第4話

Chap.4


 「バルトヴィッツ…」

 招待状を読み終えた俊が眉をしかめて宙を見上げた。柔らかい春の曇り空。

「なんかどっかで聞いたような名前だな」

「ね。ドイツとかそういう感じ。フランツっていうのもそうじゃない?」

「だな。そのメッセンジャーの名前はよくわかんないけど」

「リオ、ね…。リオデジャネイロのリオ?じゃあブラジル?」

「ポルトガル語、なのかな。それともスペイン語とか」

「でも、隣の世界だもの。ドイツとかブラジルとかポルトガルとかスペインってわけじゃないじゃない?」

「そりゃそうだな」

 そう言ってから、俊はうーんと唸って長い腕を伸ばし、片目をつぶって、開いたままの招待状を睨んだ。最近老眼がひどいと嘆いているお母さんが集合写真で春樹や春花を探そうとする時のようだ。思わず周囲を見回す。かなり離れたところにちらほらと人影があるだけでほっとする。

「…何してるの」

「いや…普通の紙だなあと思ってさ。インクはなんかちょっと変わってるけど。こんなふうに綺麗に銀色が出るペンって見たことない気がする」

「そうね」

 我慢できずに促す。

「…で?」

「え?」

「信じてくれるでしょ?」

「んー…そうだなあ」

 俊は左手に持っている封筒と、右手に持っているカードを交互に眺め、考え深げに言った。

「ルカが書いたんじゃないことは信じるよ」

 そしてニヤリと笑って付け加える。

「字がきれいすぎる」

 失礼な。

「俊ちゃんの字だって大してきれいじゃないじゃない。鍋がやかんのことを黒いって言うやつよね」

「俺が鍋?やかんの方がいいな」

「どっちだっていいよ。で?一緒に行くでしょ?」

「そりゃ、行ったっていいけどさ…」

 もう一度招待状を眺めてから、生真面目な顔で春花を見下ろす。

「まだちょっと信じきれないっていうのが、正直なところかな」

 春花も生真面目にこっくり頷いた。

「うん、それはわかる。私だってまだちょっと…」

 ふっと昨日のことはもしかして夢だったんじゃないかいう考えが頭をよぎって、その度にスカートのポケットにそっと触ってみる、ということを今日何度かしている。

 今また、スカートの上からポケットを触ってみてから、俊にまだガラス玉を見せていないことに気がついた。

「あ、これ。見てみる?」

 念のためまた辺りをさっと見渡してから、ハンカチを取り出し、注意深く俊に手渡す。

「気をつけて。落とさないでね」

 ハンカチを受け取った俊がちょっとからかうように笑う。

「相変わらず花模様だな。ピンクだしさ」

 小さい頃から、まあ名前ゆえにだったのだろうけれど、春花の持ち物は花模様が多い。そしてピンクが圧倒的に多い。

 三人で夏休みのスイミングスクールに行った帰り、ピンクのスイミングバッグとクリーム色にピンクの花の散っているタオルを肩にかけた春花を眺めて、俊が言った。

「ルカっていっつもピンクとか花模様ばっか。よく飽きないね」

 確か春樹と俊が六年生で春花が五年生の時だった。

「だってお花が好きなんだもん。ピンクが一番好きだし」

「俺だってチョコレートケーキが一番好きだけど、そればっかだと飽きるよ。だからショートケーキもチーズケーキも食べる」

「私だってピンクじゃないのも持ってるもん」

「でもほとんど全部ピンクだし、他もそういうパステルカラーばっかだろ。もっと、たとえばグレイとか黒とか、カッコいい、オトナっぽい色をさ…」

 そこで、いつもは二人の小競り合いをにこにこして聞いている春樹が、珍しくちょっと眉をしかめて口を出した。

「いいじゃない、別に。ルカにはピンクと花模様が一番よく似合ってるんだから」

 俊も負けずにやり返す。

「他の色のもの使わないのに、ピンクと花模様が似合うなんてわかんないだろ」

 しかめっ面をして睨み合っている二人の間で、春花は逆に笑い出した。どうしてだかさっぱりわからないけれど、二人がピンクとか花模様とかいう言葉を真剣な顔で唇を尖らせて口に出しているのがものすごくおかしかったのだ。

