はるのものがたり
柏木実
第1話
Chap.1
温かな春の日差しの中、家と家の間の小さな空き地に咲き誇るムラサキダイコンの紫と菜の花の黄色とぺんぺん草の白の競演を眺めながら、
一ヶ月。
空き地の前を通り過ぎながら、心の中で花たちに小さく手を振る。
名前ゆえに、小さい時から、自分も春の花たちの仲間のような気がしていた。
——僕は木で、ルカは花だからね。僕は木だから、ずっと大きいから、ルカのことをちゃんと守ってあげる。僕の根元に咲いてれば、嵐が来ても大丈夫だよ。
小さい頃春樹がそんなことを言った。
——でもじゃあハルはどうするの。嵐が来たら濡れちゃうよ。
——僕は男の子だし、木だもん。大きくて強いから濡れても大丈夫。
涙であたりがかすんで、春花は慌てて目をぱちぱちさせた。
少し前までは、こういう時、胸の奥深くがぎゅううっと絞り上げられるようになって、そこがどこであろうと——家であろうと、学校であろうと、道であろうと、ショッピングモールであろうと——声を上げて泣きそうになってしまい、それを抑えるのに必死で戦わなくてはならなかった。そうすると今度は吐き気がして眩暈がして、指先が冷たくなる。心臓が気味悪くどくどくいって、背中が痛くなって、身体中に気持ちの悪い汗が流れた。
でも今はそうならない。
心の中は妙にしんとしていて、全てが燃え尽きた後の灰が残っているだけだ。凍えそうに冷たくて硬くて、疲れ果てていて、何も動かない。動かせない。
ハルはいない。ハルはいない。ハルはいない。
歩調に合わせて、冷たく乾燥した言葉が響く。
ハルはいない。どこにもいない。もう会えない。
耳を塞ぐ代わりに、息を呑み込む。薄青い春の空を見上げる。
ハル。
助けて。
もう負けそうだよ。
もう頑張れない。
もう疲れちゃったよ。
昨日は春樹と春花の誕生日だった。春樹は十五歳になるはずで、春花は十四歳になった。お母さんは、例年通り誕生日のケーキを焼いてくれた。お父さんもお母さんも、一所懸命笑顔を作って春花が十四歳になったことを祝ってくれて、小さな真珠のペンダントのついたネックレスを贈ってくれた。
「星の形のと、リボンの形のと、このお花のがあったんだけど、ハルちゃんが絶対これがいいって」
お母さんが微笑んだ。
「『名前のせいでなんでもお花じゃ、ルカちゃんも飽きちゃうんじゃないかしら』って言ったんだけど、そうしたらハルちゃん、『名前が花だからじゃないよ。ルカは本当に春の花みたいだもの。だから絶対これがいい』って」
春花は涙をこらえ、箱からそっとネックレスを取り出して眺めた。ふっくらした小さな桜のような銀色の花の真ん中に小粒の真珠。
「綺麗…」
春花がそう呟いたのと、お父さんがぶぶーと音をさせて鼻をかんだのは同時だった。顔を上げると、お父さんは目を赤くして、慌てた様子でティッシュで鼻の下を拭いていた。
「ごめんごめん」
お父さんは謝ったけれど、もう遅かった。すぐにティッシュがもう二枚箱から引き抜かれて、しばらくは鼻をすする音と鼻をかむ音だけが続いた。
「そう、それからね、これもルカちゃんに」
鼻声で言って、お母さんが、金色のリボンのついた細長い箱を春花の前に置いた。春樹が亡くなる少し前に、お父さんとお母さんと春花で春樹のために選んだ万年筆だ。
「ハルちゃんも、ルカちゃんに使って欲しいって思うはずだから」
お母さんが赤い目でにこりとする。お父さんもわずかに微笑んで頷いていた。
三人で選んだのは、まるで木漏れ日がちらちらとしているように見える、美しいグリーンの万年筆だった。
