聖女なのに、趣味で書いた夢小説を神殿に置き忘れたせいで、なぞの天才官能作家として噂されるようになりました。

@KusakabeSubaru

本編

 アクエリアは幼い頃からすこぶる想像力がゆたかな子どもだった。


 一枚の道に落ちた木の葉を見てみどりにあふれた森を想像し、ひとりの可憐な娘を眺めて情熱的な恋の物語を連想するようなところがあった。


 そのような子は他にもいないわけではなかったが、アクエリアの空想する力は歳を取るほどに増していくばかりだった。


 やがて、彼女は木の葉を見ては冬枯れの森を思い、美しい娘を眺めては悲劇的な失恋のストーリーを思い描くまでになった。


 そうしてアクエリアはいつしかだれにも秘密のまま、幾編かの小説を綴りはじめた。


 『夢がたり、恋がたり』と名づけたその作品は、まだごく未熟な技ではあったが、それを書くことは単なる「想像」が明確な「創造」へと変質したことを意味していただろう。


 ただ、彼女はその卓越したイマジネーションにもかかわらず、極度の恥ずかし屋だったため、そのようにして書いた物語をだれにも見せようとはしなかった。ただ自分で書いて楽しんでいるだけだった。


 だれか読んでくれる人が欲しいような気もしたが、自分の臆病な内心の発露をひとに見せることなど考えられなかった。そのため、彼女はただただ悶々とし、いつか理想の読者が現れて自分の作品を賞賛してくれることを夢みた。


 しかし、また、それはただの夢に過ぎなかったので、決して叶うことはなく、さらに欲求不満は高まる一方だった。


 しかしまあ、そのくらいのことだったら良かったのである。


 彼女の書く作品の傾向が変わってきたのは、よわい十三歳にして、いくらか遅めの初恋を知ってからだった。


 恋をしたあいてはアクエリアが働く教会組織に毎日のように通っている、秀麗な面立ちの少年だった。


 アクエリアよりふたつだけ年上のその知的な少年は、青いふちのめがねをかけていて、いかにも賢そうに見え、そして、じっさい、きわめて聡明な知性のもち主だった。


 かれはこの〈聖導庁〉でもごく限られた選ばれた者しか至ることができない上級司祭への道を歩んでいたのである。


 また、かれはきわめてまじめで落ち着いた性格で、人に対して優しかった。恥ずかしがり屋でうまく離せないアクエリアに対しても、何かと親切に接してくれるのだった。


 アクエリアは仕事と勉学のかたわら、かれの落ち着いた色のひとみやほっそりとした指を思ってほうっとため息を吐いたりした。


 少年の名はバナビーズといい、それでアクエリアの小説における主人公の相手役は〈B〉という名前になった。


 バナビーズとはっきりそう書くことは彼女には恥ずかしすぎてできなかったのだ。


 アクエリアは自分の名前の頭文字を取った〈A〉という娘を主人公にして、かれとの恋の物語を書き綴った。


 その内容はしだいに過激になり、いよいよだれにも見せられないものになっていった。


 ちなみに、この世界には「黒歴史」という言葉はないのだが、アクエリアは自分が書いているものの恥ずかしさを十分にわかっていたし、もしその言葉を知っていたら、きっと「それ、それです!」といったことであろう。


