#5 アイ・アム・ハム

 次の日、世界史室でお昼を食べながら瑠以に昨日の話をすると、瑠以は他人事のように爆笑した。

「っていうか見回りって、部屋の中まで入ってくるんだ」

「そうだよ。本当にヒヤヒヤしたんだから」

 でもちょっと楽しかった、というのは黙っていた。瑠以に言ったら、調子に乗りそうだからだ。

「でも、あともう少しなんだよねー」

「もう少しって、何が?」

 瑠以は笑って黙った。気まずい沈黙が流れる。

「……別に言えない理由があるなら聞かないよ。でも、言えない理由が私にあるなら、そう言ってほしい。もしそれが、私が……私がアーラ」

「そうだなー」

 瑠以は悩むように頭をかいた。

「すみかにだけは教えてもいいかな」

「え?」

 その日の放課後、授業を終えるとすぐに、すみか達は寮の部屋に戻った。そしてベランダから非常階段に移動する瑠以のあとを着いていくと、到着したそこは、意外にも寮の屋上だった。

 普段屋上は施錠されていて、生徒は立ち入り禁止だ。だが、校舎からではなく外の非常階段から昇っていくと、足で簡単にまたぐことのできる低い柵があるだけなのをすみかはそのとき初めて知った。

「たかーい!」

 すみかはハイテンションで、屋上の真ん中に立ってくるくると回った。

 水色のフェンスに囲まれた、広々とした無骨なコンクリートの床。頭上には遮るものがない大きな空が浮かんでいる。

 どうして人は、見晴らしの良い風景を見ると、こんなにも気分が高揚するのだろう。

 くっきりと地平線を形作る遠くの山々の輪郭を見ながら、すみかは小さく息を漏らした。

 ひと息つくと、奥にある貯水タンクの前で、瑠以が「こっちこっち」と手招きをしているのに気づいた。貯水タンクの裏には一人用の小型の簡易テントがあった。テントの中には持ち運び用の小型パソコン、釘とレバーのようなものがついた謎の装置、つまみやボタンがたくさんついたオーディオ機器のようなものなどがごちゃごちゃと置かれ、その隙間を這うように大量のコードがテントの床を隠すように乱雑に置かれていた。さながらレトロな秘密基地、という感じだ。テントの外へ伸びるコードをたどると、貯水タンクの上に一本の長いアンテナが空を突き刺すように伸びていた。

「私、ハムなんだ」

 アンテナの位置を変えようと手を伸ばしながら、瑠以が言った。

 きょとんとするすみかを見て、瑠以はごめんごめん、と笑いながら謝った。

「ハムっていうのは、アマチュア無線をやっている人のこと」

 インターネットやデジタル回線の一般化に伴い、一時は廃れてしまったその趣味が、最近話題になったカンボジアの恋愛ドラマで再び脚光を浴びていることはすみかも知っていた。地球の裏側の誰かと繋がること自体は今やワンクリック、かかる時間も数秒で実現可能だが、だからこそアマチュア無線の相手を選べないランダム性や、同じ瞬間を共有しないと成立しない偶発性、最適な気候条件に左右される困難さなどがロマンチックな小道具となるのだろう。

 すみかがオーディオ機器だと思った機械は、無線を送受信する無線機で、謎の装置はモールス符号を送る電鍵と呼ばれる装置だと瑠以は説明した。

 瑠以の手ほどきを受け、ツー・トン・ツー、とつまみを上下に動かしてみる。

 すみかは子役時代に出演したパニック映画の中に、モールス信号を送るシーンがあったのを思い出した。

「I love you……恋愛ドラマだったの?」

「ううん。軍人の両親と、幼い娘の感動巨編」

 映画は十年以上昔のことなのに、意外と覚えているものだ。ありがちなお正月映画だったが、公開日前日に、夫婦役を演じた役者が実生活でも本当に結婚していて、かつ離婚調停中だという週刊誌の記事が出て、それが観客動員に影響したことで一時話題になった。

 ちなみにモールス信号のシーンはこれの連打だったので、これしかできない。

「すみかって、もしかして、国民の赤ちゃんって言われてた、あの″すーみん″じゃないよね?」

「誰にも言わないで!」

「えっ、本当に!?」

 子役として活動していたすみかは、事務所のほかの子役たちと比べても、かなりの売れっ子だった。だが、それももう過去のことだ。引退したのは数年前だし、成長し、面影こそあるが顔も変わったため、周りの人に気づかれることはほぼない。

