雪の陽

柚木澪

第1話

こうやって夜空を見上げたのはいつぶりだろうか。


1年前のあの日、私は全てを失った。

ずっとずっとそう思っていた。


あれは不香の花が辺りを白く染め上げる日のことだった。

珠希さんと冬の夜空を見に行って最寄り駅で別れたあと、私は襲われた。

犯人は私を虐殺することが目的らしかった。


「幸せそうなお前が憎い。」


それが私が全てを失った理由だった。


利き腕は肩の下から切られてしまった。だからもう私は自分の髪を結ぶことさえできない。

右耳は切られて焼かれてしまった。だからもう私は好きな人の言葉さえ聞き取れない。

右脚の肉は抉られて、前みたいに動かせなくなってしまった。だからもう私は野原の上を裸足で駆け回れない。

左手の薬指と小指は切られてしまった。だからもう私は結婚指輪をはめられない。


私に残ったのは命だけだった。

当たり前の日常も、幸福も全て奪われて生きるくらいなら死にたかった。

どうして殺してくれなかったんだと何度も恨んだ。

鏡に映る自分の目を見る度に犯人を思い出す。

私を絶望に陥れた犯人も、今の私みたいな虚ろな光のない目をしていた。


◾︎


今日はクリスマス。あれからだいたい1年経って、日常生活が送れるようになってきた私のことを珠希さんが外に連れ出してくれた。

久しぶりに見る駅前の景色は怪我をする前と同じはずなのに、私の目には違って見える。

前みたいにカツカツとヒールを鳴らしながら階段を上ることも、買い物帰りの荷物を両手に抱えて人混みの中を縫って歩くことも、できなかった。


「詩帆。はぐれないように気をつけて。」


珠希さんが私の指の欠けた左手を握る。


「ごめん。」

「なんで謝るの。」

「だっていっぱい迷惑かけちゃうから。」

「そんな事ないよ。ね、だから俺の事いっぱい頼ってくれていいから。」

「うん、ありがとう。」


珠希さんはどうして身体の欠けた私なんかと一緒にいてくれるのだろうか。

がちゃがちゃと鳴る右脚の補助具も、上手く使えない指の欠けた左手も、袖がゆらゆら揺れるだけの右腕も、ぐちゃぐちゃに焼け爛れた右耳も、全部気持ち悪くて醜いはずなのに。

こんな私と一緒に居たらまともな珠希さんまで後ろ指をさされて笑われるのに、どうしていつも私の手をギュッと握るの。


「詩帆。ほら見て、綺麗だよ。」


珠希さんに身体を支えられながら上を見ると煌めくイルミネーションに包まれた大きなクリスマスツリーが見えた。

もう二度と見られないと思っていたクリスマスツリー。去年、珠希さんと見に来た時に、また一緒に来ようねって約束したけど、そんな約束も私の腕と共にどっかに消えてしまったものだとばかり思っていた。


