第5話

Chap.5


 えっ、そんないきなり?心の準備が。

 春花がそう思っている途中で、足元の床がなくなったような、ふっと体が浮いたような感じがして、視界がさあっと流れた。あっと思ってリオの手をぎゅっと握ってバランスを保ったところで、目に映る色彩と周囲の空気感がぱっと変わった。

 息を呑んで目を上げる。

 そこはぼんやりとした不思議な光に満たされた大きな空間だった。

 何本もの太い円柱に支えられた高い高い天井。あまりに高いので、この柔らかい明るさでは天井そのものはよく見えない。壁も見えないので、広さがどれくらいあるのかもわからない。童話に出てくる巨大なお城の大広間のようだ。

 足元は柔らかく、絨毯が敷き詰めてあるのかと思いきや、よく見るとなんとそれは草のようだった。そこここに小さな花の蕾まである。そういえば何やら空気が清々しい。植物の匂いだ。

「ようこそ」

 微笑んでリオが言う。その向こうで俊が呆けた顔をして高い天井を見上げている。

「ここ…」

 言いかけてふらついた春花をリオが支えた。

「おっと。大丈夫?ちょっと座ろうか」

 そう言って、二人を一番近くの円柱にいざなう。円柱のぐるりは円柱と同じ乳白色のソファになっていた。俊と隣り合わせに、どさんとばかりに腰を下ろす。ふんわりしていい座り心地だ。二人とも、どうしても、座ったことによってより高く感じられる天井をうわあとばかりに見上げてしまう。

 二人の無言の問いかけに答えるように、立ったままのリオが言った。

「ここは、親善大使館の大広間。メッセンジャーたちはここから向こうの世界と行き来するし、向こうからのお客さん達も大抵ここを行き来に使う。大昔はここはいつも賑やかで混雑してたそうだけどね。今はご覧の通り。まあ、早朝だからね、一日で一番閑散としてる時間帯ではあるかな」

「建物の中なの?だってこれ…」

 春花が足元の草を指さす。

「室内用の植物だよ。比較的新しい発明だから、まだ一般家庭ではあまり使われてないけどね」

「発明?誰かがこれを発明したの?」

 俊が興味深そうに訊く。

「そう。ここには魔法発明学者がいてね。彼らも他の世界から来たんだけど…魔法科学の盛んな世界からね」

 春花は目を見開いた。

「他にも世界があるの?」

「あるよ。もっとも、ここから行き来ができるのは今のところ君達の世界と、それからもう一つの世界だけだけどね。魔法発明学者たちの世界とは残念ながらまだ行き来ができないんだ。彼らが懸命にその方法を発明しようと試みているけど」

「じゃあつまり…その魔法発明学者たちは、なんでか知らないけどここに来てしまって、自分たちの世界に帰れなくなっちゃってるってこと?」

「そう。実はね、彼らは、君たちの世界に行こうとして失敗してここに来てしまったんだよ」

「そうなの?」

「どうして?」

 二人の声が重なる。

「君たちの世界からは彼らの世界に行かれる。ただし、意図してではなくね。アリスがウサギ穴に落ちるみたいにして行くんだ。ここに招待状なしで来る場合と同じだね」

 俊が目を丸くする。

「アリスの話なんて知ってるんだ」

「もちろん。君たちの世界のことはこっちの世界ではよく知られてるよ。ずっと昔から交流があるんだもの。例えばモーツァルトやバッハやモネやルノワールなんてみんな知ってるし、メッセンジャーともなれば、歌舞伎だってピカチュウだって知ってる」

 リオが澄ましてピカチュウなんて言うので、春花は笑ってしまった

「でも、魔法発明学者たちの世界からは君たちの世界に行かれない。魔法によって、客人、つまり君たちの世界から向こうに行った人たちを元の世界に送り返すことはできるけれど、彼ら自身は君たちの世界に行かれないんだ。だから昔からずっと魔法発明学者たちは、なんとか君たちの世界に行かれる魔法を発明しようと試みてきた。その実験に失敗した魔法発明学者たちの一部が、この世界にたまに流れ着くんだよ。その数も最近ではずいぶん減ったけどね…ああ、それで思い出した。ちょっとこっちへ来て」

 リオは二人を太い円柱の反対側へ連れて行った。ソファが途切れて等身大の鏡が嵌め込まれている部分がある。

「レディファースト。春花、ここに立って」

 言われるままに鏡の前に立つ。制服姿の自分が写っている。リオが鏡の脇で手を動かして何かに触れた。すると鏡からふわりとオレンジがかった柔らかい光が放たれ、ふっと消えた。なんだなんだと思っていると、鏡の足元辺りがまるでそこだけが液状になったかのようにゆらりと揺れて、中から鏡でできたような箱がすうっと出てきた。まるで鏡から分離してきたようだ。