「…何笑ってんの」

 訝しげな顔をして春樹が言うのがますますおかしくて、春花は笑い転げながら息も絶え絶えに、

「…だって……ピンク……花模様……」

 と言うのがやっとだった。

 笑いやめられない春花を呆れ顔で見て、

「こういうのをさ、箸が転がってもおかしい、っていうんだろ」

「だね。でもなんで箸なんだろう」

「フォークだと転がらないから」

「そういうんじゃなくてもさ、転がるものだったら、たとえばボールだっていいはずじゃない」

「日本の昔の諺なんだから、ボールは変だろ」

「じゃあ玉?玉転がし。『玉が転がってもおかしい』」

「鞠じゃないの。山寺の和尚が欲しかったやつ」

 などと真面目に話している二人がますますおかしくて、春花はしばらく二人の後をついていきながら一人で笑っていたのだった。

「…すごい。綺麗」

 俊はハンカチの中の深い緑色のガラス玉を目を細めて眺めた。

「触ってもいいの?これ」

「もちろん」

 注意深く指で摘んで、曇った空に向かってかざす。

「…綺麗だな…すごい色…。何でできてるんだろう…」

「さあ…」

 そんなこと考えもしなかったけれど、確かに言われてみるとただのガラス玉には見えない。

「で?これに向かって話すと、そのリオって人に通じるの?」

「そう」

 生真面目に頷く春花に、俊は半信半疑の笑顔を見せて、

「…話してみていい?」

「もうすぐ会えるんだから何も今話さなくてもいいでしょ」

 ほーらやっぱり、という顔をしてみせた俊に、生真面目な顔を崩さず重々しく言い渡す。

「向こうは今、夜中なのよ。必要もないのに呼んだりしたら悪いじゃない」

「ああ、そうか。なるほどね」

 俊は軽く肩をすくめた。

「…俊ちゃん、これでもまだ信じてくれないんだ」

「完全にはまだ。でも、そうだな、半分よりちょっと、60%くらいは信じてるよ。少しワクワクしてきてる。もし本当に本当だったらすごいじゃん!って」

 春花はうふふと笑って

「本当に本当なのよ」

 柔らかい真珠色の空を見上げた。

 そう。本当に本当なんだよね、ハル。


 玄関のドアを開け、自分のスリッパ——桃色と桜色のストライプ——を履くと、春花は来客用のスリッパの中から俊が好きな淡い空色のを選んで俊の前に置いた。

「さんきゅ」

 つぶやいた俊の顔をふと見上げると、俊の目は涙で潤んでいた。慌てて目を逸らせて、今度は春樹のスリッパをそっと手に取り、玄関マットの上に置く。

 上の方で俊がくすんと鼻を鳴らした。

 俊の気持ちが痛いほどよくわかった。

 ハルがいない。

 いるはずのハルがいない。

 急いでスカートのポケットから緑色の玉を取り出し、春花は躊躇なく話しかけていた。

「リオ?聞こえる?」

 視界の隅で、俊がはっとしたようにこちらを見たのがわかった。

 すぐに応答があった。

「聞こえるよ、春花」

 きびきびとした明るい声。

 春花はにこりとして俊を見上げた。俊はうっすらと縁を赤くした目を見開いて、信じられないというように春花の手の中の美しい緑色の玉を凝視している。

「そろそろ行こうと思ってたんだ。何か質問?」

「ううん、あのね、招待状見える人がいたの。今一緒に家にいるんだけど」

 リオが息を呑むのが聞こえた。

「ほんとに?それはすごい!すぐ行くよ!」

 春花は急いで階段に向かいながら、振り向いて元気よく俊に声をかけた。

「行こう!」

「…マジかよ」

 呆然としたような俊の声を背後に聞きながら、春花は小走りに階段を上った。春樹の部屋のドアを軽くノックしてから開け、中に入る。後ろからついてきた俊の足はしかし、ためらうようにドアのところで止まった。

