#2 生ハムどら焼きパン

 四限の数学が終わり、チャイムが鳴ると、一年B組の教室から生徒たちが蜘蛛の子みたいに繰り出していった。静かだった学校全体が一気にオーケストラが始まる前のコンサートホールのように騒がしくなる。

 すみかは朝、学食で買っておいた鮭おにぎりをリュックから取り出した。それを小さなトートバッグに移し替える。昼食は決まって教室ではなく、一つ上の階にある世界史の講義室で取ることにしていた。クラス担任の世界史教師が自由に使っていいと開放しているのだ。

 席を立とうとしていたら、教室の後ろの方から、

「待って、佐藤ちゃん!」

 と、男子生徒に呼び止められた。キュッキュッと上履きが床を鳴らす音が、どんどんと近づくにつれ、またすみかの心拍数は上昇した。

 朝の二の舞は踏みたくない。

 すみかはとっさに両手で顔を覆うと、小さく「……スイッチをオンに」とつぶやいた。

 そして、3、2、1……と心の中でカウントを数える。

 キュー。行け、すーみん。

「この中から一つ選んで」

 男子生徒はすみかの机の上でお菓子の空き箱を軽くふってみせた。空き箱の中には四角く折られた紙がいくつか入っている。

 言われた通り、その中の一つをつまみ、中を開くと「×」のマークが書いてあった。

「おっ、当たりじゃん。セーフ」

「……これ、何のくじ?」

 そっとささやくように訊ねる。大丈夫、ちゃんとしゃべれてる。

 「×」が当たりということは、「○」だと嫌な目に遭うくじなのだろうことは察しがついた。男子生徒はすみかの質問に、「寮の安全セーフティチームのメンバーを決めるくじだよ」と答えた。

安全セーフティチーム?」

「簡単に言うと、風紀委員みたいなものかな。メンバーに選ばれたら、就寝時間後に手分けして寮の中を見回りするラウンドチェックっていうのを不定期でやるのね。修繕が必要なところはないかとか、夜中に寮を勝手に抜け出してる奴はいないかとか、いろいろチェックするわけ。で、対策を話し合うミーティングを月に二回行う。四月に決めて、任期は一年間なんだけど、面倒くさがって誰もやりたがらないんだ」

「あー……なるほどね。じゃあ、ラッキーなんだ」

「めちゃくちゃラッキーだよ。俺、中二のときに一回やったけど、マジでだるかったもん」

 男子生徒は肩をすくめ、すみかに向かって歯並びの良い口元でニコッと笑いかけた。ぱちぱちと星でも飛んできそうな、キラキラスマイルだ。笑みを返しながら、初めてちゃんと顔を見たけど、この人、すごく顔が整ってる、と内心びっくりする。まるでアイドルみたい。

「あー、よかった」

 すみかの驚きをよそに、男子生徒はそう言って息をついた。

「うちのクラス、中等部からの奴ばっかじゃん。だから、佐藤ちゃんみたいに高校から来た子ともっと話したいなーってずっと思ってたんだ。やっと話せた」

「こちらこそ、話せてよかった。これからよろしくね」

「うん。じゃ」

 男子生徒がいなくなると、すみかは大きく息をついて、椅子に座り込んだ。

 本日のスイッチ、終了。

 すると、前の席の女子生徒がくるりと身体を回転させ、すみかをじっと見てきた。佐伯というダンス部の生徒だ。ピンクのアイシャドウが淡く塗られたくりっと瞳がじっとすみかの顔をとらえ、まばたきをするとあごラインで切り揃えたワンレンボブが一瞬揺れた。

「佐藤さん、意外……」

「へっ……?」

「もっと静かな子だと思ってた。中田瑞己相手に、堂々としゃべってたね」

「いや、えっと……」

 ブンブンと精一杯、顔を横にふる。おわかりいただけなかったかもしれませんが、めちゃめちゃ緊張しましたよ、と伝えたいのだが、うまく言葉にできない。

 だが、すみかの返事はどうでもよかったのか、佐伯はうっとりとした表情で、髪を耳にかけた。

「っていうか、ほんと瑞己ってジンカクシャだよね。明るいし、愛想いいし、人によって態度変えないし。田島とちがって」

 そう言って佐伯はちらりと教室の後ろの方を見た。すみかも、佐伯に向かって「うっせー」と声を投げつつ、まんざらでもない笑みを浮かべている髪の短い男子を見る。別の生徒に「言われてんぞ」と肩を小突かれている。たしか、あの辺はバスケ部のグループだ。

「佐藤さん、田中は駄目だからね。ムードメーカーの皮をかぶった、ただの声デカマンだから。それに比べて瑞己は完璧。でも完璧すぎて逆に怖いっていうか、なにか裏がありそうっていうか」

 すみかはまだ教室の後ろの方をみていた。すると、すみかの視線に気づいたのか、田中のとなりに座った瑞己が「ん?」と少し首を傾げた。なんでもないという風に首を横にふると、ニコッと微笑み、弁当を食べ始めた。

「ねえ、佐藤さんはどっちがタイプ?」

「えっ」

 予想外の質問に、すみかが答えに詰まっていると、後ろから低い笑い声が聞こえた。

「彼、マジ爽やかだよね。うちのクラスの女子からも人気ある。うわー爽やかが服着て唐揚げ食べてるー」

 そのニタニタとした棒読みに、すみかは思わず笑顔でふり返った。

 パープルのメッシュが入ったカーリーヘアの女子生徒が上履きを履いたまま、すみかの隣の机にあぐらを組んで座っている。スラックスの先から覗く足首に龍のタトゥーがちらりと見えた。彼女はすみかを見て、唇の端のピアスを赤い舌でチロリと舐めた。

「瑠以!」

「ねえ、すみかのそれ、こっちの生ハムどら焼きパンと交換しない?」

 工藤瑠以くどうるいはすみかの鮭おにぎりを指さし、もう片方の手でラップに包まれた丸いパンにどら焼きと生ハムが挟まったパンをゆらゆらと揺らして見せた。

「なにそのパン。自分で作ったの? ドン引きなんだけど」

「どう?」

「絶対やだ」

 すみかが答えると、瑠以は片方の口角だけ斜めに上げ、佐伯の方を見てフッと笑った。佐伯は何も言わず、瑠以を一瞥すると前を向きなおった。

「すみか、お昼食べに行こ」

「あっ、うんっ」

 となりのクラスの工藤瑠以は、寮で同室の、すみかが高校に入学して初めてできた友達だ。波長が合っているのか、なぜか瑠以と話すときは不思議と緊張しないので、授業中以外はいつも一緒にいる。

 すみかはおにぎりの入ったトートバッグを掴むと、先を歩く瑠以の後を追いかけた。


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