第3話
Chap.3
次の日の放課後。清掃の行われている騒がしい校内を通り抜け、春花は三年生の教室の並ぶ二階の廊下へ足を運んだ。俯いたまま、交互に踏み出される自分の上履きと廊下を見つめて歩を進める。どきどきする。三年生たちの視線が刺さるような気がする。
春花のことを知っている三年生はたくさんいる。昨年、まだ彼らが二年生だった頃、春樹に用があって春樹の教室まで行ったことも何度もあったし、春樹の友人たちを始めとして「春花ちゃん」と親しげに呼んでくれる先輩も何人もいた。ただ、春花のほうは彼らのことをぼんやりとしか認識しておらず、誰が誰だか名前もあまり覚えていなかった。春花にとって大事なのは春樹だけだったから、他は背景に過ぎなかったのだ。
相手が自分のことを知っていて話しかけてくるのに、こちらは相手が誰だかよくわからないというのは、なんともバツが悪い。名前も覚えていないなんてわかったら、相手だって気を悪くするだろう。誰にも話しかけられませんように、呼び止められませんように、と思いながら目を伏せたまま足速に歩く。
しかし、そういう時に限って誰かに呼び止められてしまうのは、現実だろうが物語の中だろうが一緒だ。
「あ、春花ちゃーん」
少し鼻にかかった甘い声。ふわふわした栗色の髪を肩先で揺らして一人の三年生が近づいてきた。顔はなんとなく覚えているけれど、名前はさっぱりわからない。春花は緊張しながらペコリと頭を下げた。
「こんにちは」
「久しぶりだねー。どう?元気ー?」
眉を八の字にして同情いっぱいの表情を浮かべながら、相手は春花の顔を覗き込む。
「…はい。なんとか」
「そっかー。…私にできることあったらさ、なんでも言ってね」
名前も覚えていない人の優しい言葉に胸がキュッとなって、春花は自分で自分に驚いた。慌てて目を瞬かせて涙を押し戻す。
「ありがとうございます」
もう一度ペコリと頭を下げて顔を上げると、ちょうど彼女の後ろを通り過ぎようとしていた背の高い男子生徒が目に入った。
「あっ、俊ちゃん!」
思わず大きな声で呼びかけてしまい、ふわふわ髪の先輩がびっくりしたように目を丸くして後ろを振り返る。
「…いえ、沢崎先輩」
慌てて言い直して、春花は学級日誌を持って立ち止まった沢崎俊に向かって軽く頭を下げた。
「…お」
俊はちょっと頷いてみせて、
「何?」
「あの、ちょっと…訊きたいことがあるんですけど…その、部活のことで」
「いいよ。じゃ、これ付き合って」
俊は手にした学級日誌を示して歩き出す。職員室へ行くのだろう。春花は「失礼します」とふわふわ髪の先輩に会釈をして、慌てて俊の後を追った。
俊はすたすたと職員室の方へ向かって歩きながら、追いついてきた春花をちらりと見下ろした。
「何、訊きたいことって」
「うん、いや、はい、あのですね…」
俊がくすっと笑う。
「いいよ、敬語使わなくて」
俊は春樹と春花の幼馴染だ。小学校の半ばくらいまでは家が隣同士だったこともあり、毎日兄弟妹のようにして遊んだ。俊の家族が少し離れた新興住宅地に引っ越した後も、俊は自転車に乗ってほぼ毎日やってきた。三人で探検ごっこもしたし、秘密基地も作った。宝物も埋めたし、タイムカプセルも埋めた。小さい時はごくごくたまにではあったけれどお姫様ごっこもして、少し茶色っぽくてウェーブのかかった俊の髪を見て、春花は「ハルは日本の王子様で、俊ちゃんは外国の王子様」と思っていた。
もちろん喧嘩もした。春花が家族以外の人は自分をルカと呼ぶことならんと頑固に言い張り、無論俊はわざと執拗にルカと呼んでからかい続け、そのうち春樹をルキ、春花をハルと呼び出したりしたものだから、ついに本人たちまで混乱し、入江家の食卓でも呼び名がごっちゃになってしまったこともあった。
春樹と俊が中学生になってからは、三人一緒に遊ぶ回数がぐっと減った。それでも会えば、前と同じように「俊ちゃん」「ルカ」と呼び合っていたけれど、春花が二人と同じ中学に入ってからは、学校で春樹がいないところで顔を合わせるときは、なんとはなしに「沢崎先輩」「入江」ということになっていた。