「……」

 春花が机のところから振り返ると、俊はドア枠に手をかけてどこかが痛むような顔をして唇をぎゅっと結んでいた。

 春花は俊の胸の痛みが自分のことのようによくわかった。春樹がいなくなって初めてこの部屋に入ったときの、心がねじ切られるような辛さが蘇る。 

 春樹が戻ってこない春樹の部屋。

 その時、

「やあ春花」

 すぐ隣でリオの声がして、春花は飛び上がった。

「リオ!ああびっくりした…」

「ごめんごめん。いきなり姿を表したらやっぱりよくないんじゃないかと思って…彼もいることだし」

 そう言われて俊の方を見ると、俊は驚愕の表情でリオの声のする方を凝視していた。

「こちらは沢崎俊」

 リオがボーイフレンドだのなんだのと言いださないうちにと、春花は急いで俊を紹介した。

「ハルと私の幼馴染で、私と同じ十四歳。学年はひとつ上だけど」

 俊の誕生日は五月だ。

「彼も十四歳なのに招待状が見えるのか…」

 リオが呟いた。

「ひょっとすると…、あ、いや、姿も見せずに失礼」

 そう言って、リオが春花の隣に姿を現した。呆気に取られて立ち尽くしている俊に近寄ってにこりとして手を差し出す。

「僕はリオ。はじめまして、俊」

「…はじめまして」

 握手。

「十四歳にしちゃ背が高いね」

 二人の背の高さは同じくらいだ。

「俊ちゃんバレー部だったの」

 春花が言うと、リオが目を丸くした。

「バレエ?へえ、ちょっと意外な感じだな」

「そう?」

 春花は改めて俊を眺めた。俊ちゃんて、いかにもバレー部って感じだと思うんだけどな。

「どこが意外?」

「うーん、なんていうか…」

 リオが顎に指を当てて俊を頭の天辺から爪先までじろじろ見る。リオと春花にじっと見つめられて、俊はちょっとドギマギした顔をした。

「ダンスやってる男子って——僕の友達にも何人かいるけどね——立ち方とか姿勢がもうちょっとこう、いつも気取ってるというか、雰囲気がね…」

「いや、そっちじゃなくてバレーボール」

 吹き出した春花に代わって、苦笑いした俊が説明する。

「ああ、バレーボールね。なるほど、それならわかるな」

「…俊ちゃんが……バレエ……」

 笑いこけている春花をリオは楽しそうに、俊は呆れた顔で眺める。

「こいつ、笑い上戸だから」

「そうみたいだね。でもよかったよ、笑い顔が見られて。君も…辛いだろうね」

 思いやり深く言われて俊の表情が揺れた。

「うん…まあ…」

 リオは年上らしく俊の肩をきゅっと片腕ハグし、

「僕にできることがあったらなんでも言って」

 と、この上なく誠実な口調で言った。

「…ありがとう」

 俊が柔らかく微笑んだのを見て、咳き込みながら——こんなふうに笑ったのは久しぶりだったので、喉が苦しくなってしまったのだ——春花はなんだか胸の奥がじんとした。俊の和らいだ気持ちが感じられて嬉しかった。

 リオはいい人だな、と心から思う。不思議な人だ。こちらの辛い、棘のいっぱい突き出た思いを、その棘をものともせず、手を伸ばしてそっと包み込み、自分の中にすうっと取りこんでくれるような。隣の世界の人たちはみんなこうなのかな。それともこれもリオがメッセンジャーに選ばれるような人だからなのだろうか。

「さて、と。それじゃ二人とも隣に行ってみたいんだね?」

 リオの言葉に俊も春花も頷いた。

「了解。そうすると次は時間の相談だけど、今すぐ行ってみたい?それとも夜の方がいい?もちろん、今行ってみて、それから今夜、つまり向こうの日中にもまた行ってみることもできるよ」

 春花は目を丸くした。

「何度も行かれるの?」

 どうしてかはわからないけれど、なぜか一度きりのことだと思っていた。

「もちろん」

「どうする?」

 俊を見上げる。俊が壁の時計にちらりと目をやってリオを見る。

「今行ったら、向こうは朝の四時半なんでしょ?」 

「そう。だからまあ確かに、昼間に行くほど面白くはないけどね。でも、とにかく隣の世界なんてものが本当に存在するのか早く確かめたい!夜中だろうが早朝だろうが今すぐ行ってみたい!っていう子達もいるよ」

 春花はうんうんと頷いた。

「私も今すぐ行ってみたい」

 俊がうーんと唸る。

「でも今行ったら長くは居られないだろ。夕飯には戻らなきゃいけない。それなら夜まで待って何時間も楽しむ方がよくない?」

「それより今ちょっと行ってみて、夜にも何時間も楽しむ方がいいじゃない?」

 行ってみたい!という思いを込めて俊の顔を見上げる。俊が軽く眉を寄せる。

「宿題とか予習とかないのか?」

 リオがくすくす笑う。

「まるで、お母さんみたいだなあ」

 「まるで」と「お母さん」の間に一瞬の間があって、本当はリオは「お兄さんみたい」と言おうとしたんじゃないかと春花は思った。

 事実、中学になったばかりの頃は春樹にもよく言われていた。

 ルカ、ちゃんと宿題やったの?予習は?

 もう小学生じゃないんだから、ちゃんと勉強しなきゃだめだよ。

 お母さんが笑って、ハルちゃんのおかげでうるさいこと言わなくてすんで助かっちゃうわ、と言っていた。

「後でちゃんとやるから」

 思い出の中の声に答えるように弾みをつけて言う。俊がしょうがないなあというように笑う。

 春樹がしたように。

「じゃ、行こう」

「よし、決まりだね」

 リオは春花に左手、俊に右手を差し出した。

「初めてだからちょっとくらっとするかもしれない。つかまってて。行くよ」



 

  

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