第2話

Chap.2


  ぎょっとして振り返る。

 誰もいない。

 幻聴?

 いや確かに聞こえた。それにこの封筒。

 幻覚と幻聴。

 頭がおかしくなった。 

 ラベンダーオイル?

 メディテーションのやりすぎ?

 やっぱりセラピストにかかるべきだった。

 どうしよう。

 精神病院に入院。

 監禁されて一生を送るの?

 一瞬のうちに様々な思いが乱れ飛ぶ。

「大丈夫だよ。君はちゃんと正気だからね」

 また声がして、春花はびくっとした。

「いきなり現れて驚かせたら悪いと思ったから、見えなくなってるだけ」

 十分驚かされている。

「でも見えなくなってるのって結構疲れるんだ。姿現してもいい?」

 春花は呆気に取られたまま、声のする方に黙ってこくこく頷いた。

「それでは」

 Ta-da!とばかりに両手を広げたポーズをとって、ドアのところに背の高い男の子が現れた。高校生くらいだろうか。明るい茶色の髪。深いグレイの目。白いパーカー。色の抜けたブルージーンズ。オリーブ色のスニーカー。

「靴!」

 春花がスニーカーを指差して叫ぶと、男の子はきょとんとして足元を見下ろした。

「靴が何か?」

「脱いで!床が汚れちゃうでしょ!」

 男の子はおどけた微笑みを浮かべた。

「大丈夫。床には触れてないよ。よく見て」

 何を馬鹿なことをと思いながら、春花は男の子の足元をじっと見た。

 床から三センチほど浮いている。

 いや、浮いている

 浮いているわけがない。

 そんなことあるわけない。

 幽霊?

 恐る恐る足元から男の子の顔に視線を戻した春花に片目をつぶってみせて、

床はちょっと高めに設定してあるから、この部屋の床には僕の靴は触れない。日本人は家の中で靴を履かないし、故にそういうことに神経質っていうのは、きちんと学習してあるからね。それにしても、」

 男の子は春花を少し戸惑ったように眺めた。

「…ここでは最近『性別表現の自由』っていうのがあって、スカートをはく男子が出てきてるって聞いてはいたけど、君はほんとに女の子みたいに見えるね。つい女の子と話してるような気になっちゃうよ」

 春花は眉をつり上げた。

「私、女の子だけど?」

「えっ」

 男の子は春花をまじまじと見た。

「れっきとした女の子ですけど?」

「…だって、……いや、そんなはずは」

 男の子はジーンズのバックポケットに手をやって、小さなカードを取り出した。机の上の封筒と同じ淡い水色をしている。

「入江春樹。十五歳。入江潤の長男。誕生日は四月二十二日、つまり昨日」

 読み上げて、春花を見る。

「春樹は私の兄。私は春花」

 男の子は少しほっとしたように頬を緩めた。

「…よかった、てっきり家を間違ったのかと…。大変申し訳ない。今まで、部屋を間違うなんていうミスはしたことがないんだけど、日本は初めてだし、ちょっと勘が狂ったのかもしれないな。驚かせてごめんね。お兄さんは隣の部屋?」

