第1章 軌道なんて無視して迎えにいくから、わたしを置いていかないで

#1 モーニング・ルーティン



「佐藤さん――佐藤すみかさん!」

 すみかがぼーっとしていたら、薄ピンクの白衣を着た森里奈もりりなが両手を腰にあて、まるでマンガの「怒ってる人」の見本みたいな感じで仁王立ちしていた。眉間にしわをよせているものの、その姿はいまいち迫力に欠ける。ほかの生徒たちが「森先生」ではなく、「もりなちゃん」と呼ぶ理由もよくわかる。

「ほら、佐藤さんの番よ。後がつっかえてるんだから、早く入って」

「す、すみません」

 すみかはあわてて、右手の小指を出入口の近くの壁に取り付けられた電子端末にかざした。小指にはマイクロチップが埋め込まれていて、その中にはすみかの学内IDが記録されている。音もなく開いたガラスの自動ドアから、CAL――チェックアップ・アーラ・ラボに入る。

 壁も床も白という宇宙船チックで無機質な室内で最も目を引くのは、壁際にズラリと並んだ検査装置だ。一番奥に置かれた緊急時脳保全カプセルといい、それらはすべてメーカーの最新製品で揃えられており、いつ見ても圧巻だった。そしてその機械たちの間を、途切れることなく鳴り続ける通知音に操られるように、白衣にマスク姿の大人たちがタブレット端末を片手にせわしなく動き回っている。その姿は学校の保健室というより、さながらどこかの企業の研究室だ。

 朝一番、校舎に着くなり、まず向かうのがこのCALだ。決められた検査を行い、それから学食で朝食をとる。今日は寝坊したから、朝食には間に合わないかもしれないけれど。

 すみかは上履きを脱ぐと、出入口の一番近くに置いてあるバイタル計測器の台に乗った。待っているとすぐに計測が開始されるので、三秒間、深呼吸を繰り返す。それが終わったら、ステンレス製のスツールに座り、左手のワイシャツのカフスボタンを外して腕まくりをし、腕を注射台に乗せる。入学式からまだ二週間しか経っていないが、毎日やっているのですでに慣れたものだ。

 となりの椅子で、里奈が別の生徒の採血をしている。

「ちょっとちくっとしますよー」

「それ昨日も聞いたー」

「毎日みんなに言ってますからね。一日五十人だから、一か月で千回、一年で一万回は言ってますね」

「計算はやっ。もりなちゃんってば、賢いね」

「これでも一応、医師免許も持ってますので」

 ガラス製のスピッツに採取した血液を移しながら、そう里奈はわざとすまし顔をしてみせた。

 CALで働く白衣の大人たちはSD――スクールドクターと呼ばれる。養護教諭ではなく、医師免許を持つれっきとした医師で、生徒たちの日々の体調変化を見守り、必要な場合は治療も行う。また研究者としての一面もあるらしい、のだが、中でもこの「もりなちゃん」こと森里奈は、小柄で華奢な、小動物を連想させるかわいらしい見た目もあってか、生徒たちに軽口を叩かれがちだ。慕われているというか、ちょっとナメられているフシがある。まあ、高校生なんて、年の近い大人はみんなナメてるんだけど。

「ねー、もりなちゃん、この検査って、毎日やらないと駄目なの?」

「そうですよー」

「えー、めんどくさーい」

「そんなこと言わないの」

 里奈は検査結果を印刷しながら、たしなめるような口調で言った。

「あなた達は、ちょっとの変化でも見逃すと大きなトラブルになるの。悪い芽はさっさと摘んでおくに限るのよ。ね、佐藤さん」

「あ……えと……」

 急に話をふられ、すみかは頭の中が真っ白になった。

 顔が熱くなり、耳まで赤くなっているだろうことは、鏡を見なくてもわかる。お助けAIが心拍数の上昇を知らせるメッセージを何度も発する。

 すべての検査を終えると、すみかは逃げるようにして検査室を出た。後ろで、次の生徒の名前を呼ぶ里奈の高く通る声が聞こえる。

 階段まで来て、すみかはため息をついた。

 昔から親しくない人と話すのが苦手だ。

 誰かと何気ない会話をするにも、事前に準備をしておかないと上手く話せない。

 ほかの人のように、もっと気軽に言葉が出てきたらいいのに。

 ふと、窓ガラスに映る自分と目が合った。

 肩の高さで切り揃えられた直毛の黒髪は毛先が跳ね、顔には雨に濡れた捨て犬みたいな八の字の眉と深い眉間のしわが刻まれている。地味で、自信のなさそうな顔の女子がこっちを見ていた。

「……あっ、寝癖!」

 一旦トイレに行って寝癖を直すか、このまま学食にで朝食を食べるか、一瞬迷ったあと、すみかは一番近いトイレを探してゆるやかにカーブした廊下を走り出した。

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