俊は昨年度まで春樹と同じ男子バレー部だったのだが、今年度から演劇部員になった。今年度最初の部活の時に新しい部員として紹介された俊を見て、春花は少なからず驚き、悲しみでぼんやりとした頭の隅で、もしかして私のことが心配で移ってきてくれたのかな、とちらりと思ったが、そのことを改めて考えてみる余裕のないまま現在に至っていた。そういえば、春樹が逝ってしまってから俊と二人だけで話すのはこれが初めてだ。
「で?」
促されて、春花はブレザーのポケットから淡い水色の招待状をそっとつまみだして、さりげなくネクタイの結び目のあたりにそれを掲げた。招待状が見えない人には、春花がネクタイの結び目をちょっと直そうとしているように見えるはずだ。
春花が何も言わないので、俊が怪訝な顔をして春花を見る。
「どした?」
「うん…あのね」
見えないのかな…。
俊ちゃんなら見えるんじゃないかと思ったのに。俯いて落胆のため息をつきかけた時、
「何それ」
俊の言葉にはっと顔を上げた。俊の目は、真っ直ぐに招待状を見ている。
春花の心は一気に跳ね上がった。
「見える?」
招待状を振ってみせる。俊が変な顔をする。
「見えるに決まってんだろ」
嬉しい。春花は心からそう思った。
そんな感情は久しぶりだからなのか、その心地いい心の揺れがじいんと胸の奥に染み渡るような感じがして、少しの間頭も身体も痺れたようになった。
ハル、やっぱり俊ちゃんにも見えたよ!
「なんなの、それ」
興味深そうに招待状を見る俊に、春花は黙って招待状を差し出しながらもう片方の手を差し出す。
「持っててあげる。開けてみて」
学級日誌を受け取って、招待状を渡す。封筒に書かれた宛名を見て、俊の表情が揺れた。
「…ハルに来た手紙?」
その様子を見て、春花は慌てて言った。
「あ、あのね、それそんなにじっと見ないで」
「え?」
「それね、大抵の人には見えないの。他の人に見えないもの手に持ってそんなふうに見つめてたら変に思われるでしょ」
「そりゃそうだ」
俊は素直に手を下ろしてさりげなく辺りを見回し、それから「む?」という顔になって、
「…大抵の人に見えない?なんで?どういう意味?」
「後で」
職員室の近くまで来ていたので、春花はそう言って俊に目くばせしてみせた。ちょうど職員室から出てきた三年生男子がこっちを向いたところだった。
俊は招待状をスッとブレザーのポケットに入れた。
「お、沢崎」
「おう」
俊に笑顔を見せた三年男子は、春花を見て「あ」と言って神妙な顔になり、こくりと頷いてみせた。なんとなく見覚えのある顔だ。春花も会釈する。
「日直?」
「そ。ああ、こないだの
「あ、観てくれる?助かるわ。後で送る」
「おっけ」
「うち帰ったらすぐ送るから。んじゃ」
「おう」
男子生徒は、俊に片手を上げ、一瞬何か言いたげに春花を見たけれど、やはりもう一度こくりと頷いただけで去っていった。慌てて会釈しながら、
「あの人誰だっけ」
と言いかけた春花を俊が遮った。
「で?この手紙なんなの?」
ポケットから招待状を半分くらい引っ張り出す。
周りに人はいない。春花はおもむろに口を開いた。
「隣の世界からの招待状」
「……」
「だから見える人と見えない人がいるの。ほとんどの人には見えないんだって」
「……」
俊がなんとも言えない表情で春花を見下ろしている。笑おうか、心配しようか、呆気に取られようか、どうしようか、という顔だ。
「ルカ…」
「これ出してきて。待ってるから」
「…わかった」
俊はもう一度少し不安そうに春花を眺めてから、招待状をまたポケットに戻し、春花から学級日誌を受け取って、何か言おうと口を開け、しかし何も言わずにちょっと首を振り、踵を返して職員室に入っていった。
あれは絶対に私の頭がおかしくなったと思ってるな。
春花は心の中で苦笑した。