 明るく言われて何故かものすごく腹が立った。

「ハルの部屋はここ。でもハルはいない。一ヶ月前に死んだから」

 顎を上げ、自分の心に鞭打つようにわざとくっきり言い放った。挑戦するように男の子を睨みつける。

「…死んだ?」

 男の子が呆然とした顔で聞き返す。

「そう。塾の帰りに信号無視した車にはねられて」

 怒りを込めて冷ややかに言った春花を、男の子はじっと見つめた。

「…それで泣いてたんだね」

 溢れるばかりの思いやりを感じ、春花の心の表面にニョキニョキと形成されつつあったトゲトゲが、すうっと溶けて消えた。

「辛いね。かわいそうに」

 男の子のグレイの目にはうっすらと涙が浮かんでいる。春花は心から恥ずかしくなってなんだか泣きそうになった。

 この人はなんにも悪いことしてないのに。ちょっと間違えただけなのに。あんな風に怒ったりして…私、どうしちゃったんだろう。

 おずおずと訊いてみる。

「あの…どうしてハルに会いにきたの?」

「招待状を渡しにきたんだ」

 男の子は、目で机の上に載っている水色の封筒を示した。

「これ?」

 春花は封筒を手に取って、かざして見せた。男の子が頷き、考え深げに春花を見る。

「君…、春花って言ったね、春樹の妹なんだろう?」

「そう」

「今何歳?」

「十四」

「…なのに見えるのか…」

「見えるって、この招待状が?」

 男の子は訝しげな顔をして頷いた。

「十五歳じゃないと見えないはずなんだ」

「どうして?そもそも何の招待状なの?」

「ん…」

 男の子は少し躊躇するようだったが、

「…ま、いいか。招待状が見えるってことは、十四歳でも資格があるってことなんだから、話したっていいはずだ」

 呟いて自分で自分に頷き、

「この招待状はね、僕の世界、つまり隣の世界の親善大使からのメッセージで、ちょっと遊びにいらっしゃいませんか、っていう招待状なんだ」

 隣の世界。

 親善大使。

 遊びにいらっしゃいませんか。

 何の話だ一体。

 思い切り眉をしかめた春花を見て、男の子がからかうようにニヤリとした。

「そういう顔すると、眉間にシワがついちゃって、とれなくなるよ。知ってる?」

 春花は慌てて眉と眉の間を擦った。

「ま、ちょっと説明するから、質問は後にして聞いてて」

 そう言って男の子は小さく咳払いをした。

「この世界ではほとんど知られてないことだけど、隣の世界っていうのが存在する。昔から、互いの世界の行き来はあったんだけど、ここ二百年くらいでそれが大幅に減っちゃったんだ。それでも細々とではあるけれど、行き来は続いていてね。この百年間くらいは、僕たちの世界に来たことのある人たちの子供たちが十五歳になった翌日に、こうやって招待状を持ってくるのが慣わしになってる。その子達に招待状が見えるとは限らないし、残念なことに、見えない子がだんだん増えてるのが現状なんだけど…」

「ちょっと待って」

 話の終わりを待ち切れずに、春花は遮った。

「あなたたちの世界に行ったことのある人たちの子供?つまり…」

「そう。君たちの場合は、お父さん」

「お父さんが?」

「そう」

 お父さんは高校で物理を教えている。ごく普通の日本人で…なんというか、ただの善良な一般人だ。

 訝しげな顔をしている春花を見下ろして、男の子はにこりとした。

「お父さんが昔作家だったって知ってる?」

「サッカ…?」

「物語を書く人」

「作家?!お父さんが?!」

「童話を書いていたそうだよ」

 よりによって童話。あのお父さんが。

「…そんなの私聞いたことない」

「随分前のことだからね。物語を書く人たちっていうのは、みんな僕たちの世界に一度は来たことがあるんだよ」

「そうなの?」

「そう。例外なくね。他にも、絵を描く人たちとか、音楽を作る人たちとか。発明する人とか、新しいアイディアを考え出す人とかも。想像力イマジネーションとか創造力クリエイティビティとかそういうのを持っている人たちっていうのはみんな僕たちの世界に来たことがある。空想の世界で遊ぶことのできる子供たちもそう。文字だけの本を読んでその場面を想像できたりする人たちもね。たとえ本人たちが覚えていなくても、そういう人たちはみんな僕たちの世界に来たことがあるんだ」

 春花は目を見開いた。

「覚えていなくても…?忘れちゃったりするの?」

「大抵はね。残念ながら忘れてしまう人がほとんどだ。うんと小さい時に来たりする人も多いし…」

「十五歳にならないと行かれないんじゃないの?」

「それは招待されてっていう場合。招待されずに来る人も結構いるんだよ。最近は昔に比べてうんと少なくなったらしいけどね」

「招待されずにって…どうやって行くの?」

 男の子はちょっと肩をすくめて見せた。

「どうやってっていうのは僕にはわからない。彼らだって意図してやってくるわけじゃないんだ。何か決まった方法があるわけじゃないし、道があるわけでもない。そういう人たちっていうのは、あるとき突然、ふっと向こうの世界に現れるんだ。彼らに訊くと、ドアを——自分の部屋のドアだったり、玄関のドアだったり、学校の物置のドアだったり、色々だけど——開けたら隣の世界だった、っていうのが目立って多いね。次に多いのが、眠っていて目が覚めたら来ていた、っていうの。面白いのだと、ローラーコースターに乗っていた時、ぎゃーって叫んでつぶった目を開けたら来ていた、なんてのもある」 

