千々燦々

絵空こそら

千々燦々

 透明なポットが落ちる瞬間、世界がスローモーションに見えました。その刹那、私は現実よりもちょっと早く、ガラスの砕ける音を想像しました。ウインドチャイムが倒れたような音。果たしてポットは想像よりも騒々しい音を立て、あるものは大きい欠片、あるものは微小の欠片、あるものは千々に砕け、フローリングの上にその中身をこぼしました。とろりとした液体が、厚みを保ったまま床に広がってゆき、仕込んでいたレモンの輪切りは、打ち上げられた海藻のように、半を押したかのごとく点在しています。窓から差す朝日に照らされたその惨状は、いっそ美しくすらありました。

 手を伸ばすと、

「触らないで」

と鋭い声がしました。

 いつの間にか台所にタクミが入ってきていました。タクミはものも言わず、壁に背をもたせかけ、腕を組みながら、床に散らばったガラスとレモンをじっと見据えていました。寝起きだというのに、彼の目は冴え、ガラスの破片なんぞよりももっと鋭利でおそろしく、ひとつの温度も伝わってこないようでした。

 タクミは壁にぶら下げてある小さな箒と塵取りを掴むと、床の上をさっと掃き、欠片を一つのゴミ袋にまとめました。そして、レモネードで毛先のべたついた箒と塵取りもゴミ箱に捨てると、雑巾を濡らして床を綺麗に拭きました。

 一連の動作はまるで訓練されたように迅速で、一部の狂いもありませんでした。あっという間の出来事に呆けていた私は、やっとのことでお礼を言いました。

「怪我をされるほうが面倒だからです」

 タクミは雑巾を無造作にゴミ箱へ放りながら言いました。

「早く仕事を探してきなさい。こんなものを作って遊んでいないで」

 タクミは顔をこちらへ向けません。私は無意識に唇を噛みました。はい、と答えられたかどうか、それすらも覚えていません。

 朝食を摂る気になれず、着替えてそのまま家を出ました。マンションの廊下は、空気が凍ったように冷えており、仄暗い朝の光が淡い陰影を作っていました。

 外階段を降り、いつもの道を進みます。あと数時間もすれば、勤め人や学生や、犬を散歩させている人で賑わうこの通りは、今は冷厳な空気に沿うようにひっそりとしています。

 通っている就職支援センターは当然まだ開いていません。私は途中で脇道に外れ、街の隅にある河川敷まで歩いて行きました。

 粗い石混じりのコンクリートでできた階段を降り、途中で腰を下ろします。眼前に広がる川面は、あさぼらけの空をちらちらと反射させて光っています。

 私は見るともなしに、川と、川向こうにある家家と、仄明るい空を見つめました。そうして、ぼうっとしながら、今し方零してしまったレモネードのことを思いました。

 昨日、唐突に飲みたくなったのです。喉の奥につるりと滑り落ちる、冷たいレモネードが。その感触を思い浮かべ、私は無意識にごくりと唾を飲み込みました。

 手からガラスのポットが離れていく瞬間、私の脳裏には走馬灯のように、前の職場での出来事が駆け抜けました。

 私は昔から物覚えが悪く、人よりも仕事を覚えるのに時間がかかりました。それでも、なんとか同期についていこうと、片端からメモを取りました。小さなことから大きなことまで。それを後でまとめて、必死に自分の中に落とし込もうとしました。そうした努力が、タクミの目に留まったのでした。

 タクミはエリートでした。同期の中でも群を抜いて優秀で、昇進も一番早かったのです。

「私は段取りが悪いから」

「人よりも仕事が遅いから」

 私がそう言うと、タクミは

「でも自分なりに工夫して、時間内に終わらせているじゃないか。教えられた通り漫然とこなすのではなく、自ら問題意識を持って、より良い結果を生むのは極論、仕事ができるのと同義ですよ」

と言いました。

 私は嬉しかったのです。誰からも注目されているタクミが、私の頑張りを認めてくれたことが。私は俄然熱心に仕事に取り組むようになりました。それが一年前の話です。

 半年前、異動によって新しい上司が赴任してきました。彼女は部下の仕事の方法を統一しようとしました。その方が進捗を把握しやすいからです。私は多くの同僚とは違う方法で仕事を進めていたので、彼らに合わせるのに時間を要しました。当然、成績は落ちてしまいます。どうして仕事が遅くなったのか、上司は私と面談をしました。上司はいつも正しかったのです。だから、私は私が正しくないことを認めざるを得ませんでした。

 そうした問答が続くと、私は俄かに自信を失いました。私は無能です。他の人が普通に、正しく選択できることを、私は選べないようでした。

 毎朝、仕事に行くのが辛かった。その頃すでに昇進して他部署に異動していたタクミは、「意見があるなら自分の言葉で、ちゃんと上司に説明しなさい」と言いました。言えるはずがありませんでした。なぜなら、上司が正しいからです。私は間違っているからです。そう、上司に教えられました。「私にとって正しい」は、大多数には通用しないのです。ああ、でも、間違いだらけのまま正しさのなかにいるのは、少々身に堪えました。

 私はタクミに黙って退職願を提出しました。


 辺りはすっかり暗くなっていました。

 今日は結局就職支援センターに行きませんでした。町を散歩したり、図書館、カフェを巡ったりして、気づくと夜中になっていました。

 家に帰ると、微かにトントントンと規則正しい音がきこえました。タクミがキッチンで料理をしているようです。私は、彼に気づかれないよう、そっと部屋に入りました。しかし、その時包丁の音が止み、廊下のドアが開くカチャリという音がきこえました。彼は私が帰って来たことに気づいたのでしょう。私は暗い部屋の中で息を潜めていました。少しするともう一度カチャリという音がし、再びキッチンの方から作業音がきこえました。


 いつの間にか眠ってしまっていました。

 そっと部屋の扉を開け、廊下を進んでリビングに入ります。そこはすでにカーテンが開かれ、薄い陽の光が差し込んでいました。テーブルの上にガラスのポットと、簡素なメモが置かれています。

『僕が先に部屋を出ることにしました。残った荷物は使うか処分するかしてください』

 私は数分その文字を見ていました。ようやく目線を動かすと、透明なポットの側面にレモンの断面が張り付いているのが見えました。

 私はのろのろとグラスを持ってきて、ポットの中身を注ぎました。とろりとした液体と、輪切りのレモンが落ちてきます。グラスに口をつけます。すると、先日想像していた通りの感触が、つるりと喉を滑っていきました。

「おいしい」

と私は呟きました。その賛美の言葉はしんしんと冷えた空気をごく僅かに揺らし、やがて消えていきました。

 私はもう一度レモネードを飲み込みました。身体の中にそれが入ってくるのと引き換えに、目からぼろぼろと涙が出てゆきます。

 タクミはいつも正しい。

 でも、私は、もう一度彼に、味方になってほしかった。たとえ私が正しくなくても。

 レモネードの所為で甘く爽やかな嗚咽を漏らしながら、私は泣きました。私はこれ以上、レモネードを飲めないでしょう。差し込んできた陽の光がレモンを透過し、ポットの下にできた影がきらきら光り、とても綺麗でした。

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千々燦々 絵空こそら @hiidurutokorono

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