 人並みの羞恥心があって良かったね、アクエリア。


 それから数年が過ぎ、彼女は十六歳にまでなったが、まだ〈A〉と〈B〉のふたりを主役にした、だれにも見せない恋愛小説を書きつづけていた。


 その頃にはバナビーズともいくらかしゃべる機会があったのだが、生来の恥ずかしがり屋の彼女にはそれ以上、かれに近づく術はなかった。


 バナビーズはどこまでも優しく接してくれたが、きっとそれはだれに対してもそうなのだろうと思った。だから、アクエリアの空想はいよいよ勢いを増すばかりだった。


 そうしてその頃には、〈A〉と〈B〉の恋は、ただれた肉体関係にまで至っていた。


 アクエリアは優しいけれどちょっと嗜虐的なところがある〈B〉が、〈A〉を一方でいじめながら他方で愛するところをそれは熱心に書いた。


 いつのまにか、幼い頃に拾われた〈聖導庁〉での彼女の地位はやけに上がっていたが、彼女にとっては想像の世界こそが真実であり重要だった。


 もしだれかが「もう少し現実に目を向けたほうがいいよ」と助言しても、彼女はまったく聞き入れなかったに違いない。ほんとうは聞き入れたほうが良かったのだが。


 そうして、それは忘れることができない、あるうららかな春の日のことだった。


 彼女はいつものように〈B〉が情熱的に〈A〉に囁きかけるところを内心で想像しながら、〈聖導庁〉の雑事を巧みにこなしていた。


 男子学生たちがそういう彼女の姿を見て、なんて清楚で可愛い子なのだろうと噂をしていることなど、彼女の耳には入らなかった。


 じっさい、彼女は自分がそこまで人の耳目を集めていることに、まったく無頓着だったのだ。


 どこの世界でも、オタクとは、しょせんそういうものであるのかもしれない。


 しかし、それでも、周囲は彼女の優秀さを放ってはおかなかった。だから、その日、アクエリアはひとり、最高司教のへやへ呼び出された。


 最高司教といえば、この大宗教組織のなかで、その上に立つのは聖女たったひとりという人物である。


 アクエリアは何かやらかしてしまったのかと怯えたが、まったく身に覚えはなかったし、友人たちも絶対に大丈夫だとなだめてくれたので、しかたなく、そのへやに入室した。


 そこに、神官長が立ったまま待っていて、しばらくよく意味のわからない埒もない話をくり広げたのち、優しく莞爾にっこりとほほ笑んで、いきなり言葉の爆弾を投げ込んできた。


「そういうわけで、おめでとう、アクエリア。アズラー女神の宣託があり、あなたが聖女であることが認められました」


「は?」


 このとき、アクエリアが気絶しなかったのは、ただ単に言葉の意味を正確に把握し切れなかったからだった。


 だから、つぎの瞬間、彼女は「えぇーっ!」と甲高く叫んでいた。まあ、そうだよね、いきなり組織のトップに持ち上げられたら驚くよね。


 でも、いままでまわりの話を右から左へ聞き流していたあなたも悪いんだよ、アクエリア。


 ◆◇◆


 聖女とは、アズラー女神の宣託によって薔薇王朝に生まれた女性たちのなかから選任される、国を守護する女性のことである。


 その祈りは不思議な力を発揮し、ひとの傷や病をあっというまに癒やしてしまう。


 また、ただ聖女がいるだけでも、作物は豊作になり、自然は豊穣なみのりをもたらすようになるのだという。さらには妖魅モンスターも減る。


 聖女とは、地上における女神の化身だともいえ、つまりはとほうもなく偉い存在なのである。


 まだ十六歳でそんな責任重大な存在になれといわれたら、それは困るよね。だから、アクエリアもそのとき必死に抗議したのだ。


「こ、困ります!」


「何が困るのですか?」


「わたしには聖女なんて務まりません! ムリです、ムリ!」


 両こぶしを握り締めてそう叫ぶと、神官長は何もわかっていない愚か者を説き伏せるような淡々とした口調で説明しはじめた。


「良いですか、アクエリア。聖女とは女神が選びたもうものであって、務まるとか、務まらないとかいったものではないのです。むろん、歴代の聖女さまはそれはそれは偉大な功績を残されてきましたが、そのなかでも最大の功績はただ聖女でありつづけられたということ。もしあなたがしたくなければ何もしなくても良いでしょう。しかし、聖女であることを拒むことはできません。もし、万が一にも拒めば、天災がつづき、この国は亡ぶかもしれません」


「そんなあ」


 孤児としてこの〈聖導庁〉にひき取られて十六年目にして、初めて、アクエリアは自分の運命を呪った。


 わたしに聖女なんてできるわけがないのに、女神さまも女神さまだ! いっそそう叫んでやりたいところだったが、むろん、じっさいには、恥ずかしがり屋の彼女にそんな真似ができるはずもなかった。


 だから、その後、彼女を聖女に仕立て上げる準備が粛々と進んでいった。そうして、ひと月のちには、それは神聖な儀式を経て、アクエリアは正式に〈聖導庁〉の頂点、国家の守護者である聖女の地位に就いていたのだった。


 ひとりの空想好きの少女がありえないほど高い地位に登ってしまったわけである。


 うん、人生ってほんとうに何が起こるかわからない。みんなも、気をつけて生きようね。


 しかし、聖女になって嬉しいことがたったひとつだけあった。ただの偶然か、あるいは女神の計らいに違いないと見るべきか、あの知的で繊細な少年が、ほかならぬ彼女のそば仕え神官として選ばれたのである。