「開けてごらん」

 箱はつるりと丸みを帯びていて、上の方の窪みに手をかけるとすいっと簡単に蓋が上がった。中にはローファー。

「スリッパじゃちょっと不便だろ。座って履き替えるといいよ。次、俊」

 リオが箱を持ち上げて手渡してくれる。鏡でできているように見えたので、ある程度の重さを期待していたけれど、受け取った箱は驚くほど軽かった。ソファに腰を下ろして箱からローファーを取り出す。薄暗いのではっきりとは見えないけれど、色は焦茶らしい。上品なデザイン。靴を履かずに来てしまったお客用の貸し靴みたいなものなのかな、それにしても新品にしか見えない…と思いつつ履いてみると、びっくりするくらいぴったりだった。まるで毎日使っている自分の靴のように履き心地がいい。

「すごい、ぴったり」

 そう言いながら立ち上がってソファ周りの敷石が敷き詰めてあるところを少し歩いてみる。

「これも、魔法発明学者たちによるもの。彼らの世界では、例えば公共のスポーツ施設なんかで使われてるものらしい。オレンジ色の光が鏡から出ただろう?あれが靴を必要としている人間の情報を収集して、その人にぴったりの靴を作り出す」

「作り出す…って、何でできてるの?これ」

 ソファに座ってスタイリッシュな黒の革靴に足を突っ込んだ俊がリオを見上げる。

「うーん、詳しいことは僕にもわからない。魔法科学のクラスは取ってなくてね」

 俊の隣に腰を下ろして、春花はくすくす笑った。

「俊ちゃんいつもはスニーカーなのにね。そんなの履くと大人みたい」

 その時、はるか向こうのほうでドアの開閉のような音がして辺りにこだました。

「リオ?戻ったのかい?」

 男の人の声が空中を滑ってくるようにして届く。

「はい、ついさっき。今行きます」

 男の人もリオも普通の声量で話しているのに、相手の姿も見えないような広い空間で普通に会話できている。不思議な音の伝わり方だ。

「行こう。春花、大丈夫?歩ける?」

「うん、もちろん」

 春花はぴょこんと石畳の上に立ち上がったが、ふと石畳の先が気になった。

「でも、このお花…」

 踏んづけて歩くのは嫌だな。可哀想。

 リオがにこりとする。

「大丈夫。僕のすぐ後ろをついてきて」

 三人で数珠繋ぎになって歩いていく。薄明かりの中、目を凝らして足元を見つめる。足が浮いているように見える。草を踏んでいる感覚はない。少したわむものの上を歩いているような、ちょっと揺れるような、そんな感じがする。

「マジか…」

 すぐ後ろで、俊が呟くのが聞こえる。すらりと高いリオの背中に向かって訊いてみる。

「これって、昨日リオがやってたみたいに浮かんでるってこと?」

「そう。僕の設定した床の上を歩いてる。だから花を踏まずにすむ。踏んだって大丈夫は大丈夫なんだけどね。踏まれてもいいように丈夫にできてるわけだから。でも、」

 と笑って春花を振り返る。

「友達を踏みたくない気持ちはよくわかるよ」

 春花はびっくりした。花を友達のように思ってるって、どうしてわかったんだろう。

 やっぱり不思議な人だ。

 少し歩くと、薄明かりの中にブルーグレイの壁が見えてきた。壁というよりは半透明のガラスのような感じがする。もしかしてこの広間の薄明かりは外からの明かりなのかもしれない、と春花はずうっと上まで続いているガラスのような壁を見上げながら思った。夜明け前のブルーグレイ。壁には窓もつなぎ目も柱も何もない。ただの巨大な一枚壁に見える。そして、よくは見えないけれど、どうも壁は左右に緩くカーブしているようだ。この広間は円形をしているらしい。

 こんな巨大な壁、しかもカーブしてる壁が、まさかガラスのわけないよね…。地震があったら大変だもの。それともこの世界では地震がないのかな。

 上の方を見ながら歩いていた春花は、歩調を緩めたリオの背中に危うくぶつかりそうになって、慌てて前方を見た。リオが一歩脇に寄る。数歩離れたところに立っている小柄な男の人が見えた。

