#7 散々な水曜日
すみかは、亡くなった宇宙飛行士と瑠以の関係、そして五月二日に来るという宇宙からの無線について、何も聞けずにいた。
記事の内容が正しければ、すでにこの世にいない人からの無線を瑠以は待っているということになる。幽霊を信じていないと言ったのは、ほかでもない瑠以なのに。
悶々としたまま、日々が過ぎ、いつのまにか水曜日になっていた。放課後、芝居を観に行く日だ。
すみかは朝から気持ちがふわふわしていて、家庭科の調理実習でハンバーグを黒焦げにして火災報知器を発動させたり、生物の授業ではDNAの摘出実験でエタノールを引火させ、スプリンクラーが発動し、実験室がびしょびしょになったりした。少なくとも午後四時までは、散々な一日だった。
帰りのホームルームが終わると、瑠以に借りた電動キックボードで駅前に向かった。着替える間もなく来たので、制服のままだ。
観劇を終え、チケットをくれた関係者にお礼を言って劇場を出ると、近くですみかと同じ制服姿の人が立っているのが見えた。
「瑠以!? 待っててくれたの?」
買い物が早く済んだのだと瑠以は答えた。
「それで、舞台はどうだった?」
すみかは胸に手を当て、大きく息を吸い込んだ。胸がいっぱいで呼吸が辛い。
「もうすっ……ごくヤバかった。導入が素晴らしくて、プロローグから一気に話の中に没入できたの。演出も舞台装置も衣装も完璧。ストーリーはシリアスだったんだけど、笑っちゃうやり取りも結構あって、今日のお客さんもよく笑う人たちだったから、一体感があったなぁ。下手したら一人芝居みたいになりがちな場面も、ちゃんとコメディとして回してて、お腹痛かったくらい。あ、劇場の音響はあまり良くない気がしたんだけど、主役の役者さんのセリフはかなり明瞭に聞こえて、滑舌が……」
「すみか、ストップ! 一旦、ストーップ!」
瑠以に手で大きくバツ印を作られ、すみかはハッとした。恥ずかしくなって、ごめんと舌を出す。
「興奮しちゃった」
「続きはご飯食べながら、いっぱい聞くから」
「うん!」
駅前に戻ったが、駅ビルなんていう気の利いたものはなく、あるのは学習塾、デイケア、ドラッグストア、クリニックくらいだ。ロータリー自体は最近新しく整備されたたのか広々としてきれいだったが、客が来ず暇そうなタクシー運転手と町内循環バスを待つお年寄りがベンチにちらほらいるだけで、がらんとしていた。通勤通学のラッシュ時にもかかわらず、移動には電車より車を使う人の方が多いからか、駅の利用者自体が少ないのだろう。ロータリーの輪の中央に設置された甲冑姿の勇ましい騎馬像の銅像の方が、大量の鳩で賑わっているくらいだ。
高校生の財布にもなんとか手頃なイタリアンが少し離れたところにあるのはリサーチ済みだ。すみか達はそこに行くことにした。
ロータリーの花壇のそばを通ると、近くで拡声器を持った数人の大人たちが演説をしているのが見えた。プラカードを掲げる人々が声を張り上げる姿に、すみかはさっと目をそらした。分離主義を唱える人たちだ。だが、日常の風景に溶け込んでしまっているのか、透明な見えない存在のように、立ち止まって耳を傾ける通行人は一人もいない。
「学校の塀の周りもデモしたりしてるよね。屋上からだとよく見えるんだ。まあ、学園の敷地が大きすぎて、中には届いていないけど」
現職の町長たちが国からの補助金を目当てに明浜学園を誘致し、住民を危険に晒している、と拡声器を持つ人は勇ましい声で話していた。
「私って、危険な存在?」
瑠以に訊くと、
「こんなお気楽高校生が?」
と真顔で返された。
「自分でもそう思う。あの人たちにそれを伝えられたらいいと思うけど……」
だが、正直関わりたくないと思うのが本音だ。どっちもそうだから、こんなことになってるのだろうか。
耳障りな演説は人が替わり、まだ続いていた。
ザクザクと、刃物が混じった雨を浴びているみたいな気分になる。
心がすり減るのがわかるのに、なぜかすみかはその場から離れられなかった。瑠以はすみかの袖を引っ張ったが、なぜかローファーの底が地面のコンクリートにくっついたかのようにすみかは動かなかい。
「あんなの聞く必要ないよ」
瑠以がさっきよりも力を込めてすみかの腕を引いた。
「あの人達はすみかの話なんか聞けないよ。頭がマントルよりさらにカチコチだもん」
「うん……」
こわいという感情は厄介だ。意志とは関係なく、勝手に脳に侵入してくる。そしてその漠然としたグレーの雲はかすみのように脳を覆う。
もし、もともと心の中に小さな偏見の種があり、それがくっついたら、べっとりとヘドロのような感情に成長するだろう。乾いて、風化して、先が尖ったら、そしてそれをふりかざしたら――
でも、こちらが一歩踏み出すことさえできれば、そんな世界も変えられるんじゃないだろうか。そんな淡い理想が頭の中を一瞬駆け巡る。