「バナビーズさま!」


 驚き、歓び、照れるアクエリアに向かって、いまや少年から背の高い若者へとたしかな成長を遂げたかれは、どこまでも優しく、穏やかに告げた。


「バナビーズ、と呼び捨てになさってください、聖女さま。わたしはあなたさまにお仕えする身です」

 そういって柔らかに笑ったその顔が輝くようだった。


 「推し」に日常をお世話される。オタクにとって、ある意味で最高の夢が叶った瞬間である。


 かれの笑顔のまぶしさに、アクエリアは太陽の光を浴びた吸血鬼のように溶けて崩れるところだったが、どうにか耐えた。


 そうして、いまなお書きためつづけているあの小説は、この人にだけは決して見られてはならないとあらためて思ったのである。


 ところが。


 ◆◇◆


「ない」


 アクエリアは自分の顔いろがすうっと刷いたように青褪めていくことを感じながら、聖女に与えられたへやのなかの隅から隅まで必死にまさぐった。


「ない!」


 そうしてさらに〈それ〉を探しつづけ、どうしてもどこにも見あたらないとわかると、何か意味のわからないことを悲鳴のように叫んで、ひとり、寝台のうえに座り込んだ。


 つよい悪寒が全身に走っていた。そう、あの、つたない恋愛小説を書いた帳面がどこかへなくなっていたのであった。


 いつもそれを隠してある箪笥の裏には、ただうつろな空間だけがひろがっていた。


 そういえば、このところ、やけに忙しく、厳重な管理を怠っていたことを思い出す。


 だから、ありえない、あってはならないことに、あの帳面を放り出したまま外出してしまったのかもしれない。と、なると、へやを掃除する侍女に見られた可能性がある!


 どうしよう――。


 アクエリアはほとんどがくがくと震えながら、侍女にそれとなく聞いてみた。もしかしたら、どこかで数冊の帳面を見なかったかと。


 侍女は、いまにも気を失いそうな顔いろの聖女を不思議そうに見つめながら、指を一本立て、記憶を探るようにそれを振った。


「ああ、ごみ入れに入っていたものですか? 捨ててしまいましたけれど」


 このとき、そのまま気絶してしまわなかったアクエリアのことを、誉めてあげるべきだろう。


 彼女は、揺らぎ、崩れ去ろうとする世界をどうにかつなぎとめながら、いった。


「ああ、そう。わかったわ。ありがとう」


「もしかして、大切なものだったんですか? もしそうならいまからでも探させますけれど」


「ううん! 良いの! 良いから! このことはいますぐ忘れて。お願い。忘れてください」


「――はい」


 侍女は小首を傾げながら去っていった。


 アクエリアは、いくらかだらしなく椅子に座りながら、思考を巡らせた。そうか、あの帳面はごみ入れに混ざってしまっていたのか。


 どういうわけかはわからないが、だれにも読まれる心配がないのは、不幸中の幸いだった。


 そう、そこに書き綴った〈A〉と〈B〉の恋は、いまや、彼女の想像力の限りを尽くした愛欲の物語にまで至っているのだ!


 あれをだれかに読まれたら、死ぬ。死んでしまう。それに、もし、万が一にもバナビーズに読まれたりしたら、ただ死ぬだけでは済まない。木っ端みじんに爆散して、地上から消え去ってしまうと思う。


 しかし、その可能性はないのだ。あの帳面はごみに混ざって捨てられてしまったのだから。


 もちろん帳面が惜しくないことはないが、もともと自分以外には読む者もない話だし、内容はほとんど記憶してしまっている。


 すくなくとも最悪の事態は免れた。このときは、そう安堵したのだった。


 そうして、それから、ひと月ほどが過ぎただろうか。


 初春は終わり、花の盛りの時期が訪れていた。アクエリアは、あいかわらずなぜ自分が選ばれたのか女神その人に訊いてみたいと思ったりしながらも、どうにか聖女の公務をこなしていた。