「春花、俊、こちらは親善大使フランツ・バルトヴィッツ。大使、こちらは昨日お話しした入江春花さん。そしてこちらはその友人の沢崎俊くんです」

 リオの声は誇らしそうで、その声には「驚いたでしょう」と言いたげな笑みが含まれていた。

 大使は、薄明かりの中でもわかるほどの嬉しそうな笑顔を浮かべて歩み寄ってきた。身のこなしがスマートだ。お父さんより少し年上だろうか。少し銀髪が混じっているように見える茶色っぽい髪は綺麗に撫でつけられていて、こんな時間だというのに身体にぴったり合った仕立ての良さそうなスーツをごく自然に身につけ温かく微笑んでいるその姿は、要人という言葉を絵に描いたようだった。

「ようこそ、春花さん」

 まず春花の手を握り、ついで俊の手を握る。

「ようこそ、俊くん」

 細い金縁の眼鏡の奥の目を細め、

「向こうからのお客様を二人同時にお迎えできるなんて、滅多にないことです。こんな嬉しいことはありません。さあ、まずはこちらへ」

 分厚い木材でできたとてつもなく大きな扉を通り、壁に並ぶ古風なランプに照らされた、こちらは植物ではなく普通の絨毯を敷き詰めた広い廊下を大使について歩いていく。通されたのは気持ちのいい書斎のような居間のような広い部屋だった。暖炉には小さく火が焚かれていて、部屋はふんわりと暖かく、本棚や大きな机の上には幾つもの写真立てがある。大使の居室らしい。

 大使は二人を暖炉に近いソファに座らせると、

「どうぞ寛いでいてください。ちょっと失礼してキッチンへ…」

「大使、それは僕が」

 リオが遮ると、大使は微笑んだ。

「それくらい私がするよ。君も座って休んでいなさい。ご苦労様だったね」

「いえ、時間をいただけるなら、僕は今のうちに今回の報告書を。後で二人が向こうに帰る頃戻ってきます」

 ビシッと敬礼でもしそうな勢いでリオが言う。

「そうか、わかった。ありがとうリオ」

 大使が頷くと、リオは二人ににこりとしてみせて、

「というわけだから、また後で。春花、例の『ケータイ』持ってる?」

 春花は慌ててスカートのポケットを確かめた。

「うん、持ってる」

「じゃ、向こうに帰る時間になったら連絡して。送っていくから」

「了解」

 ありがとう、と手を振る二人に軽く手を上げ、大使に目礼すると、リオはきびきびとした足取りで部屋を出ていった。

「彼はまだ高校生ですからね。今日も学校がある。確かもうすぐ定期試験のはずです」

 大使は微笑んで二人を見た。

「メッセンジャーの試験に合格した者としては史上最年少なんですが、非常に優秀ですよ。政府でも彼の将来を楽しみにしています。さて、それでは私もちょっと失礼を。すぐに戻ってきますから」

 大使が部屋を出ていくと、二人は顔を見合わせてため息をつき、ちょっと笑った。

「…なんてこった」

「ね、ほんとだったでしょ」

「うん」

 俊は素直に頷き、辺りを見回した。

「隣の世界、か…」

 春花もつられて気持ちのいい部屋のあちこちを眺めた。

 ほとんど黒に近い色のどっしりとした大きなデスクやいくつもの本棚は、古そうだけれどよく磨き込まれていて、うっすらと花や蔓草の彫刻が施されている。壁のそこここに風景画。天井から下がる優美な形のシャンデリア。部屋の四隅には小さな低いテーブルがあり、首の長い透明な花瓶に、百合が上を向いているような形の白い花が一輪ずつ生けられている。