無理もないよね。昨日初めてリオの声が聞こえた時は、私だって頭がどうかなっちゃったんだと思ったもの。
スカートのポケットを上からそっと押さえる。そこには昨日リオに渡された「ケータイ」が、白い雛菊を散らした淡い朱鷺色のハンカチにくるまれて入っている。俊ちゃんがどうしても信じてくれなかったら、リオに「電話」をかけよう。俊ちゃん、どんな顔するかな。
こんな気持ちは久しぶりだ、と頬が微かに緩むのを感じながら、春花はそっと息をついた。
わくわくする。ねえハル、わくわくするよ。
ハルの代わりに、俊ちゃんと二人でちゃんと隣の世界を見てくるから。お父さんの昔のお友達っていう人にも会って、お父さんの子供だった頃の話を聞かせてもらうから。ハルが質問しそうなこと、ちゃんと私が訊いてくるからね。
ほどなくして、俊が戻ってきた。
「失礼します」
と戸口で会釈をしてから、問いかけるように春花を見る。
「今時間ある?」
春花が言うと、戸惑ったような、訝しげな顔をして、
「これから部活だろ」
「えっ」
言われて初めて思い出した。今日は演劇部の活動の日だ。すっかり忘れていたことに、春花は自分で驚いた。部活があることを忘れるなんて。初めての経験だ。
「…そうか…忘れてた。困ったな」
顎に指をあてる春花を、俊は心配そうに見やった。
「ルカ…大丈夫か。ちゃんと眠れてんのか」
それを遮るように、春花は俊を見上げて手を合わせた。
「あのね、一緒に部活休んでうちに来てほしいの。お願い」
「え」
昨日と同じくらいの時間に来る、とリオは言っていた。部活に出ていたら到底間に合わない。
「大事なことなの」
「いいよ」
俊はあっさり言うと、ちょっと笑った。
「久しぶりだな。ルカの『お願い』」
「そう?…っていうか、私『お願い』なんてしたことあった?」
首を傾げると、俊が呆れた顔をする。
「よくしてただろ。『一生のお願い!』ってさ。いったいいくつ一生があるんだか」
春花は赤面した。そういえばよく言っていたような気がする。音が耳に馴染んでいる。
「…スミマセン」
「いいって。さて、っと。演劇部のことはルカの方がよく知ってるだろ。こういう時はどうすんの?」
「うちはそんなに厳しくないから…。でも一応佐藤先輩か一ノ瀬先輩に話せればそのほうがいいかな」
「佐藤なら教室で掃除してる。行こう」
歩き出しながら、俊は春花を見下ろして、また少し心配そうな顔をした。
「ちゃんと眠れてんの」
「うん、まあ。最初は…ちょっと大変だったんだけど」
「知ってる。おばさんから聞いた」
「そう」
物心ついて以来の家族ぐるみの付き合いだから、俊が知っていてもそう驚かない。ただ、やはりちょっと気恥ずかしい気がした。お母さん、どれくらい詳しく話したんだろう。
「あの最初の頃よりはね、だいぶよくなった」
俊が少し眉を寄せた。
「にしては、ずいぶん疲れて見えるけど」
春花は驚いた。なかなか鋭いなあ。
「うん…夜中によく目が覚めちゃって、その後なかなか眠れないの。でも、全然眠れてないっていうわけじゃない。だって朝目覚ましのアラームで目が覚めるんだもの。っていうことは、眠ってたってことだもんね。だから大丈夫」
「そうか、ならいいけど…」
少しためらうように間をおいてから、俊がブレザーのポケットに手を入れる。
「でも、じゃあこの…招待状ってやつはさ…」
言い淀んでいる俊に
「私の頭がおかしくなったんだと思ってるでしょ」
ズバリと聞くと、俊は複雑な表情をして、でもはっきりと言った。
「いや、おかしくなったっていうのとはちょっと違うけど、一人でごっこ遊びしてるんだと思ってる。で、そんなことするってことは、…なんていうか、まだおかしくなってはないけど、ちょっとやばいんじゃないかなって」
うふふと笑う。俊ちゃんは昔からこうだ。真っ直ぐで、嘘をつくのが嫌いで、言いにくいこともはっきり言う。「本当のことを言うのが一番いいんだ」というのが小さい頃からの口癖で、それはどうもお父さんの受け売りらしかった。