 彼女が、かつて友人であり、仲間だった少女たちが庭の片隅に集まって何かくすくすと笑い合っていることに気づいたのは、ほんの偶然だった。


「どうしたんですか、皆さん」


 話しかけると、彼女たちは気まずそうに言葉を止めた。


 それでアクエリアのほうも気まずく、哀しくなって、思わず落ち込む。何か自分には聴かせたくない話だったらしい。


 聖女になっても自分たちは友人だと思っていたのだが、それはただの思い込みに過ぎなかったのだろうか。


「ごめんなさい、皆さん。わたしには話せないことなんですね」


「違います! 聖女さま、わたしたちはただ、小説の話をしていただけなんです」


「小説?」


 アクエリアはかわいらしく小首をかしげた。


「どんな小説ですか?」


「それが――」


 ひとりの少女が照れくさそうにもじもじとしながら視線を落とした。


「その、つまり、恋愛小説なんです」


「恋愛小説?」


 アクエリアは何かひどくイヤな予感がした。いますぐこの場から逃げ出してしまいたいという気持ちになったが、同時に、絶対にそうしてはいけないとも思った。


 小動物系オタクの直感、いな、本能とでも呼ぶべきものであったかもしれない。


「そう、最近、わたしたち女子生徒のあいだで流通している作品で、清らかな聖女さまにこんなことお伝えして良いのかわかりませんけれど、とても情熱的な恋の物語なんです。主人公は〈A〉という女の子と、〈B〉という若者のふたりで――」


「ちょっと待って」


 太陽がまぶしい。


 立ち眩みがして、世界が歪む。


「それは、まさか――」


「『夢がたり、恋がたり』という名前の作品です」


 アクエリアは今度こそ気を失ってその場に倒れたが、けなげな彼女の心臓はどうにか止まらなかったのであった。良かった、良かった。いや、ぜんぜん良くないか。


 ◆◇◆


 じっさいには、アクエリアが気を失っていたのは、ごく短いあいだのことだったらしい。彼女は庭の寝椅子にうえに寝かさられて、介抱されていた。


 友人たちが心配そうに彼女の顔をのぞき込んで来たので、あわてて、その場に立ち上がった。


「ごめんなさい、ちょっと、その、立ち眩みがして。貧血かな? そういうことって、ありますよね?」


「聖女さま、大丈夫ですか?」


「大丈夫です! 心配かけたのなら、ほんとにごめん。ね、そ、それより、さっきの小説のことですけれど――」


「ああ、『夢がたり、恋がたり』ですね」


 アクエリアのちいさな胸の奥で、心臓がひとつ大きく跳ねた。


 まちがいではなかった。どういうわけか、自分がだれにも秘密で書いたあの小説は、友人たちのあいだでひろまってしまっているらしい。


 もういちど気が遠くなりかけたが、どうにか耐えた。いまは気絶している場合ではない!


「あの、聖女さまが興味をもつような内容のものではないんですよ。決して下品ではないんですけれど、そのなんというか、情熱的すぎるというか。えっと、恋しあうふたりが愛を交わす場面がそれはくわしく描き込まれていて、凄いんです。わたしは、作者はきっと天才だと思います!」


「天才……」


「そう、天才官能作家です!」


「――え?」


 アクエリアは、色々とくわしく訊きたいことがあったが、その「天才」という言葉の響きに、ちょっと陶然としてしまった。


 でも、官能作家? たしかに、それなりにそういう場面はあるけれど、わたしはあくまで恋愛小説のつもりで書いたのに!


 そういってやりたいところだったが、もちろんできるはずもない。それで、とまどっているところを、友人のひとりがべつのふうに解釈したらしい。話していた少女を止めた。


「ちょっとあなた、聖女さまにこんな話、聴かせちゃダメじゃない。アクエリアさまは昔からこういうことに耐性がないんだから」


「あっ、そうね。ごめんなさい、聖女さまもこんな話、聴きたくないですよね」


 しかし、アクエリアは、焼けるような恥ずかしさに何とか耐えながら、その少女の衣服の袖を握り締めた。


「だ――」


「だ?」


「だれ? その、作者の方はだれなんですか?」


「あ、それが」


 その少女の表情が曇った。


「わからないんです。E教室の机のうえに置かれていたんですけれど、作者の名前は書かれていなくて、わたしたちは「なぞの方」と呼んでいます」


「なぞの方……」


 アクエリアは、そこまでが限界だった。彼女は少女たちに「ごめんなさい、気分が優れないの」とだけ告げて、その場を立ち去った。


 いったいどういうことなのだろう? 何が何だかわからない。そして、恥ずかしさで顔が焼けるようだ。


 ひとつだけわかっていることは、おそらく、何十人という仲間たちに、自分の小説が読まれてしまったということだった。


 そして、自分は天才として評価されているらしい。嬉しいとばかりはいい切れないが、一面で、長年の欲求不満が解消されたこともたしかだった。


 それで、いまやなぞの匿名天才官能作家として噂されるに至った聖女アクエリアは、自分のへやの寝台のうえに、重く倒れ込んで、その顔を覆い、ごろごろと悶え転がった。


 死ぬ! 死んでしまう!