 さっきの大広間はともかく、このお部屋は向こうの世界とあんまり変わらないな。あのお花はちょっと変わってるけど…。

 もう一度その白い花の反り返った花びらを眺めながら、春花はリオのことを考えた。

 メッセンジャー、という呼び方のせいかもしれないけれど、もっと、例えば郵便配達のバイトとか、そういう軽い感じのものかと思っていたのに。

「メッセンジャーって、試験に合格しないとなれないのね。史上最年少だなんて、やっぱりリオってすごい人なんだ…」

 呟くと、立ち上がって本棚に歩み寄った俊が、振り返ってニヤリとする。

「なに、惚れた?」

「そうじゃなくて。純粋にすごいなあって思っただけ」

「確かに、有能を形にしたような人だと思うよ。それになんていうか…カリスマ性があるっていうかさ」

「うんうん、ほんと」

 熱心に頷きながら、春花も立ち上がって本棚のところに行った。

 カリスマ性。ぴったりの言葉だ。

 俊の隣に並ぶ。

「何見てるの」

「うん、面白い字だなって思って」

 背表紙の、少しアルファベットにも似ているような感じの文字を指さす。

「ほんとだ。全然読めない。…あ、これ読める!グリヴェールズ、トラヴェルズ。英語じゃない?」

 顔を横に傾けて一冊の古そうな本の褪せた金色のタイトルを読むと、どれ、と覗きこんだ俊がちょっと笑った。

「Gulliver's Travels。グリヴェールじゃなくてガリヴァー。ガリヴァー旅行記だよ」

「ええー、向こうの本なんじゃない」

「そうだな」

 俊はちょっと考え込むようにして、

「…そうか。そういえば、スウィフトもここにきたことがあるってことなんだよな…」

「そうよね。物語を書いたり絵を描いたり音楽作ったりする人は、みんなこの世界に来たことがあるって言ってたもの。モーツァルトもショパンも…」

 ミヒャエル・ゾーヴァも。

 大好きな画家のことを考えて心の中で頷く。

 春樹もミヒャエル・ゾーヴァが好きで、春樹の部屋にはジャガイモ達が道を渡っている絵のポスターが額に入れて掛けてある。春花の部屋に掛かっているのは大きなクマと女の子が水辺を散歩している絵だ。

 ねえハル。

 なんだかまだ信じられないけど、今隣の世界に来てるよ。俊ちゃんも一緒に。きっとミヒャエル・ゾーヴァも来たことあるんだと思う。すごいよね。

 心の中で春樹に話しかけながら、隣の本棚の前に移動して、中段辺りに飾ってあるいくつかの写真立てに目をやる。

「あ、見て見て、これ、大使さんじゃない?」

 楽しそうに笑っている若い両親と小さい男の子が映っている写真。おどけた笑顔にぼさぼさ髪の若いお父さんは、今とは随分違って見えるけれど、確かに大使らしい。

「へえ、ほんとだ。若いな」

 そう言ってから俊はちょっと眉をしかめて、

「俺、さっきから思ってたんだけどさ…、あの人、どっかで見たことあるような気がするんだよな…」

「ええー?まさか」

「んー、俳優の誰かに似てるのかな…。なんか、絶対見たことある顔って気がして…」

 言いさして俊が大きく息を呑んだので、春花は驚いて俊を見上げた。

 俊は、目をこれ以上はできないくらい大きく見開いて、棚の端の奥の方にある写真立てを凝視していた。 

 それは、少し大きめに引き伸ばした、赤や黄色や黄金色に美しく葉を染めた木々と紅葉した木々を鏡のように映した湖の写真だった。隅の方にはかわいらしい別荘風の小さな家が写っている。

「これ……ここ……この…」

 俊が写真を指さす。

「?」

 春花は顔を写真立てに近づけ、目を凝らして写真をよく見た。俊の指は家を指している。

「このお家?」

 俊は春花の問いなど聞こえていないふうで、写真を凝視し続けていたが、やがて夢を見ているような表情で大きなため息をつくと、

「……本当だったんだ…」

 とつぶやいた。

 一体全体なんのことなのかと春花が訊こうとした時、かちゃかちゃという軽い音が近づいてきて、部屋のドアが開き、銀色の小さなカートを押した大使が入ってきた。

「やあ、お待たせしました」

 カートの上にはカップやお皿や銀色のポット、クロワッサンのように見えるパンを盛ったバスケットなどがのっていて、香ばしいパンの匂いとホットチョコレートの濃厚な香りが二人のところまでふわりと届いた。

 うわあ、おいしそう!と思って、同意を求めようと俊を見上げると、俊は食い入るように大使の顔を見つめていた。

「朝食にはまだ少し早いですし、お二人は夕食の前でしょうから、軽いおやつ程度のものを用意しました。さあ、どうぞこちらに座って…」

「あの、大使さん」

 見たこともないような真剣な顔をして、俊が大使を遮った。大使はちょっと驚いたようににこりとして、

「どうぞ、フランツと呼んでください」

「フランツ、あの…、変なことを言うと思われるでしょうけど…、俺、いや、僕、前にあなたにお会いしたことがあると思うんです」

 春花はびっくりして目を丸くし、フランツは微笑んだまま、促すように微かに眉を上げた。俊は興奮を抑えるように、慎重な口調で続けた。

「うんと小さい時です。幼稚園の頃でした。友達と…」

 春花をちらりと見て、

「春花と、春花の兄の春樹と、僕とで、夕方、近所の公園で遊んでいました。雑木林を公園にしたようなところで、その時は秋だったので、三人で落ち葉の上にしゃがんでどんぐりを拾っていました。夢中になって拾っているうちに、急に光と空気が変わったような変な感じがして驚いて顔を上げたら、そこは公園じゃなくなっていて…。確かに足元に落ち葉はあるし、あたりの木々も紅葉していたけど、でも全然違う種類の木で…。そして近くに湖が見えました」