でもそれはいつも理想で、現実じゃないよ、と胸の奥の小さなすみかがつぶやく。
やっぱり歩き出そうとしたそのとき、いきなり白い帽子を被ったすみかの祖母くらいの年齢の女性に手を握られた。ギョッとして、思わずまた体が固まってしまう。
「な、なんですか」
「私はね、あなた達がまるで檻に入れられたモルモットみたいで、可哀想でならないの。でも、あなた達を人間扱いする大人はたくさんいるから、元気を出してね」
「ばあさん、何言ってんの?」
何か言おうとして、言えなくて、それより先に耳の横で瑠以の声が聞こえた。
「自分で言ってて、矛盾してると思わないんですか? モルモットとか言って、人間扱いしてないのは自分じゃん」
まさか言い返されると思わなかったのか、間の抜けた顔をしている女性に対し、瑠以は低い、怒りの声で言葉を続けた。
「怖いんですよね、自分とちがう存在が。アーラのこと、よくわからないから」
「そんな、私はただっ……」
電車から降りてきた通行人たちがちらほらと足を止める。すみかは心配そうに瑠以を見たが、瑠以はまっすぐ女性だけを見ていた。
「私も、あなたみたいな人に何度も言われたからわかります。親のいない子はやっぱりちょっと変わってるよね、人として大切なものが欠けてしまうんじゃないの、本当の愛情を知らないと……とかね。でもそんなこと言ってても、何もマシにならないですよ。宇宙に行くのだって、家族と離れて何年も訓練を受けてやっと行けるのに、火星とか金星とかに移住できるのなんて私たちが死んで、何百年とか経ったあとですよ。それまでは、この狭くるしい星で、なんとかみんなで生きていかないといけない」
「でしょ?」と瑠以は首をかしげた。その声はどこまでも優しく、すみかは鼻の奥がつんとした。
瑠以がその場で両手を広げると、女性は少しビクッと肩を震わせた。だが、少しずつ歩み寄ってやがて二人が抱き合うと、いつのまにか集まっていた周囲のギャラリーから拍手が起きた。
すみかも一所懸命拍手した。すごい、すごいよ、瑠以。
そこまではよかった。間髪入れず、シャッター音が響き渡る前までは。
「アーラJK、ヤベェ」
「感動したね」
「あのー、こっちに目線くださーい」
スーツを着たサラリーマンも、制服を着た高校生も、ランドセルを背負った小学生も、みんなが手の甲につけられた薄型スマパ連動カメラをこちらに向けていた。シールレンズの丸い縁が、撮影中を知らせるグリーンとパープルのグラデーションの光をくるくると放っている。
一瞬、小さな女の子と手をつなぐ通行人の女性と目が合った。だが、女性はさっと目をそらすと、女の子を連れてそそくさといなくいってしまった。
なにこれ。
混乱して、視界がぐるぐるする。
「今のもあれですか、実はパワー的なやつを使ったんですか?」
ずっとレンズをこちらに向けていた若い男を睨みつけると、「こわっ」と大きな声で笑われた。
「消してください、動画」
「いやいや」
「みんな消してってば!」
「すみかっ!」と叫ぶ瑠以の声が聞こえた。でも、止められなかった。
ピリッと指先に微かな痛みが走った。その電流が体全身を駆け回り、最後に頭にズシンと痛みが走る。鼓膜の奥で、自動車事故の瞬間のようなクラッシュ音が響く。
静かだった。
現実がすみかの視界から追い出され、意識から消える。
その一瞬のあと、戸惑い、困惑の表情を浮かべながら、スマートパッチを何度もタップする人々のざわめきが、ゆっくりと戻ってきた。
「行こう!」
瑠以がすみかの手をとり、すみかもその手を握り返した。そのとき、耳慣れないプロペラ音が辺りに鳴り渡った。
四つのプロペラが付いた小型の黒いドローンがすみか達の頭のすぐ上に飛んできて、その場でホバリングを始めた。辺りを見回したが、操縦者らしき人は見つけられない。
ドローンの底に取りつけられた三本のアームが、何かを抱えるように支えている。そのアームが突然開き、無数の紙吹雪が雪のように風にあおられ、舞い散った。
「これ、バーチャルステッカーじゃん!」
すみかの近くにいた小学生が、友達にささやくのが聞こえた。
すみかが床に落ちた紙を見ると、それはポップなカラーで描かれたステッカーだった。イラストは何種類かあるようで、地面に散らばったステッカーはみんなちがうデザインだった。狼を食べる羊。煙草を吸う修道女。空っぽの衣装箪笥。
「ただの絵しか見えないけど、拡張現実機能がプリントされてて、カメラとか、デジタルデバイスに映したときだけ、書かれたメッセージがでかでかと表示されるんだよ」
一枚拾って鞄のポケットにつっこむと、すみかは瑠以をふり返らずに走り出した。
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