ハルにぴったりだと思ったのに。見つけた時はすごく嬉しかったのに。絶対喜んでくれると思ったのに。
春花はまた新たな涙が溢れ出そうになるのを奥歯を食いしばってぐっと抑えた。
ハル。ハル助けて。泣きたくない。元気に楽しくしなくちゃ。
「じゃあ、まずはペン習字でもやって、きれいに字を書けるようにならなきゃ。ハルに怒られちゃう。『ペンと字が釣り合ってない!』って」
一所懸命おどけて言うと、お父さんとお母さんも赤い目で小さく笑った。
春樹はペン習字なんてやっていなかったけれど、字がきれいだった。
「ルカさ、もうちょっと字丁寧に書いた方がいいよ」
「でもちゃんと読めるよ」
「そりゃ自分の字だからだよ。他の人からしたら結構読みにくいと思う」
「…ハルも読みにくいって思う?」
「僕はルカの字に慣れてるからそうでもないけど」
「じゃ、いいもん。ハルが読めるならいい」
「そうじゃなくて。大人になった時困るし、それに好きな人に手紙書くときにも困るよ」
「そんなことしないもん」
私が好きなのはハルだもん。
ハルだけだもん。
だからハルが読めるならそれでいいもん。
「…ただいま」
鍵を開けて、しんとした玄関でつぶやく。ドアを閉める。
静寂。
今日は火曜日だ。男子バレー部が休みの日。以前なら、春樹が先に帰っていることもあった。そんな日は玄関にハルのスニーカーがあって、家の中から——大抵は居間から——「おかえりー」と声がした。
ハルの声。
聴きたい。ハルの声が聴きたい。
涙が溢れた。
もういない。ハルはいない。いない。いない。いない。
たまらずしゃくり上げながら、春花はスリッパを履き、スリッパ掛けから春樹のグリーンのチェックのスリッパを外して、そっと象牙色の玄関マットの上に置いた。以前やっていたように。
もうすぐ帰ってくるよね。今日は部活がないから。
そう心の中で言ってみると、冷たく固まっている心の空間に、その言葉はのっぺりと変なふうに響いた。
ぐずぐず泣きながら階段を上り、手前のドアの前で立ち止まる。そっとノックをする。
春樹はなぜかいつも「ヘイホー」と応えていた。
変なの。
ゆっくりとドアハンドルを押して、まず顔を覗かせる。
いつも、ここで期待してしまう。ノックに「ヘイホー」の返事はなかったけれど、それはもしかして春樹がベッドで昼寝しているせいかもしれない。机の上の辞書を枕に居眠りしているからかもしれない。
きれいに整えられた部屋。空っぽの部屋。しんとした部屋。でもそこには春樹の雰囲気がまだ残っていた。
「ハル」
とぼとぼと机に歩み寄って、デスクチェアにそうっと腰を下ろす。椅子が小さくぎしりという。春樹が毎日座っていたところ。
机の上は綺麗に片付いていた。奥の方の隅に数学のノートと教科書と問題集がまとめてある——あの日塾へ行く前に春樹が残していったように。机に肘をついて、顔を両手に埋める。
「ハル。もうダメみたい…」
身体が震える。涙があとからあとから頬をつたい落ちる。
「もう、頑張れないよ……もう、本当に、限界……」
どうしたらいいの。どうやったら大丈夫になれるの。
お願い。助けて。
もう疲れたよ。
会いたいよ。
戻ってきて…。
一ヶ月前、春樹は塾の帰りに、信号無視して横断歩道に突っ込んできた車にはねられた。救急車が着いたときにはすでに心肺停止状態で、おそらく即死だったでしょうと医師は言った。苦しみはなかったでしょうと。
そんな言葉は何の役にも立たなかった。
苦しみはなかったでしょう?