 男の子がその整った顔を両手でむぎゅっと挟んでムンクの『叫び』のような顔をして見せたので、春花は思わずくすくす笑ってしまった。ハンサムが台無し。ひょうきんな人だ。

「お父さんは、どうやって、その、隣の世界に行ったの?招待されて?それとも…」

「さあ、そこまでは僕もわからないけど。でも向こうに行ったらお父さんの昔の知り合いにも会えると思うから、訊いてみるといいよ」

「…向こうに行ったら、って、私が行っていいの?招待状は私宛じゃないのに」

 男の子は頷いた。

「いいと思う。極めて稀な例外だけど、何にでも例外はつきものだからね。どう?行ってみたい?」

 春花は戸惑った。

 ハルだったら迷わず行ってみたいと言うだろう。そしてハルと一緒にだったら、私だって絶対に行ってみたい。でもハルはいない。ハルが行かれないのだから、代わりに私が行ってあげたい。お父さんも行ったことのある隣の世界というのを見学して、きちんとハルに報告してあげたい。でも…なんだかちょっと心配。

「あのね、その…、どんなところなの?隣の世界って」

 春花の心配を見抜いたかのように、男の子はニヤリとした。

「悪い魔女とか妖怪とか呪いとか世界征服を企んでる悪者とかがいるんじゃないかと思ってる?」

 春花は赤くなった。図星だ。

「大丈夫。普通のところだよ。こっちの世界とそんなに変わらない」

 春花は男の子の着ているものを見て納得して頷きかけ、しかしその足元を見て首の動きを止めた。男の子は春花の視線を追って、

「…まあ、違うところもあるけどね」

「今、魔法を使って浮かんでるの?それ」

「うーん、まあ、そんなようなものかな。でも、これは浮かんでるんじゃなくて、床を少し高めに設定してるだけで……、ま、いいか。説明すると長くなるから。そうだね、魔法のようなものだと思ってくれていいよ」

「隣の世界では、みんなこういうことができるの?」

 男の子が首を横に振る。

「そんなことないよ。できるのはメッセンジャーくらいかな」

「メッセンジャーって、招待状をこっちの世界に持ってくる係ってことね?」

「そう。さっきも言ったけど、最近招待状が見えない子が増えててね。でも今日はこうやってちゃんと話せる相手に会えて嬉しいよ」

 男の子はにこりと微笑んで、

「明日もう一度来るから、遊びにきたいかどうか、一日ゆっくり考えてみて」

「え…」

 戸惑う春花ににこりとしてみせる。

「みんなにこう言う決まりなんだ。突然隣の世界に行ってみないか、なんて言われて、その場で答えを要求されても困るものね。僕と話したかったら、これを」

 ジーンズのポケットから何かを取り出して、ほいっと放ってよこした。慌ててキャッチする。手を広げてみると、それは直径2cmくらいの透き通った緑色のガラス玉だった。

「こっちの世界のケータイみたいなもの。これに指で触れて、または手で握って、僕の名前を呼んでくれればいいから」

 春花はくすっと笑った。

「名前、まだ聞いてないよ」

「えっ。ああ、ごめん。リオっていう。あらためてよろしく、春花」

「よろしく、リオ」

 二人は握手した。

「何か、質問は」

「うーん…」

 質問はたくさんあるけれど、どれから訊いていいか迷う。

「あのね、時間のことなんだけど。お隣に一時間遊びに行ったら、こっちでも一時間経つの?」

 リオは苦笑して額に手をやった。

「ああ、ごめん。そんなこと説明するのも忘れるなんて。そう、時間の経ち方は一緒なんだ。残念ながらね。だから、例えば向こうで何年間も楽しく過ごして、でもこっちに帰ってきたら一秒しか経っていない、しかも外見も元のまま、なんて都合のいいことにはならない。それから、日本に住む君たちの場合だと、向こうとの時差はちょうど十二時間。遊びに来るのが比較的楽だよね。睡眠時間を削られちゃうのは痛いけど」