 しかし、今回も彼女の心臓はどうにかこうにか持ちこたえた。そう、人間、いくら死ぬほど恥ずかしくても、そんな簡単には死んだりしません。


 ◆◇◆


 それから、数日が、表面上は何ごともなく過ぎ去った。


 そして、また、アクエリアの耳にも、しばしばなぞの天才作家〈A〉が書いた官能恋愛文学の傑作『夢がたり、恋がたり』の話が届いて来るようになった。


 ほとんどの場合、それは絶賛の評価だった。少女たちは、〈A〉の想いがいかに切なく伝わって来るか、そして〈B〉の残酷な愛撫がいかに素敵で夢のようか、ときに顔を赤面させながら語って来た。


 アクエリアは、作者として、嬉しくなかったはずがない。しかし、とにかく恥ずかしかった。これ以上、読まれることは耐えられない。


 そこで、彼女は、少女たちのあいだで流通しているその数冊の帳面を借りることにした。


 万が一にも、筆跡などから自分が書いたものと発覚したら耐えられない。魂が昇天してしまう。借りておいて、何か偶然を装って捨ててしまおう。


「大切にしてくださいね」


「ありがとう」


 ある少女から、広壮な教会の一画の、ひとけのない教室で、こっそりとなつかしい帳面を受け取ったアクエリアは、それを抱えて、思わずその場で読み直しはじめた。


 ひさしぶりに読み返してみると、それは意外に面白く、またエロティックで、ひとり、ひたすらに読み耽ってしまった。


 だから、その声が背中にとどくまで、昏いそのへやに、ひとりの若者が近づいて来たことになど、まるで気づかなかったのである。


「何をしているんですか、聖女さま?」


「きゃっ!」


 忘れるはずもない、その低い声。そこに立っていたのは、何と、他ならぬバナビーズ青年であった。


 かれは、若い神官が身につける複雑な刺繍が入った黒衣をまとい、何やら面白がるような顔で彼女を見つめていた。


 アクエリアはちょっと違和を感じた。何かがおかしかった。そう、かれはいつもまじめで、実直な性格で、こんな表情をする人ではないはずなのに。


 しかし、彼女の頭に浮かんだその疑問は、すぐにかれの言葉にかき消されてしまった。


「何をしているのか、と聞いているんですよ、聖女さま。もしかして、甘い官能小説を読み耽っていたりしたんじゃないでしょうね?」


「なっ」


 アクエリアは、唖然として、言葉もなかった。


 しかし、バナビーズは、いまや彼女をからかう意思を隠すようすすらなく、アクエリアに向かって、その長い腕をのばしてきた。


 アクエリア、まだ新米の可憐な聖女は、かれの腕のなかにすっぽりと抱えられるような格好になってしまった。


 は? ありえない。いったい何が起きているの?


「あ、あの」


「何ですか?」


「ひょっとしたら、バナビーズさまは、この小説のことをご存知なのですか?」


 いまにも消え去るような囁き声で訊ねると、バナビーズは、にっこりと、ちょっとした小悪魔のように魅力的にほほ笑んだ。


 いままでのかれの印象をまったく裏返してしまうような、それは怖ろしいほどの魔性の蠱惑に充ちた微笑であった。


 青いふちのめがねをかけたこの若者は、このとき、ぞっとするほど艶冶な美貌に見えた。


「知っていますよ。なぜ、知っているのだと思います?」


「わ、わかりません」


 アクエリアは近づいてならない距離にまで近づいて来たかれの顔から自分の顔を背けるのに精いっぱいだった。


 死ぬ! 今度こそ恥ずかしさで死んでしまう! バナビーズさまったら、いったい何を考えているの? これじゃ、わたしが書いた小説のなかのもうひとりのバナビーズさまみたいじゃない。