 春花は目を見張った。一体何の話だ。

「すごくびっくりしたけど、でも小さかったから、魔法だとか冒険だとか言いあって三人で喜んで…。それでその辺を探検していたら、まるで絵本に出てくるような石造りの小さな家が見えました。ちゃんと煙突もあって…。悪い人が住んでいるような家には見えなかったから、行ってみようってことになって、ちょっとドキドキしながらそうっと近づいていったら、家の前のベンチに男の人が座っていました」

 フランツが柔らかく目を細めた。

「そう。落ち葉を踏む音がして、振り返ったら、三人の小さな子供達が木々の間から現れたところでした。二人の男の子と一人の女の子。男の子のうちの一人が、とても礼儀正しく、すみません、僕たち迷子なんです、ここはどこですか?と訊きました」

「……」

 俊は一瞬言葉を失ってなんともいえない表情をしたが、大きく息をついて心から嬉しそうな顔をした。

「…やっぱり夢じゃなかったんですね」

「よく覚えていましたね」

 フランツも嬉しそうだ。

「非常に珍しいことなんですよ。小さい頃ここにきた人が、数年経ってもまだその時のことを覚えているなんて」

「ずっと覚えていたっていうわけじゃないんです。さっきあの写真を見るまでは、忘れていました。いや、忘れていたっていうことも忘れていたっていうか…。でも今、色々…記憶が戻ってきました。あの後、しばらくはハルともルカともあの時のことをよく話してたんです。次の日、もう一回行かれないかと、三人で同じ公園の同じ場所に戻ってしゃがんでみたり、色々試してみました。でもだめだった。それでなんとなく諦めムードになって、前のように他のことをして遊ぶようになって…。で、数日後、あの日の話をしたら、二人とも不思議そうな顔して僕を見て、何のことだかわからない、って…」

 呆然としている春花を俊がちらりと見た。

 春花は小さく首を振るのがやっとだった。今だって、何のことだかさっぱりわからない。俊がそんな話をしたことすら覚えていない。

 俊はそんな春花を見て小さく笑うと話を続けた。

「年下の春花はともかく、春樹が覚えてないっていうのが信じられなくて…。覚えてないってどういうことだ、なんで嘘つくんだ、って喧嘩になりました。それでも春樹は頑として『覚えてない』って言い続けました。そんなところに行ったことはないし、そんなごっこ遊びをした覚えもないから、それは僕が見た夢だったに違いない、ってきっぱり言われて、それで僕もなんだか自信がなくなってしまって…。そのうちだんだんあの出来事の記憶が薄れてきて、ぼんやりとしたものになっていって、そして何も思い出さなくなりました。でも、あの家が」

 と、写真を振り返って、

「たまに夢に出てきました。夢だけじゃなくて、たまにふと頭に浮かんだりすることもあって、その度に、これは一体なんだろう、どこなんだろう、どこで見た風景なんだろう、って思っていました。絵本だったのか、それともテレビか映画だったのか…って。やっとわかった…」

 俊は幸せそうにもう一度大きなため息をつくと、またフランツのほうに向き直った。

「暖炉を見せていただいたの、覚えています。煙突を下から覗かせてもらって、サンタクロースはこんなところを降りてくるのか…って思って」

 フランツが楽しそうに笑って春花を見た。

「春花さんが、歌を歌ってくれたんですよ。サンタクロースが煙突を覗いていて落っこちる歌を」

 春花は真っ赤になった。今でも歌はそう得意じゃないけれど、小さい頃のビデオを見るととにかくものすごい音痴でひどいのだ。しかも自分ではそんなことに気がついていなかったのだろう、歌いたがりで踊りたがりで、入江家には春花のそんな映像が山ほどある。

「そうそう。最初から最後まで、踊りつきで」

 笑いながら俊が言って、春花はがっくりうなだれた。やっぱり踊ったんだ。

 すると、追い討ちをかけるように春花のお腹がぎゅぎゅーっと鳴って、静かな部屋に響き渡った。これ以上なれないくらい赤くなって、正直すぎるお腹を慌てて押さえる。いくら大好きなホットチョコレートの匂いがしてるからって…。ちゃんと給食も食べたのになんで?

 俊がからかうように 

「おやまあ」

 と言い、フランツはにっこりして

「さあ、食べましょう。私もお腹が空いてるんですよ。昨夜は用事があって、ほんの軽い夕食しか取れなかったものですから」

 と言ってくれた。



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