そんなことあるわけない。
春花は頭の中で何度も何度も何度もその場面を見た。横断歩道を自転車で渡る春樹に、車が突っ込んでくるところを。
ものすごく痛かったに決まってる。ものすごく苦しかったに決まってる。
長引かなかった、というならまだわかる。でも苦しみはなかったなんてそんなはずはない。スピードの出ている車に突っ込まれて、身体がはね飛ばされたのだ。飛ばされて地面に叩きつけられたのだ。
なんにも知らないくせに。苦しみはなかったなんてよく言える。なんて無責任な気休め。
春樹の苦しみを無視されたような気がして、猛烈に腹が立った。
「そんなわけないでしょ!そんなはずない!すごくすごく痛くて苦しかったに決まってる!嘘つき!何にも知らないくせに!」
泣きながら若い医師に食ってかかって、お父さんとお母さんに止められた。
しばらくの間、春花は悪夢にうなされた。どんな夢だったのか細かいことまではっきりとは覚えていない。ただ、それはいつも春樹の夢で、車にはねられたり、魔物に襲われたり、崩れた建物の下敷きになったり、拷問にあったり、溺れたりして苦しみもがいている春樹を助けようと半狂乱になっている夢だった。泣き叫んで、汗びっしょりになって、気がつくとベッドサイドの明かりが灯っていて、お母さんが春花を抱きしめて背中をさすってくれていた。しゃくり上げすぎて咳き込んで、横隔膜が震えて、一言も喋れない。ただただ泣きじゃくって、咳き込んで、息を詰まらせて、そのうちまた意識がぼうっとなって、気がつくと朝日でぼんやり明るいベッドで眠りから覚めるところだったりした。
幾晩そんなことが続いたのだったか、毎晩そんなふうだったのかも覚えていない。覚えているのは、ある日鎌倉から様子を見にきてくれた由里子伯母さんに伯母さん一流の辛辣な口調でぴしりと言われたことだ。
「春花ちゃん、しっかりしなきゃだめよ。強くならなくちゃ。春樹くんはね、いつも春花ちゃんのこと見てると思うよ。春花ちゃんがちゃんと頑張ってるか見てるよ」
誰もが言うようなありふれた言葉だった。それでも、その言葉に春花はハッとして奮い立った。
ハルが見てる。いつも。私がちゃんと頑張ってるか見てる。
しっかりしなきゃ。頑張らなきゃ。強くならなきゃ。
ハルにがっかりされたくない。
ネットで色々調べ、色々やってみた。ラベンダーオイルやメディテーション、日記、歌を歌う、音読、ストレッチ、ヨガ、ジョギング、笑顔。
お父さんとお母さんにはセラピストに会ってみたらどうかと勧められたけれど、
「大丈夫。まずは自分で頑張って、それでもダメだったら助けてもらうから」
にこりと笑って言うことができた。
新学期が始まった学校でも、努めて明るく振る舞い、友人たちにも宣言した。
「ハルはね、留学してるんだってつもりになってるの」
そう、ハルは外国にあるホグワーツみたいな魔法使いの学校に留学していて、スマホとかメールとか、マグルの道具は使えなくて、だから今は連絡が取れないだけ。そのうち、すごい魔法使いになって帰ってくる。
この想像は結構効果があって、しばらくの間はかなり助かった。春樹の魔法学校での生活の様子を想像してイラストを描いたりもして、少しは——心の表面だけでも——楽しい気持ちも味わえた。
でも現実は容赦なかった。
例えば学校で交通事故のこと——もちろん春樹の事故のことではないけれど——が話題になったり、男子バレー部のことが話題になったりするだけで、敏感肌の人がほんのちょっとした刺激で肌トラブルを起こすように、春花の心は自分でも怖くなるほど動揺した。
春樹と同じ色の上履きを履いた三年生たちを目にするだけで、胸の奥がぎゅうっとなって頭の後ろが痺れたようになる。その度に、ハルは留学してる、だからこの人たちと一緒にいないのは当然、と懸命に自分に言い聞かせた。
廊下で会うと、春樹はいつも笑顔で手を振ってくれた。近くをすれ違うときはハイファイブした。急いでいない時は、よく立ち止まっておしゃべりした。
「ルカ。次なに?」
「家庭科」
「何するの」
「スカートの続き」
「指縫わないように気をつけなきゃだめだよ」