 すみかは話題を変えようと、床に落ちていた英語の雑誌を「これ、何?」とめくった。真ん中辺りのページに三角の折り目がついている。

 「*The World’s 100 Most tough Women*」という見出しの横に、様々な年齢、人種の女性の写真が並んでいる。七年前の日付が入っている。

 瑠以は、ある人からのメッセージを受け取るために、この小さな屋上無線局を夜な夜なひそかに作っていたのだと打ち明けた。

「ある人って?」

 すると瑠以は、ブルーのフライトスーツを着た黒人女性の写真を指差した。その年の春に地球を飛び立った火星探査機ケパロス五十二号のクルー、*from Canada*というキャプションがついている。

「二年に一回、彼女からの無線が届くんだ」

「宇宙飛行士と知り合いなんて、すごい!」

「最初に出会ったときは、宇宙飛行士じゃなくて、科学雑誌の記者だったけどね」

「ふーん。でも無線って、海外からのもキャッチできるんだねぇ」

 すみかが感心していると、「宇宙だよ」と瑠以は事も無げに言った。

「……宇宙って、あの宇宙?」

 すみかが驚いて人差し指を上に向けると、「ほかにどの宇宙があるのさ」と笑われる。

「受信するだけならアンテナと無線機があれば、わりと簡単にできるよ。船にも無線機が積んであるからね」

 火星に人類が初めて降り立ったことから、二◯三◯年は惑星元年と呼ばれ、その時代からいくつもの世界有数のスタートアップ企業が、宇宙空間という文字通りのブルーオーシャンの覇者となってきたことは知っていたが、そこから数十年余り、すでに人類の無人機は銀河の至る所に進出し、数多の電磁波の中継地点が設置されていることは初耳だった。

「シュミレーション予測によれば、今年の五月二日の二十二時三十分〇五秒から、二十二時四十分十一秒の十分間、無線をキャッチすることができる。地球の自転と同じスピードで回ってる通信衛星とはちがって、向こうが地球との中継地点に最も接近したその十分間しか受信できないんだ。もちろんチャンスも一回だけ」

 すみかはまだ星が見えるには早い青い空を見上げた。あの高いところに浮かんでいる雲よりもさらに遠くの闇の中から、小惑星の隙間を縫って電磁波が飛んでくるのを想像した。スケールの大きさに頭がついていかない。

「五月二日っていったら、あと二週間しか、あっ……」

 すみかが立ち上がろうと貯水タンクに手を伸ばした拍子に、銀色のアンテナに指先が触れた。すると、無線機の針が一斉に左右に振れだした。それはすみかが離れると、正常な動作にすみやかに戻った。

「何だろう、故障かな」

「私、帰るね……」

「すみか、待って。どうしたの?」

 すみかはかぶりを振った。

「なんでもない。邪魔しちゃ悪いし」

「何かあったんでしょ。言ってよ」

「……それ、私のせいだと思う」

 瑠以がいじっている無線機を、すみかはゆっくりと指差した。

「すみかのせい?」

「私のせいっていうか、私のアーラ」

 アーラ症候群、通称アーラ。

 百万人に一人とも言われる希少難病レアディジーズの一つで、その主な症状は生まれつき普通の人々より多い五感などの感覚器の受容体が過剰発達を起こすことで起きるとされている。どの感覚器官が変容を起こすかは患者によって異なり、聴覚、嗅覚、視力の順に多いと言われているが、五感以外の変容ケースも稀にだが存在している。

 アーラ症候群の歴史は古く、古代ローマの医師ガレノスの著作にもその記述があるが、疾患として認識されたのは十九世紀に入ってからだ。それまでアーラは架空の存在、聖なる存在だった。

 数キロ先の会話が聞こえる聴覚。

 暗闇の中でも猫のように物を視認する視力。

 通常のヒトの五倍の受容体を持ち、分子の変化さえかぎ分ける嗅覚。

 これらは皆、実際にアーラ症候群と診断を受けた患者に備わっている実際の能力だ。世界各地の宗教における奇跡体験の三十パーセント、古今東西に伝わる異能譚の八十パーセントはこの疾患の患者が元となっているという学説も存在する。

