プロローグ
プロローグ
空から卵が落ちてきた。
それは、この春から通い始めた新しい学校へ行く途中だった。
すみかは自転車を漕いでいた。主流のソーラー式デュアルモーターはおろか変速ギアすらついていない、いたってシンプルなミニベロだが、すみかのお気に入りだ。幅二.四インチのタイヤがコンクリートの地面を滑るように進んでいく。
手入れの行き届いた均一な芝生の丘を横目に、緩やかに蛇行した一本道を走っていると、それは突然すみかの視界に入ってきた。
前方で、上空から真っすぐと落ちてくる何か。
まるで地面がそれをまっすぐ受け止めるための軌道を空に向かって用意しているようだった。小さい頃に公民館で見た、月と地球を結ぶ宇宙エレベーターの映像を思い起こさせた。
それなのに、自転車の車輪はすみかの思考よりも速く回転し、一瞬でその場を通り過ぎてしまった。でも、視界の端に映ったそれはたしかに卵だったのだ。白くて丸い、鶏卵よりもひと回り分小さな、何かの卵。
自転車を止め、ふり返って見てもよかったのに、すみかは一瞬の判断でそれをしないことに決めた。そんな余裕などなかったのだ。ベッドで目覚めたのは、ついさっきだ。ベッドの脇に置かれた時計の針は、いつもならちょうど下駄箱で靴を履きかえている辺りの時間を指していた。ついた寝癖もそのまま、歯も磨いていない。玄関のドアを閉めたときにふたたび鳴り響いたアラームを止めたとき、こめかみにつけているスマートパッチのお助けAIは、すみかがそれまで四回分のアラームとそれに付随するスムーズ機能まですべてきっちり止めていることを骨伝導で淡々と教えてくれた。一言でいうと、遅刻しそうだったのだ。
すみかの住む学生寮から教室のある学園棟までは、森と急こう配の坂を挟んで約一キロの距離がある。学園の敷地はとても広く、説明会のときに新東京ドーム◯個分という聞き慣れた説明を受けたが、そもそも新東京ドームに行ったことがないから、一新東京ドームがどれくらいなのかよくわからない。一東京ランドならもう少しわかるのに。ともかくどうして校舎の裏に寮を作らないんだと毎日真剣に悩むほどには遠い。
あの卵、
すみかは坂道をのぼるため、ギアを変えながら、ふと思った。
落下と同時に地面に打ちつけられ、きっと殻は割れたはずだ。
中からは何が出てきたんだろう。ドロッとした卵黄? 目の見えない、濡れた小鳥? それとも、全然別のなにか? 地面はコンクリートではなく芝生の貼られた土だった。殻が割れていない可能性もある?
やっぱり遅刻してもいいから、止まって見に戻ればよかったかな。どのみち一分や二分遅れても、別に問題なんてないだろうから。
坂をのぼり切り、下り坂をブレーキなしで下ると、少し春めいた陽気になったとはいえ、まだ冷たい四月の朝の空気が制服のシルバーグレーのブレザーの中に入り込んで背中の汗を冷やした。やっと「∞」の形をした二つの円環状の校舎が見えてくる。曲線状の勾配の丘に突如現れる、真っ白に塗られた巨大な二つの桶みたいな建物、国立明浜学園高等部。
直す暇のなかった寝ぐせを今更気にしつつ、すみかはラストスパートを全力で漕いだ。
卵のことはもう忘れていた。
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