春樹の学年の女子で、なんとミシンで指を縫ってしまった子がいたのだそうだ。おしゃべりしてよそ見をしながら分厚いものを縫っていて、針が爪ごと指を刺し通したのだという。
「今日は仮縫いだしミシン使わないから平気。ハルは?次なに?」
「理科。今日は実験だから、理科実験室行くとこ」
「アルコールランプ使う?」
一年生の時、春樹は実験中燃えているアルコールランプを肘で突いてしまい、危うく転がしてしまうところだった。しかしランプは転がらず、ほっとした次の瞬間、制服の肘が燃えているのに気がついた。すぐに蛇口の水をかけたので火傷はしなかったが、制服のブレザーの肘には中くらいの穴が空き、お母さんがつぎを当てた。
「たぶんね。大丈夫、気をつけるから。じゃね」
「うん」
いつもこんなふうだったから、仲がよすぎるとか、兄妹なのにベタベタしてて変とか、そんな陰口がたまに耳に入ったけれど、これっぽっちも、芥子粒ほども気にならなかった。
春樹が一緒だったから、それで全てが良かった。大樹の根元で雨や風や強すぎる日差しから守られて咲いている花のように、どんな悪意も、春樹の存在ゆえに、春花に届く時には気にならない程度に弱められていた。春樹が悪意ある人たちの口を封じてくれるわけではないのだけれど、春樹がいてくれるというだけで、何によっても春花の心は傷つくことがなかった。まるで魔法のシールドがあるように。
でも、今は違った。
世の中にはいい人たちばかりいるわけではない。悲しい思いをしている人間にみんなが優しいわけではない。ある者はわざと、ある者は意図せずに、悲しみの中にいる人間をさらに傷つけるようなことを言う。春樹というシールドがなくなってしまった春花は、それらの言葉にダイレクトに晒された。
先週の金曜日のことだった。
体育の時間の前の更衣室で、隣のクラスの前島さんという子が、春花の横で着替えながらため息まじりに話しかけてきた。
「美弥、今日も休みなんだよね…」
昨年一緒のクラスだったので、なんとなく付き合いはあったけれど、特に仲がよかったわけではないし、正直なところ名前もうろ覚えだ。でもとりあえず礼儀にはずれないように春花は相槌を打った。
「そうなんだ」
前島さんはまたため息をついて、
「入江さんももちろんすっごくすっごく辛いだろうけど…、でも彼氏とか好きな人とかが死んじゃうっていうのは、兄弟が死んじゃうっていうのとまた別の次元の辛さだろうと思うんだよね。松宮先輩なんて最近までほとんど学校来てなかったっていうし、美弥ももう憔悴しちゃって、激痩せでさ…。かわいそうで見てらんない。美弥、入江先輩のこと本当に本気で好きだったから…。入江先輩、かっこよかったもんね…」
決して無神経な口調ではなく、沈痛な面持ちで、しんみりとそう言った。
春花は文字通り硬直してしまった。思考回路が途切れた、というよりは一瞬にして全崩壊してしまったような、全てがブラックアウトしてしまったような感覚。あたりがしんとして、気がついたら泣いていた。前島さんが慌てて言った。
「あっ、ごめんね。ごめんね…」
当然辺りの同情は一気に春花に集まった。友人たちが口々に
「大丈夫?」
「保健室行く?」
などと言いながら肩を抱いてくれたり、ティッシュを渡してくれたりして、中の一人は、
「信じらんない。よくそういう無神経なこと言うよね」
前島さんを面と向かって非難した。
「…ごめんなさい」
前島さんは泣きそうな声でもう一度謝ったけれど、春花は何の反応もできなかった。どう感じたらいいのか、どう考えたらいいのかもわからなかった。ただ胸の奥が痛くて痛くて泣くのを止められなかった。
結局その日の体育の時間を春花は保健室で過ごした。
学年の始めなので、このところの体育は色々な測定だった。その日は100メートル走の予定で、春花はぼんやりした頭で、あーあ、と思った。短距離走は好きだ。小学校の時は、いつも運動会で選抜リレーの選手だった。春樹と一緒に。
中学では縦割りの選抜リレーがないけれど、小学校では一年生から三年生の低学年選抜リレーと、四年生から六年生の高学年選抜リレーがあって、春樹と一緒のチームになったことも何回かあって嬉しかった。五年生の時は、チームの女子では春花が一番速かったので、アンカーの春樹にバトンを渡すことになった。家や近くの公園で、二人で真剣にバトン渡しの練習をした。