 しかし、バナビーズはそんな彼女のようすを平然と無視して、小首を傾げた。


「聖女さまは、そもそも、なぜ、ごみとなって捨てられたはずの帳面がこの教会のなかの教室に置かれていたのかわからないのですか? ほんとうに?」


「そ、それは、どうしてなんですか?」


「もちろん、ぼくが置いたからですよ。じっくりと中身を読ませてもらったうえで」


 そのとき、アクエリアの心臓は、ほんとうにいったん止まってしまったかもしれない。しかし、そのまま彼女が天に召されることはなく、それはふたたび動き出した。女神の祝福に幸いあれ。


 バナビーズは悪魔的に意地の悪い表情を浮かべたまま、彼女の長い黒髪を手に取り、そっとくちづけた。


 アクエリアの心臓が、またどきんとひとつ大きく跳ねる。


「捨てられるはずだった帳面をひらいて読んでみたのは、ほんの偶然です。でも、〈A〉と〈B〉がだれのことを示しているのか、ぼくにはすぐにわかりました。もちろん、作者がアクエリアさま、あなただってこともね」


 バナビーズの、奥深い知性と思慮をたたえたひとみが、かえるを目にまえにしたへびのような残酷さで、アクエリアの双眸を射抜いた。


 アクエリアは、羞恥でどうしようもなくなって、縮こまった。


 あの恥ずかしい内容を、人もあろうにバナビーズさまに読まれていたなんて! そこには〈A〉が〈B〉をいかに好きで大切に思っているか、綿々と書き綴られていたのに。


 それでは、自分の想いはすっかりバレてしまったのではないか。


「ご、ごめんなさい! どうか、わたしを殺してください!」


 アクエリアがそう求めると、バナビーズはちょっと笑った。


 このとき、かれは彼女が知っているいままでの生まじめな青年とはまったく別人のように見えた。


 その、彫刻めいて整っているといつも思っていた男らしい美貌は、いまやたしかに血が通って、ほとんどなまめかしくすらあった。


「可笑しなことをいうんだな。どうして、ぼくが愛しいあなたを殺さなければならないんです? ぼくの可愛い聖女さま」


「――え?」


 アクエリアは思わずバナビーズの顔をのぞき込んだ。そうすると、じっと見つめ返されて、思わずふたたび縮こまってしまう。


 バナビーズはちょっと呆れたようすだった。


「嘘でしょう? まだわからないの? そう、ぼくもあなたに恋をしているんですよ。ずっと、あなたがまだちいさい頃からね」


「うそ。そんな」


「だからずっとぼくは、何かとあなたに誘いをかけてきたのに、あなたと来たら、まるであいてにしてくれないのだもな。まして聖女になんてなってしまって、ぼくにはまったく気がないのだと、そう思っていましたよ。この小説を読むまではね」


 バナビーズは片手で何げなく帳面をひらき、〈A〉が縛りつけられて、〈B〉のひざのうえで優しく愛される、その、激しい場面をゆっくりと読み上げていった。


 それは物語のなかでも最もエロティックで、まさに極上の愛と官能に充ちた、倒錯的な性愛の極致を示す一場面だった。


 アクエリアは意識が遠くなるのを感じながら、恥ずかしさの限界にかぎりなく近づいていった。


 それにしても、かれのその低い声は、何と甘く、愛おしく響くのだろう!


 いつものかれとはたしかに別人のようではあるが、それでも、いまのかれもまた、たしかに、アクエリアが夢み、思い描いていた、ひとつの理想を示しているようだった。


 そして、バナビーズは、いまやゆでだこのようになってしまったアクエリアの耳もとでささやいた。


「いやらしいですね」


「ううう」


 アクエリアの水いろの目にうっすらと涙が浮かんだ。殺して。いっそ殺してください!