「じゃあ今は向こうは夜明け前くらいなのね。眠いでしょう」

「大丈夫。それくらいは自分でちゃんとコントロールできるからね。そういうのもメッセンジャーの仕事のうち」

 ばちんと音が聞こえそうな綺麗なウインクをしてみせて、

「他には?」

「この招待状…、これ、他の人に見せてもいい?」

 リオはちょっと肩をすくめて笑った。

「見える人がいればね。でも変な奴って思われないように気をつけて。他の誰にも見えない封筒を振り回して『これ見える?』なんてやってまわったら…」

 おどけた顔をして、長い人差し指で自分の頭の横をつついてみせる。春花は苦笑した。

「そんな頭の悪いやり方しないよ」

「もし見える人を見つけたら、僕に紹介してくれると嬉しいな」

「その人も、一緒に遊びに行ってもいいの?」

「もちろん。招待状が見える人なら誰でも歓迎だよ」

 まあありっこないけど、というような笑顔を浮かべてからふと真顔になり、

「…誰か心当たりがあるの?」

 訊かれて初めて、春花は自分が誰のことを考えていたのか気がついた。

「ん…、わからないけど、でも、もしかしたらもしかするかもって思う人なら、いないことも…ないような、あるような」

 口ごもりつつ答えると、リオはにこりとした。

「ボーイフレンド?」

「えっ、ううん、まさか」

「照れなくていいよ。そんな顔してる」

「違うったら」

 口を尖らせる。リオはくすっと笑って

「他に、何か質問は?」

「うーん、今はとりあえずこれだけ」

 頭の中がごちゃごちゃで、うまく質問が出てこないというのが正直なところだ。

「じゃ、今日はこれで。何か訊きたいことあったらいつでも連絡して。明日同じくらいの時間にまた来るよ」

「了解」

「それじゃ」

 にっこりといかにも優等生といった微笑みを浮かべて挨拶の片手を上げると、次の瞬間リオはいなくなった。

 春花は数秒間呆気に取られてその場に立ち尽くしていた。

 「消えた」ではなくまさに「いなくなった」という感じだった。気配も余韻も何も残らない。

「…すごい」

 思わず手を伸ばして、リオが立っていたあたりを手探りしてしまう。

 夢だったと言われればこれっぽっちも疑うことなく信じてしまいそうだ。

 でも、と春花は右手に持った深い緑のガラス玉と、指の先でつまんだ淡い水色の封筒を見る。

 確かにリオはいた。夢なんかじゃない。

「ねえ、ハル」

 春樹の机に触れて、小さい声で言ってみる。

「なんだか変なことになってきてるよ」

 隣の世界に遊びに行く。

 向こうに行ったことのある人たちの子供たちに招待状が届く。

「お父さんが作家だったなんて。びっくりだよね」

 童話だって。どんなお話を書いたんだろう、お父さんは。

 どうして私たちは今までそのことを知らなかったんだろう。

 私たちに知られたくないのかな。

 淡い水色の封筒を眺める。まだ開けていなかったことに気がつく。

「これ、ハルにきた招待状だけど、開けるね」

 銀色の封蝋をそっと剥がして封筒を開け、淡い水色のカードを取り出す。くっきりした銀色の文字が並んでいる。


「入江春樹様


私たちの友人入江潤さんのご長男であるあなたを

謹んで私たちの世界へご招待申し上げます。

ぜひ遊びにいらしてください。


   親善大使フランツ・バルトヴィッツ」


「簡潔だなあ」

 春花は招待状を二度読んでから、そう感想を漏らした。変に形式張っていなくて、わかりやすい。

「ねえハル、これね、見える人と見えない人がいるんだって。見える人はあんまりいないみたい。でもね、しゅんちゃんなら見えるかもしれないって思わない?」

 





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