「ほんとに正直爺さんなんだからなあ、俊は。枯木に花が咲いちゃうよ」
ハルがよくそう言っていたっけ。
招待状開けてみて、と言いたいところだったけれど、三年生の教室のあるエリアに来ていた。周りにたくさん人がいる。学校を出るまで待つほうがいいだろう。
「佐藤」
教室の入り口辺りを箒ではいていた、ショートカットに細い銀縁の眼鏡をかけた、背の低い小太りの女子生徒に俊が声をかける。佐藤
「何?」
「俺と入江、今日部活休むから。悪い」
真夜と目が合って、春花は慌てて会釈した。真夜は春花に微笑して頷いてみせてから、訝しげな顔をして俊を見る。
「二人一緒に休むの?」
「うん、ちょっと入江のお母さんに呼ばれて」
俊がさらりと嘘をついたので、春花は内心驚いて目を丸くした。俊ちゃん、嘘もつけるんだ。
真夜の顔に納得と同情の表情が浮かぶ。
「…ああ、そうなんだ」
春花を見る。
「わかった。みんなにも言っておくから」
「すみません」
「いいよいいよ。…無理しないでね」
「ありがとうございます」
「ちょっと待ってて。鞄とってくる」
俊が自分の席へ向かうと、真夜が春花に同情の微笑を向け、しんみりとした口調で言った。
「沢崎と仲よかったもんね、お兄さん」
春花は小さく息をのんだ。春樹のことを過去形で言われると、まだ胸の横がぞくりと大きく波打つ時がある。なんとか
「…はい。幼馴染なんです」
「あ、そうなんだ。じゃ、入江さんも小さい時一緒に遊んだりした?」
「はい」
「そっか。お兄さんが二人いるみたいな感じだったんだね」
「そうですね」
そこへ黒いリュックを片方の肩にかけた俊が戻ってきた。
「行こう」
そう言ってそのまますたすた行ってしまう。春花は慌てて真夜に頭を下げ、
「それじゃ」
「うん、じゃあね」
小走りで追いつくと、俊は唇を引き結んで、きつい顔をしていた。目の縁がうっすら赤い。
「…どうしたの」
「ああやって、ハルのこと…過去形で言われると、すげえ腹立つんだ」
ずんずん歩きながら俊は低い声で言った。
「みんなして…もうハルがいないのが当然みたいに…っ」
語尾が震えて、俊は息を詰まらせたかのように言葉を切った。
春花は俊の顔を見ないように俯いて歩調を合わせながら、胸がいっぱいになった。
「…わかるよ。私もおんなじ気持ち」
俯いたままやっとのことでそう言うと、俊がこっちを見たのが分かった。歩調が少し緩くなる。
「俊ちゃんが言ったこと、すごくよくわかる」
泣き声にならないように、喉につかえそうな塊をコントロールしながらゆっくり言う。
「ハルがいないのは…ちっとも当然じゃないのに…ハルがいないのは…間違ってるのに…いないのはおかしいのに…みんなハルがいないのは当たり前みたいにして…仕方ないよねって感じで…。全然仕方なくなんかないのに…」
「わかるよ」
今度は俊がそう言った。
「すっげえよくわかる、その気持ち」
低い、思いのこもった声で繰り返して、大きく息をつく。
二人はしばらく黙って歩いた。
思い切り泣きたいような、でもずっと胸につかえていたゴツゴツと痛い何かの角が少し丸くなって楽になったような気がして、春花はそっと震える息を吐いた。
全く出口のない真っ暗な洞窟の中で、なす術もなくうずくまっていたところに、細い側道からうっすらと光がさしているのを見つけたような、空っぽだと思っていたポケットに小さな懐中電灯があるのを見つけたような、そんな感じがした。
俊ちゃんがいたんだった。
俊ちゃんも、おんなじなんだ。
俊ちゃんもハルが大好きで、すごくすごく辛いんだ…。
お父さんやお母さんには、自分がどんな気持ちがしているか言葉で表現してみようなんて気にはならなかった。お父さんやお母さんも、春花に自分たちがどんなふうに感じているか話したりしない。共に涙を流すことはあっても、言葉を使って気持ちを話し合ったりしたことはなかった。