 アーラのことを人類の進化した姿と唱える学者もいる。でもそれは、願望や妄想が作り出した、誰かにとって都合のいい世迷言だとすみかは思う。アーラでも、ほかの人と何も変わらない。むしろ、いいことなんて全然ない。

「昔ね、小学校の社会科見学で飛行場に行くのに、危ないからって、私だけ連れて行ってもらえなかったことがあったの」

 すみかはアンテナから十分距離をとった場所に膝を抱え、話し出した。小学校三年のときの思い出だ。

 代わりに近くの水族館に連れて行ってもらい、泳ぐラッコを見たのを覚えている。すでにイルカやクジラの飼育展示はもとより繁殖が禁止され数年が経っており、大型の海獣は3Dバーチャル水槽の中にしかいなかったが、飛行機よりはラッコの方が好きだったので、当時はむしろ嬉しかった。

「でもあとで気づいたの。危ないっていうのは、私じゃなくて、飛行機の方だったのかもしれないって。私の力が暴走したら、そのせいで電波が乱れたら、たくさんの人を危険にさらす。大きな事故に繋がるかもしれない。だから、私は水族館だったのかなって」

「そんなの、周りの大人の心配しすぎじゃない? だって、薬で抑えられるんだよね?」

 すみかはポケットのピルケースから、薬のシートを取り出した。二列合計十個の丸い黄緑色の錠剤が揺れている。

 近世ヨーロッパでは、アーラは悪魔と契約した人々と呼ばれていた。悪魔と契約し、与えられた特別な力。その力を使う代わりに寿命を削り取られていく。だが、噂はあながち間違いでもない。

 このケアルックという薬は、もともと別の脳神経系疾患の治療薬として開発されたが、アーラの過剰変容を緩やかにする効果が認められ、十年ほど前から治療に使用されるようになった。現在では、この薬の治療の効果により、アーラの寿命は飛躍的に伸び、二十歳前半までに大半の患者の過剰変容は消滅するとされている。

 アーラに関してわかっていることはまだ少ない。だから、この明浜学園が作られた。アーラの子どもたちを優先的に受け入れ、調査し、研究するために。小指のマイクロチップも毎朝の検査の義務も、アーラの生徒にのみ課せられる義務だ。

「じゃあ、すみかは、一千万円をもらって生まれてきた赤ちゃんの一人ってことか」

 感心したようにつぶやいた瑠以に、すみかは首をかしげた。

「どういうこと?」

「宝くじで一千万円が当たる確率がだいたい百万人に一人らしいよ」

「それだったら、一千万の方がずっと良かった」

「それもそうか」

 瑠以は納得したように肩をすくめた。

「でも不思議なもんだね。すみかが百万人に一人じゃなかったら、私が明浜学園を進学先に選ばなかったら、今こうして屋上で話すことも一生なかったのかも」

「瑠以はどうして、この学校を選んだの?」

 すみかは瑠以の小指をちらりと見ながら、訊ねた。瑠以の指に、マイクロチップを埋め込んだ手術痕がないことは入寮初日から気づいていた。学園には非アーラの生徒も在籍しているが、ここでのマジョリティは現実世界とは反対に圧倒的にアーラなのだ。どうして非アーラなのにわざわざこの学園を選んだのか、すみかは純粋に興味があった。

「特別な理由はないよ。家を出られることと、奨学金で通えること、その二つが叶ったのがたまたまここだった、ってだけ。私、両親が早くに離婚して、父に引き取られたんだけど、その父も私が八歳のときに亡くなって、それからは叔母夫婦に育てられたんだ」

「あ……ごめんなさい、その、家族のこと、知らなくて……」

 なんと言っていいかわからずにいると、瑠以はすみかを隣に呼んで、スマートパッチに動画を送ってきた。

「これ、私の弟、龍ノ介」

 幼稚園児くらいだろうか、小さな男の子がふわふわのパンケーキを口に塗りたくるように食べている。後ろで聞こえる瑠以や、ほかの人たちの笑い声に誘われ、不思議と頬が緩む。

