしょう。唖然として、石になったように立ち尽くしていました。トイレに起きて、また自分の部屋に戻ってきてドアを開けたら、それがうちの客間のドアだったのだそうです。私は潤より四つ年上でしたが、すぐに仲良くなりました。潤も私も本が好きだったので、それで最初から話が合ったのですよ。私の妹は潤より一つ下でしたが、潤のことが大好きでね。潤が来なくなってしまった時にはずいぶん塞ぎ込んでいました。今でもよく潤のことを話題にするんですよ」
「いつ頃来なくなってしまったんですか」
俊が訊く。
「大学を卒業して働き始めた頃でした。やはり忙しかったのでしょうね」
フランツは微笑んで小さくため息をついた。
「よくあることなのですよ。受験の時や進学、就職の時に来なくなってしまうというのは」
「来なくなる、っていうのはつまり、ここの世界のことを忘れてしまうっていうことなんですよね」
「そうですね」
「でも、ずっと、大人になってもずーっと、ここのことを忘れずにいられる人たちもいるんでしょう?」
祈るような気持ちで春花は訊いた。
「もちろんいます。ごく少数ではありますが」
「一度忘れてしまったら、もう二度と来ることはできないんですか?」
真剣な顔をして俊が訊く。
「例えば僕たちがおじさんにここの話をして、おじさんをここにもう一度連れてくるってことはできないんですか?」
「そう、お二人の話を聞いて潤がここのことを思い出せばね。そういう例がないわけではないんですよ。子供達のおかげでまたこちらに来ることができるようになった人達はいます。そう多くはないけれど」
俊と春花は目を合わせ頷き合った。やってみよう。
「あまり期待しすぎてはいけませんよ」
そんな二人を見てフランツがやんわりと忠告する。
「記憶というのは…不思議なものです。それに潤は今辛い時でしょうから」
辛い時だからこそ、昔の楽しかったことを思い出せればお父さんもきっと少し楽になれるんじゃないかな、と春花は思った。思い出させてあげたい。
しばらく学校生活のことなどを話し、ホットチョコレートとパリパリの香ばしいクロワッサンを楽しんでいると、時計がチリンチリンと優しく五回鳴った。フランツが立っていってカーテンを開ける。
「もうだいぶ明るくなってきましたから、外に出てみましょうか。お二人とも時間はまだ大丈夫ですか?」
俊が問いかけるように春花を見る。
「夕食は大抵七時頃ですけど、母が帰ってくるのが六時頃なので、その少し前には帰っている方がいいと思います」
玄関に靴はあれども姿は見えず、になってしまう。
「わかりました。ではここの庭園にでも行ってみましょうか」
外に出ると、部屋の中から見ていたよりも空はずっと明るかった。早朝というよりはもう朝という感じだ。小鳥たちの賑やかなさえずりが、噴水の水音と混じり合う。
「そういえば僕たちが前に来た時も、これくらいの時間だったんですよね。もうちょっと暗かったかな」
大使館の前庭から庭園に向かう玉砂利を敷き詰めた小道を歩きながら、俊が懐かしそうに言う。
「あの家はここから近いんですか?」
「車で十分くらいです。今は妹とその子供が…おやおや」
小道の先の方に蔦に覆われたかわいらしい東屋があり、そこに女の人と女の子がいた。赤いベースボールキャップをかぶってジーンズを履いた女の子が立ち上がってこちらに大きく手を振る。小学校の高学年くらいに見える。
「妹とその娘です。離婚して今は私と一緒にあの家に暮らしているんですよ。春花さんのことを話したら、ぜひ会いたいと言ってね。今日は時間がないかもしれないから家で待っているように言ったのですけれど…」
フランツが苦笑した。
女の子が玉砂利の音を響かせて走ってくる。ポニーテイルにした金髪が元気よく揺れて朝の光に輝く。
「来ちゃった」
女の子はフランツに悪戯っぽい笑顔を投げかけると、ちょっと表情を改めて春花を見上げ、はきはきと言った。
「初めまして、春花さん。ユマ・バルトヴィッツです。お会いできて嬉しいです。どうぞよろしく」
真っ直ぐな眼差しで見つめられて、春花は気持ちよくどきりとした。嬉しくなって自然に笑顔が浮かぶ。
「初めまして、ユマさん。こちらこそどうぞよろしく」
握手をする。にこりと笑みを交わした瞬間から、なぜだか不思議なくらい気持ちが打ち解けた。ユマがくすぐったそうに首をすくめて、鼻に皺を寄せて笑う。
「ユマでいいよ」
「私も春花でいいわ」
俊を見上げる。
「こちらは沢崎俊」
「よろしく。僕も俊でいいよ」
俊と握手したユマが、冷やかすような笑顔を二人に向ける。
「春花の恋人?」
「幼馴染」
二人の声が重なる。ユマが、えっという表情になってフランツを見上げた。
「もしかして、あの時の?」
フランツが微笑んで頷く。
「わお!すごい!」
「何がすごいんですって?」
近寄ってきた小柄な女の人がにこやかに訊く。ユマと同じ日の光のような色の髪をショートボブにしている。活動的な雰囲気がユマと似ている。
「ママ、俊はね、昔春花と春花のお兄さんと一緒にここに来たあのもう一人の男の子なんだって」
「春花さん、俊くん、こちらは妹のエルザです。エルザ、春花さんと俊くんだ」
よろしくと握手を交わした後、エルザは春花を懐かしそうな顔をしてじっと見つめるとほのぼのと微笑んだ。
「潤とよく似ているわ」
「ええっ」
春花は驚き80%抗議20%の声を上げてしまった。父親が世界一のイケメンでもない限り、十四歳の女の子が父親によく似ていると言われた時の気持ちは微妙なものである。
「…そうですか?」
フランツも頷く。
「そう、その考え深そうな目元の感じがね。私もさっきからそう思っていたんですよ。ちょっと考え込む時の仕草なんかも潤とそっくりで…。テーブルの向こうに潤が座っているような錯覚を起こしそうになりました」
ほんとに?!という思いを込めて春花が俊を見上げると、俊はうーんと唸って、
「まあそう言われれば確かに…そんな感じがしなくもないような」
となんだか俊らしくもなく曖昧なことを言った。
「ね、これからうちに来るでしょ?」
ユマがポニーテイルを揺らして言う。
「いや、今からじゃお二人が帰る時間に間に合わなくなってしまうからね。また後で…」
フランツが二人を見る。二人も頷いた。ユマが口を尖らせる。
「ちぇっ。それじゃ今日はもう会えないんだ。私、学校があるもの」
そしてちらりとエルザを見上げた。
「学校休んじゃだめ?」
「だめ」
エルザにきっぱり言われてユマは大きなため息をついたけれど、春花と目が合うと肩をすくめてちょっと笑った。
「時差が残念だけど、でも学校がない時は会えるよね」
「そうね。楽しみにしてる」
にこりとして春花がそう言うと、ユマは本当にとびきり嬉しそうな顔をした。
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