「ありがとう。約束覚えててくれたんだ。」

「当たり前でしょ。詩帆、今年も一緒に来てくれてありがとう。」

「うん。また来年も一緒に来てくれる?」

「もちろん。ずっと、一緒に来よう。」


珠希さんといる時だけは腕を失う前の自分に戻れる気がした。

自分の腕が無いことも、耳が上手く聞こえないことも全部忘れて、ただ目の前の幸福感だけに浸っていられる。

上手く力が入らなくて自分の足だけでは上を向けなくても、珠希さんが身体を支えてくれるから私は空を見上げられた。

来年も、いや、来年は、恋人としてこの場に2人で立っていたかった。

だけど、そんなことを醜い姿の私が願うことは烏滸がましいから、友達のうちの1人として隣を歩かせて貰えれば十分だった。

カッコよくて優しくて、誰とでも付き合える珠希さんが私を選ぶはずがなかった。

珠希さんのことが好きだなんて言えるわけがなかった。

こんな私に告白されて、大好きな珠希さんを不快にさせるぐらいなら、友達として2人で笑っていたかった。

もう恋愛なんて諦めた。こんな崩れた身体の人間が誰かに愛して貰えるはずなんてなかった。

もう私は一生誰にも愛して貰えなくて、恋愛なんてできないのだと、何度も何度も涙を流したけど、そんなことをしてもただ空虚なだけで無意味だった。

無くなった腕が生えてくるわけでも、崩れた顔が元に戻るわけでもなかった。

だけど、毎日涙を流しても、恋心までは流れて消えてくれなかった。ずっと大好きな珠希さんに愛されたくてたまらなかった。

どれだけ忘れようとしても、そのじくじくとした恋心が私の心の奥底に貼り付いて消えてくれなかった。

それならば、こんな醜い私に愛されて不幸になる人間がいないように、恋心を胸の奥に閉じ込めておくしかなかった。

だけど、どうか、珠希さんを恋う事だけは許して欲しい。絶対にその感情を表になんて出さないから、珠希さんを愛することだけは許して欲しかった。


「詩帆、脚、大丈夫?どこかに座ろう。」

「ありがとう。」


珠希さんは、どうしてそうやって私に優しくするのだろうか。

優しくされると胸の奥がキュッとなって幸福で心が満たされる。だからまたその優しさが欲しくなる。

優しさは麻薬だ。永遠に離れられない心を狂わせる依存薬だ。大好きな人に優しくされて離れられるはずなんかなかった。

私の恋心で珠希さんを不快にさせてしまうことくらい分かっているのに、それでも私は珠希さんのことが大好きだった。

だから、いっそのこと、私のことを突き放して欲しかった。そうしたら、この恋心も消えてなくなるかもしれないのに。


イルミネーションから少し離れたベンチに2人で座ってクリスマスツリーを眺めている、この瞬間が永遠に続けばいいのにと私は願った。

はぐれないように繋いだ手が、椅子に座っても離されなくて、それ以外の意味もそこに含まれていたらいいのにと恋う。


「ねぇ、なんであのお姉ちゃんには腕がないの?それに耳も無くて変だよ!」


小さな子供が私の前を通る時に隣にいる母親らしき人にそう聞いているのが聞こえた。

耳の傷は髪で隠しているつもりだったけれど見えてしまっていたらしい。


「こら!ああいう人を見ちゃいけません!あんたも悪いことばっかしてるとああなっちゃうからね!腕があることに感謝して生きなさい!」


「こういうの慣れてるから気にしないで。」


そう言う私の肩を珠希さんが抱き寄せてくれた。

慣れているから大丈夫と言ったものの、私の心はズタズタに傷ついて、涙が溢れてきた。

私は人から掛けられる酷い言葉に対する慣れなんか持ち合わせていなかった。

いつまで経っても心は麻痺しなくて、まだ癒えない傷跡を何度も切りつけられたかのように痛んだ。

この心無い言葉を掛けられる痛みに慣れたかったけれど、私の心はそこまで強くなくて、涙は止まらなかった。


「詩帆は綺麗だよ。」


珠希さんがそう言いながら私のことをギュッと抱き締めてくれた。珠希さんの腕の中は温かかった。優しさが傷跡を塞ぐように私の身体に広がっていく。

私のせいで、珠希さんのことまで嫌なことに巻き込んでしまって申し訳なかった。

どうして珠希さんはこんな私と一緒にいてくれるのだろう。私なんかと一緒に居なきゃこんな目に遭わなくて済むのに。


もしかしたら私は友達としてでも好きな人の隣を並んで歩いてはいけないのかもしれない。

だから私はこの珠希さんの優しさと決別しなきゃいけないだろうに、私にはそれができなかった。

ずっとこの優しさの中に包まれていたかった。

優しさを突き放さなくてはいけなくても絶対にできなかった。珠希さんの優しさの中でしか私は生きられなかった。


「ごめんね。私なんかのせいで、珠希さんまで巻き込んで。」

「別に俺はいいよ。だから詩帆は気にしないで。」

「せっかくのクリスマスなのに、ごめんなさい。」