そして本番。春花がバトンを受け取った時は四チーム中三位だった。春花が一人抜き、春樹がもう一人抜いた。この大逆転のおかげで、総合得点で縦割りブルーチームがその年の運動会の優勝をさらった。
「すげえぞー!入江
大歓声の中春樹と抱き合って飛び跳ねた。人生最高の瞬間だった。
とびきり輝いていたハルの笑顔。
ハル。
ごめんね。情けないね。体育休んじゃったよ。みんなの前で泣いちゃったし。やっぱりちょっとだけ疲れてるのかも。
ラベンダーオイルが効いているのか、それとも他の何が効いているのかはわからないけれど、このところ悪夢にうなされることはなくなっていた。なんの夢も見ない。夜中に何度も何度も目が覚めて、覚めるとなかなか眠れない。朝起きても、なんだかあまり眠った感じがしなくて頭が重い。でも、一応目覚ましのアラームで目が覚めるということは、少なくともその前は眠っていたということなのだから、眠れていないわけじゃない、大丈夫、と思うことにしていた。毎日なんだか疲れてぼうっとしていることにはもう慣れてしまって、あまり気にならなかった。
「入江さん、少し眠ったら」
白いカーテンの向こうから保健の先生が声をかけてくれる。
見ていなくても眠っていないってわかるんだ、とびっくりしながら、
「はい」
と返事をして、春花はおとなしく目をつぶった。
視界の情報が途絶えると、途端にさっきから心の奥に引っかかっていたものが、もやもやとドライアイスの煙のように漂い出す。
松宮先輩って誰?
「彼氏とか」って?
ハルは誰とも付き合ったりなんてしてなかった。
付き合ったりなんてしてなかったもん。
「入江先輩のこと本当に本気で好きだったから」
私だって、本当に本気で好きだったもん。
「別の次元の辛さ」?
それってどういう意味?
どういう意味?
「彼氏とか」?
ハルは誰の彼氏でもなかったもん。絶対に。
絶対に…。
心の中でそう言い続けながら、春花は少しだけうとうとした。
その日の掃除の時間、掃き掃除をしながら、春花は思い切って友人の一人に訊いてみた。
「ねえ、松宮先輩って誰?」
友人はえっという顔をしてから、慎重な口ぶりでゆっくり言った。
「ん…、女子バレー部の三年生で…」
女子バレー部。心の奥がちくりとする。
「ほら、背が高くて、髪長くて、いつもポニーテイルにしてて…」
わからない。
「テストの順位でもよく名前が出てる人。下の名前は
記憶にない。
「…噂では、その…入江先輩の」
春花は穏やかに首を振って遮った。
「彼女とかじゃないよ」
心配そうな目をして春花を伺っていた友人は、ほっとしたような顔をした。
「そっか。じゃあ、誤情報だね。噂って誇張されるから」
「ハル。誰とも付き合ってなんかなかったよね」
春樹の机に濡れた頬を押し付けて言ってみる。
「誰の彼氏でもなかったよね」
そんな人がいたら、私にちゃんと教えてくれたよね。
…それとも。
止めようと思ったけれど、言葉が扉の隙間をすり抜けて勝手に頭の中に響き渡った。
付き合ってたの?その人のこと好きだったの?
…私よりも?
新たに溢れ出た涙を拭おうと腕を動かした時、机の端っこに載っている淡い水色の封筒が目に入った。
「……」
変だ。
春花は顔を上げた。
さっきはこんなものなかった。絶対になかったと断言できる。
忽然と現れる物体。
なんだか『不思議の国のアリス』のようではないか。
数秒間封筒を凝視してから、そっと手を伸ばし、小指の先で恐る恐る封筒の端っこに触れてみる。硬い紙の感触。
幻ではない。ちゃんと存在している。
「私をお読み」とか書いてあったらそれこそアリスの世界だけど。
ぼうっとした頭でそう思っていると、何も書かれていなかった封筒の上に、すうっと流れるような銀色の線が浮かび上がってきて、華やかな文字を形づくった。
To Haruki Irie
「……」
春花が言葉もなくその文字を凝視していると、
「開けないの?」
背後から声がかかった。
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