今、俊と同じ気持ちを言葉にして分かち合えたことで、春花の中で確実に何かが変わった。いっぱいいっぱいに締め付けられていたネジが少し緩んだ。このまま締め付けられ続けていたらやがて壊れてしまったであろうネジだった。
「あれ、ルカ。鞄は?」
一階に降りたところで俊に問われ、春花ははっと我に返った。
「…あ、忘れてた…」
鞄はまだ教室だ。俊を探しに行ってその後教室に戻ろうと思っていたのに、すっかり忘れていた。
「しょうがねえなあ、もう」
苦笑して俊が踵を返し、今降りてきた階段を上りかける。
「俊ちゃんここで待ってて。私ダッシュで行ってとってくるから」
「いいって。一緒に行くよ」
二年生の教室は三階だ。
「ごめんね」
「いいからいいから」
明るく言って一段飛ばしで階段を上りながら、
「で、この招待状だけどさ」
ブレザーのポケットに手をやる。
「開けるのは待って。学校出てからの方がいいと思う」
「了解。でもじゃあ話だけでも聞かせてよ。どういうことなのか」
「うん…」
春花は後ろを振り返って誰も近くにいないのを確認した。俊も春花の視線を追って後ろを見る。
「そんなに人に聞かれちゃまずい話なの」
「そりゃあそうだよ。だって、」
声をうんと潜める。
「隣の世界の話なんだもの。別の世界の話だよ」
俊が、「またまた」という顔をする。
「ほんとだもん」
「それは悪いけどちょっと信じられない」
「ちゃんと証拠があるもん」
「招待状だろ?」
「他のもの」
「へえ。何?」
「あとで」
「それもあとでなのか。引っ張るなあ」
茶化すように言った俊を春花は大真面目な顔をして見上げた。
「俊ちゃん。これ、本当なのよ。ごっこ遊びとかじゃないんだからね。それに私も正気」
俊は眉を上げて春花を見ると、少し表情を改めて頷いた。
「わかった。で?」
春花は周りに注意しながら、昨日あったことを話しだした。うんと声を低めて話したので、背の高い俊はぐっと身を屈めて耳を春花の口元に寄せなくてはならなかった。途中人とすれ違うたびに話を中断し、しょっちゅう後ろを振り返ってはその度にまた話を中断していたので、春花の教室に着いた時にも、話はまだ終わっていなかった。
「あれ、沢崎先輩」
窓際の自分の席まで急ぐ春花の背後で、クラスメイトの男子が教室の戸口で待っている俊に声をかけているのが聞こえた。
「おう」
「どうしたんすか」
「いや、ちょっと」
「え、…あ、もしかして?」
「違うよ」
「そういうことなんすか?」
「違うっつってんだろ」
男子の冷やかすような声音と、それに答える俊の苦笑まじりの声。
スクールバッグを肩にかけて、辺りにいたクラスメイト達にバイバイと手をふりドアの方を向いたとたん、ドアのところに寄りかかってクラスメイトの男子と話している俊の姿が目に入り、思わずどきりとする。
春樹もよく春花の教室まで来て、あんなふうに戸口に寄りかかって春花を待っていた。昨年の十二月は特に。あの二週間くらいの間は部活のない日はもちろん、部活のある日も毎日来てくれた。
俊ちゃんが過保護だって言ったっけ。そうしたらハルは
「過保護なんかじゃない。俊だって妹がいたら同じことするだろう」
って言った。正直爺さんの俊ちゃんは、ちょっと考えてから、生真面目な顔をして
「そうだな。そうすると思う」
って頷いてた。
嫌がらせをされている、と先生に訴えるほどのことではなかったけれど、煩わしくはあった。春花に「コクハク」というやつをした男子がいて、その「コクハク」の前後の期間、かなり執拗に春花と春樹の関係は「おかしい」と春花に言い続けたのだ。
普通じゃない。絶対変だよ。精神状態に悪影響を及ぼすと思うよ。どちらのためにもならない。そんなんじゃ成長できない。将来困る。ブラコン。シスコン。そういうのは早く卒業しなくちゃだめなんじゃないの。もう小学生じゃないんだしさ。過去になんかあったの。ほんとに血が繋がってんの。もしかして一線を超えたことがあるんじゃないの。そういうの絶対やばいよ。不健全だと思うなあ。近親相姦って知ってる?