来年はちゃんとした女の子を誘って行って、と言おうとしたけどどうしても言えなかった。

その言葉の代わりに私の目からは涙が溢れてきた。


「いいよ。詩帆とイルミネーション見に来れて俺は幸せだよ。」


そう言いながら珠希さんが私の涙を優しく拭ってくれた。

このヤドリギの木のようなクーゲルの下で口付けを交わしたかった。そうやって永遠の愛を誓いたかった。

だけどそんなことは叶わなくて、私たちは鮮やかな光を放つクリスマスの街を後にした。


去年までは電車で来てたけれど、今年は珠希さんが家まで車で送ってくれた。

家に着くとお姫様抱っこしてくれて、そのまま部屋まで運んでくれた。

もう私は誰かに助けて貰わないとまともに生きられなかった。私はこうやって珠希さんに迷惑をかけてばっかりだった。

それならば、死んでしまった方がいいはずなのに、私は死ねなかった。まだ、生きていたかった。

なんで私がこんなに目に遭ったかなんて考えても無駄で、ただただ目の前に残された現実と向き合って生きるしかなかった。

大好きな人に抱き締められて温められながら、冷たく残酷な現実の中で溺れていた。


「今日はありがとう。楽しかった。」


私は珠希さんにベッドの上に座らせて貰いながらそう言った。

身体をぐちゃぐちゃにされてから、楽しいだとか幸せだとかそういう感情で満たされたことなんてなかったけれど、今日だけは違った。

珠希さんに支えられながらクリスマスツリーを見上げた時、私は嫌なことなんかすっかり全部忘れてしまって、幸せだけで心が満たされていた。


「俺も詩帆と一緒に出かけられて楽しかった。ありがとう。」

「うん。でも、いっぱい迷惑かけちゃった。ごめんね。」

「いや、そんなことないよ。詩帆は気にしないで。」

「ほら、今だって結局1人じゃ歩けなくてずっと迷惑かけてる。私、ずっと誰かに迷惑かけてばっかりで、だけど、もう、こうやって誰かに助けて貰わないといけなくて、1人じゃ生きていけない。」


できるだけ哀しい雰囲気にならないように、必死に涙を堪えて笑顔を作りながらそう言う。

珠希さんの綺麗な瞳に写る醜い自分を見ているのが辛くて、私は目を逸らした。


「そんなに私の顔を見ないで。」

「どうして?」

「私の顔の傷跡、気持ち悪いんだもん。そんなの見たら絶対嫌われる。」

「俺がそんなことで詩帆のこと嫌いになると思うの?」


珠希さんはそう言うと右耳の傷跡にキスをした。

右耳の皮膚は焼かれて、もう感覚は残っていないはずなのに、そのキスは温かかった。

それから珠希さんは寂しそうな顔で私のことを見つめていた。

どうしてそんな顔をするんだろう。どうして、どうして。意味が分からない。


「俺は詩帆のことが大好きだし、傷跡がどうとかそんなことで嫌いになんてならないよ。」

「でも、私の傷跡、気持ち悪いでしょう?」

「そんなことないよ。詩帆はずっと綺麗だよ。初めて見た時から、今も。」

「でも、傷のない私の方が好きでしょ?」

「そんなことない。今の詩帆が何よりも好きだよ。ずっとずっと、詩帆のことが大好きだった。」


私の目から涙が零れ落ちた。

指のない左手だけでは涙は拭い切れなくて、珠希さんがその涙を拭ってくれた。


「ありがとう。こんな汚い身体なのに、好きだって言ってくれてありがとう。」

「あのね、詩帆。もうそんなこと言わないで。詩帆はこの世で1番綺麗だから。」


珠希さんが私の目を見つめ、左手を握り締められる。


「俺が一生詩帆のこと支えるから、だから、俺と結婚しませんか。」


私の頬を涙が伝っていくのが分かる。

それはこの1年何度も流した哀しみの涙じゃなかった。

その涙を手で拭うけれど、それでも止まらなかった。


「え、ごめん。泣かないで。」

「あの、ありがとう。すごく嬉しい。だから、これからもよろしくお願いします。」


そのまま抱き締めてもらって、優しく頭を撫でられながら、私はずっと珠希さんの胸の中で泣いていた。

その涙には今までの痛みも、苦しみも、喜びも幸福も全てが詰まっていた。

それでも、私は生きることを諦めなくて良かった。身体を焼かれ切り裂かれた痛みの記憶はもう二度と消えなくても、誰かを愛し生きる幸福がその傷を癒してくれるから。

私から腕を奪った人達は私から全ての幸せを奪いたかったのだろうけど、そんなことはできやしない。こうして私は人を愛し、人から愛され生きているのだから。

傷だらけの身体でも、私は誰かを愛し生きることを選んだ。

これは私の人生だ。絶対に誰にも私の人生を奪わせやしない。

だから、私の命をすくい上げてくれてありがとう。珠希さん。もう私は1人じゃないから。

私は遺された左腕で珠希さんの身体を抱き締め返した。



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