「叔母夫婦が私を養子にしてくれたから、直接血は繋がってないけど本当に弟なんだよ」

 そう言って瑠以は得意げにスラックスの裾をまくってみせた。足首の「龍」と書かれたゴン太のタトゥーの意味をすみかは初めて理解した。

「最近はもうなんでなんで星人だよ。るいちゃん、なんでおひさまは海にしずんでもまた火がつくの? なんでてんとう虫はお空をめざすの? マジでずっーと聞いてくるから、全部ウソ教えて、叔母さんに叱られてる」

「駄目じゃん」

「叔母夫婦は私を本当の子どもみたいに育ててくれた。悪いことをすれば叱られたし、私に嬉しいことがあれば自分のことみたいに喜んでくれた。躾もかなり厳しい方だったと思う。スマートパッチも高校に入学するまで買ってもらえなかったし。本当の両親じゃないって、よく忘れるくらいだった。だから、私は本当に、みんなから幸せにしてもらってたんだ」

「うん」

「でも、やっぱり嫌なときもあってさ。自分では気にしてないけど、周りは気にするじゃん。人とちがうから、いろいろ言われたりする。無邪気に聞かれるときもあるし、はっきり悪意を感じるときもある。その度に、どうして私には、私を生んだ両親がいないんだろう、二人はなぜ私を置いていってしまったんだろうって、頭ではそんなふうに思っちゃいけないってわかってるのに、考え出したら止まらなくて、一人でよく、こっそり泣いてた。三人で過ごした頃のことも時間が経つにつれて忘れていくことの方が多くて、それがすごく悲しくて、辛かった」

 人は成長するにつれ、海馬の中で新しい脳細胞が作られ、その新品のニューロンでは古い記憶にアクセスすることができなくなる。脳の構造上、子どもの頃の記憶をすべてを覚えているなんて無理だから、それはしかたないことなのだけど、と瑠以は眉を八の字にして笑った。

「三人で暮らしてた頃は、近所の山にアンテナを持っていって、地球の裏側に住んでる人とやり取りしたりしたんだ。あ、二人の馴れ初めもさ、やっぱり無線なんだよ、ウケるよね。海を越えて、顔も知らない誰かからの応答を待つ。たまたま電波を拾った相手と仲良くなる。そうして出会った二人が結婚して産まれた身からすると、まあちょっとロマンチック過ぎて引くけどね」

「えー、まんまドラマみたいじゃん! 素敵だよ」

 すみかが言うと、瑠以は照れくさそうに笑った。

「昔のこと、あんまり思い出せないって言ったけど、でも無線機をいじってると、忘れたと思っていた思い出を、急に思い出したりするんだ。たしかに私には父さんも母さんもちゃんといたんだって思える。だからつまり……状況はちがうけど、私はすみかの気持ちがちょっとわかると思う」

 テントのファスナーの間から、オレンジ色に染まるこ空を見上げていた瑠以の横顔を見て、すみかは急に感極まってしまった。

 あわてて下を向くも、防水仕様の床にぽたぽたと涙が雫の形のまま落ちた。

「なんか、嬉しくなっちゃった」

「え?」

「私ね、自分の力のこと、ちょっと憎んだりしてたの。アーラなせいで、私も昔、いろいろあったから。手から電波が出るびっくり人間じゃなくて、普通の人になりたいのにってずっと思ってた。でも今、瑠以の話を聞いて、電波人間も悪くないなって思えた。だって、電波がさ、今も繋いでるんでしょ? 瑠以たち家族を。それで、その見えない糸は私と瑠以のことも繋いでくれた」

 瑠以は泣いてこそいなかったけど、照れ臭そうに笑って、鼻をすすった。

「すみか、ハグしてもいい?」

「もちろん」

 大きく手を広げ、すみかは瑠以を抱きしめ返した。初めて感じる気持ちがした。あたたかな空気がすみか達を包み、それは穏やかで懐かしい色をしていた。

「……ねえ今、瑠以、私の肩で涙拭いたでしょ?」

「拭いてないよ。鼻はかんだけど」

「は?」

 西の地平線に日が沈みかけていた。頬をかすめる四月の風からは、いつのまにか冬の尖りが完全に消えていて、茂る草木や花の香りがかすかに香っていた。

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