初めは、冗談混じりに投げられてきたそれらの言葉をこちらも笑って投げ返していたのだけれど、付き合って欲しいと言われた春花がNOと答えた後は、それらの言葉に批判の色が強くなってきて、笑って返せるような雰囲気ではなくなってきた。毎日毎日、隣の席のその男子に真顔で「そんなの絶対変だよ」「おかしいよ」「ちゃんと考えなきゃダメだよ」「入江のために言ってるんだよ」と言われ続けて、春花はどう反応していいのかわからなくなった。 お父さんとお母さんには言わなかった。でも春樹には相談した。
「どうしたらいいと思う?」
そう訊くと、春樹はにこりとして
「大丈夫。これからできるだけルカんとこ行くよ。そんな奴、黙らせてやるから」
と言った。
「喧嘩するの?」
「しないよ」
「私は何すればいいの?」
「なんにも。普通にしてればいいよ」
そして春樹は毎日春花の教室にやってきた。帰りのホームルームの後は毎日必ず。休み時間にもちょくちょく顔をのぞかせては、たわいないおしゃべりをしてまた去っていった。春花とだけでなく、たまには男子バレー部の後輩や、顔見知りの生徒とも談笑していた。ただそれだけだったけれど、春花にコクハクした男子はもう何も言わなくなった。
本当に「黙らせ」ちゃったなあ。
ドアのところに寄りかかっている俊の姿が、あの頃の春樹の姿と重なって、一瞬今がいつなのだかわからなくなった。
ハル。
…ううん。ハルじゃない。あれは俊ちゃんだ。
俊は春樹より少しだけ背が高い。
あの頃は二人とも男子バレー部だったし、同じクラスだったから、俊もよく春樹と一緒に春花の教室に来た。二人ともなかなかイケメンで、成績もいい。『源氏物語』を漫画化した『あさきゆめみし』という本を読んでいた友人が、一緒にいる二人を見て、光る君と頭の君みたいだよね!と言った。春花は内心顔をしかめた。ハルも俊ちゃんも、あんななよなよした、浮気ばっかりしているくだらない人たちと全然違うのに。
スクールバッグを肩にかけてドアに近づいてきた春花をみとめ、俊が戸口に寄りかかっていた身体を起こす。
「じゃな」
クラスメイトの男子に軽く手を上げ、すたすたと歩き出した俊は、少し行ったところで追いついた春花を振り返って声を潜めた。
「あの去年変なこと言ってきた奴、同じクラス?」
「ううん」
「そっか。よかったな」
「うん」
ふふっと笑う。
「私も、あの時のこと思い出してた」
俊も小さく笑った。
「ハルが毎日毎日これでもかってくらいルカんとこ行って、部活のない日は一緒に帰って…。妹に告白した男子がいるんで、妹を取られないように毎日見張ってる、妹にベタ惚れだ、とか色々言われてたな」
春花は目を丸くした。
「そうだったの?」
「知らなかったの?」
俊が呆れ顔をする。
「ってか、そんなのさ、予想つくだろ最初から」
「…ううん。そんなこと…考えてなかった。全然」
「これだからな、アマルカ姫は」
アマルカ姫。小さい頃から俊によく言われていた。アマルカは「甘ったれルカ」の略。お姫様ごっこをした時、いつもロザモンドとかキャサリンとか名乗っていた春花に、俊が提案したのだ。
「そういうのじゃなくてさ、アマルカっていうのは?」
「?そんな名前知らない」
「甘ったれルカだから、アマルカ」
甘ったれなんかじゃないもん!と口を尖らせた春花の横で、春樹はおかしそうに笑いながら感心したように俊を見た。
「うまいなあ。ちゃんと名前になってる」
「そんな変な名前やだ!」
「変わってていいじゃん」
俊が澄まして言う。
「じゃあ、じゃあ…」
春花は眉間に皺を寄せて考えた。
「俊ちゃんはイジシュン王子。意地悪俊だから」
「まねっこ。まねっこルカでマネルカ姫」
「やだそんなの!ロザモンドがいい!」
春樹に訴える。春樹がにこにこして言う。
「いいよロザモンドで」
ふーんだ、と俊に顎を突き出してみせる。
「ハルがロザモンドでいいって言ってるもーん」
俊がニヤリと笑う。
「ハルはアマハル王子。甘やかしハル」
違うもん!と言いかけて春花は口をつぐんだ。