 しかし、もちろんバナビーズは彼女のその願いを叶えることなく、ただ、猫が獲物を嬲るように彼女を抱き締めた。


 かれはいかにも感慨深そうに目をつむり、まるでひとりごとのように語りかけてきた。


「ああ、ようやく手に入った。ぼくの天使。ぼくの太陽。ぼくの、聖女。ずっと、欲しくてたまらなかった。ぼくがいったいどれくらい、あなたのことを好きなのかわかりますか? ぼくは、あなたがまだぼくに気づきもしない、十歳の頃からあなたを知っていたんだ。あなたはとても魅力的で、いつも、よこしまな男たちに迫られていた。自分ではまるで気づいてすらいないようでしたけれど、あなたは、とても人気者なんですよ。それを陰で妨害していたのがだれなのか、もちろんあなたは知るはずがないですよね」


「そ、そうなんですか?」


「はい」


 アクエリアは、何とかなけなしの勇気をふり絞って、バナビーズを正面から見据えた。


「悪い人ですね!」


「そうだよ、ぼくは悪い男さ。そんなこと、わかっていたんじゃないの? 〈A〉さん」


 バナビーズの微笑はいよいよ意地が悪くなっていった。かれはほとんど陶酔するような声音で、アクエリアをからかい、その髪をさらさらといじりながら、彼女に迫って来た。


「ねえ、アクエリアさま、ぼくはいま脅迫しているんですよ。あなたに選択肢はふたつきりだ。このまま、永遠にぼくひとりのものになるか、それとも、この小説の作者であることを公開されてもっと恥ずかしい思いをするか」


 バナビーズの薄いくちびるが、アクエリアの白い膚にかぎりなく近づいていった。


「――ぼくのものになってよ、アクエリア」


 しかし。


 そのとき、アクエリアの感情の井戸が、ついに限界を迎え、爆発してしまった。


 彼女は、両手で顔を覆い、まさに子どものように思い切り泣き出していた。


 バナビーズがハッとしたように、彼女の髪から指を離す。


 アクエリアは、そのどうにも非力な腕でぽかぽかとかれの胸を叩いた。


「バナビーズさま、意地悪です! すごく意地悪! バナビーズさまなんて、嫌い! 大嫌い!」


「えっ。あ、その――」


 かれは、いまや、つい先ほどまでの魔性の笑顔がうそのようにおろおろと、腕のなかのアクエリアをもて余すようすだった。


「ご、ごめん。ごめんなさい。そんなに追いつめるつもりはなかったんだ。ただ、ぼくの気持ちを知ってほしくて」


「そんなの、わかったに決まっているじゃないですか。わたしが、いままでどんなにあなたのことを想ってきたのか、全部読んじゃったくせに! ひどい! ずるい! ええ、そうですよ、わたしはあなたに恋していました。昔から好きでした。あなたの優しくて親切で、賢くて気が利くところにいつも惹かれていました。あなたもわたしのことを好きでいてくれたらどんなに良いかと、空想して、妄想して、それを帳面に書いていたんです。気持ち悪いですか。気持ち悪いですよね! そうなんです。わたしは気持ち悪い女なんです。どうせあなたもそう思っているんでしょう」


「そんなことは――」


「そんなこと、あります!」


「う、うん。ごめん。それでも、ぼくはそういうあなたのことが大好きですよ、アクエリアさま。ぼくも、ずっと想像していたんだ。あなたとこういうふうになれたら良いなって」


 そうして、かれは何やら内心で決意したように見えた。


 ゆっくりと青いそのめがねを外すと、彼女のやわらかなくちびるに、自分のそれを重ね合わせる。


 小鳥がついばむような、優しい、遠慮がちなくちづけであった。


 アクエリアはそのとき、涙することすら忘れて、茫然と、かれのことを見つめた。


 このとき、初めてバナビーズの顔を見たようにすら思った。すっかり困り切って、どうしたら良いのかわからないといいたげな、ちいさな子どものような、ひとりの若者の顔。


 それで、アクエリアは、ほんとうなら彼女には出せるはずのない勇気を見つけられたのだった。


「わたしも、わたしもバナビーズさまのことが好きです!」


「うん」


「ずっと、ずっと大好きで、だから、だから――」


 それ以上は、もう言葉にはならなかった。アクエリアは、ただ、くちびるをぶつけていくようにしてかれにキスをした。


 バナビーズは、初めは驚いたようすだったが、やがて、そっと彼女の腰を抱き締めると、深く、深く、彼女のなかにかれの愛を刻んでいった。


 そうして、穏やかな夕陽がさし込むたそがれの一室で、〈A(アクエリア)〉と〈B(バナビーズ)〉とは、あたかもあの空想の物語をなぞるかのように、いつまでもいつまでも恋の甘い蜜を舐めあいつづけたのであった。

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