アマハル王子とアマルカ姫。ハルとお揃い。
それなら嫌じゃないな。
そう思ったけれど、結局はやはりロザモンド姫になった。
「小学校の時は、誰もそんなこと言わなかったのに」
「そりゃ子供の時はそうだよ」
「中学生だってまだ子供じゃない」
「小学生よりは大人だろ」
それはそうだけど。
ふと不安になった。
「…ハル、嫌がってた?そんなふうに色々言われて」
「面と向かって言われてたわけじゃない。まあ冗談っぽくからかわれたりはしてたけど、別に嫌がってなんかなかったよ」
春花を見下ろして目を細める。優しい顔。
「ハルはさ、ルカが大事で大事でたまんないんだよな。ルカを守ったり、ルカの世話焼いたりするのが好きなんだよ」
嬉しくなって頬を上気させた春花に俊は指を振ってみせた。
「でも、ルカはちょっとそれに甘えすぎ」
「…そう?」
「そう。そんなんじゃいつまでたってもガキンチョのアマルカ姫のまま。いいオンナになれないぞ」
春花は顔をしかめた。いいオンナだなんて。そういう言葉を聞くのは嫌いだ。
「そんなものになりたくないもん。今のままでいいんだもん」
昨年、おじいちゃんが亡くなった。病院にお見舞いに行った時、おじいちゃんは春花の手を握って涙ぐんで、
「春花ちゃんの花嫁姿を見られないのが残念だよ」
と言った。なぜか無性に腹が立って、春花は熱くなった顔をぷいと背けた。
「私は結婚なんか絶対にしないんだから」
後でお母さんに叱られた。春樹は
「照れちゃったんだよね」
と言ってくれたけど、それも少し違うと春花は思った。
久しぶりに会う親戚の人達やお父さんやお母さんの友達に、綺麗になったとか、娘らしくなったとか、そういうことを言われるのも嫌いだ。どうしてだかわからないけれど、そういうことを言われると、なんだかいやらしいことを言われたような感じがして、恥ずかしさのような怒りのようなものが込み上げる。
俊が大袈裟にため息をついてみせた。
「そういうとこがな…。それ、いつまでも子供でいたいってこと?」
「いつまでもってわけじゃないけど…」
「ピーター・パンみたいだよな」
「いいの。ピーター・パン大好きだもん」
昔三人でよくピーター・パンごっこをした。妖精の粉がなくては飛べないけれど、目に見えないだけで妖精はその辺にいっぱいいて、だから妖精の粉だって空気中にいっぱい漂っていて、知らないうちに身体にくっついているのだということにした 。高いところ——庭の木の上、塀の上、小型の物置の屋根——に上っては飛び降りて、今ちょっと飛べた!ちょっと「フワッ」てなった!ときゃあきゃあ言い合って遊んだ。ベッドに行くときは、もしかしてピーターが来てくれるんじゃないかとワクワクした。いつか絶対に飛べるようになると信じていた。
「俊ちゃんだって、好きだったじゃない」
「そりゃ今だって好きは好きだけど。ルカさ、あれのちゃんとした本読んだことある?子供用のじゃないやつ」
三人が昔夢中になったのは、ディズニーの古いアニメのピーター・パンだ。絵本も読んだような気がするけれど、よく覚えていない。
「ううん」
「面白いよ。書き方が面白い。物語を話すみたいな感じで書いてあって」
「そうなんだ。じゃ、今度読んでみる」
俊は三人の中で一番読書家だ。部屋の本棚はぎゅうぎゅう本が詰まっているし、小さい頃から町の図書館にもよく足を運んでいる。俊のお陰で春樹も春花も図書館に行くようになった。
「あれ、入江さん。帰るの?」
階段の途中で演劇部の二年生女子に声をかけられる。
「うん、ちょっと用事があって。佐藤先輩にはもう言ってあるから」
「そっか、わかった。じゃあねー」
バイバイと手を振り合ってからふと気がつくと、彼女は、足を止めずに階段を降りていく俊を頬を染めて見送っているのだった。
俊ちゃんの『ファン』なんだ。ふうん。
なんだかちょっと妙な気持ちになりながら、春花は俊の後を追って階段を降りていった。
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