第276話 料理は冒険、そして、愛情
網戸越しに見えるのは夏空。
甲子園まで後1週間。
休日の昼下がり。
日陰はまだエアコンを付けなくても
やり過ごせる位に心地よい風が吹いている。
優雅にテレビ観賞を楽しんでいたら隣りで寝転がっていた茉梨がいつのまにかテレビにくぎ付けになっていた。
「ど・・し・・・」
何事かと尋ねかけて、画面の映像を見て慌てて勝は黙り込む。
絶対、間違いなく、次の言葉が読める。
「ねー勝」
「・・・・知らん」
「人の話は最後まで訊きなさい」
「今日、耳日曜日」
「今日は平日!水曜日!」
「俺的には休日」
「あたしにとっても休日さぁ」
「威張るなそこで!」
腰に手を当てた妻に突っ込んで重たい溜息を吐く。
「ドーナツ食べたくない?」
テレビでは、カフェのお勧め夏スイーツが特集されていた。
シンプルなドーナツに添えられた冷たいアイスクリーム。
生クリームとフルーツでデコレーションされたそれは茉梨に向かって”食べて”と訴えているらしい。
「・・行ってらっしゃい」
駅前のドーナツ屋まで片道約15分。
「そこをなんとか!」
「見てみろ、外」
カンカン照りの外を指差して勝はふたたびクッションに頭をうずめる。
こんなクソ熱い時間から出かけるなんて馬鹿げている。ありえない。
「ホットケーキミックスあるよね?」
そう来たか・・・・
「焼け」
「揚げようよ」
「・・・揚げてみ」
未だに揚げものが苦手な茉梨。
勝の提案に思いっきり難しい顔をしてそれから唸る。
「うーむ・・揚げるべきか歩くべきか」
諦めるという選択肢は元よりナシ。
「卵割ってー混ぜる混ぜる―。お砂糖適当ー。牛乳適当ー。あ、そだ。バターはチンしなきゃーね」
がちゃんばたんと台所で動き始めた茉梨。
お気に入りのエプロンをつけて気分はお料理教室の先生といったところだろうか。
なんでも楽しめるのが茉梨の良いところだと勝は思う。
茉梨がつまらなさそうだったことはこの10年ちょっとのうちに一度だって見たことがない。
”楽しめる”のは特技だしそれだけで人生は豊かになると思う。
物の捉え方ひとつで、見える世界があっという間に変わること。
茉梨から知らず知らずのうちに教わったことだ。
いつだって自分の少し前を歩く彼女。
まっすぐ伸びた背筋。
好奇心いっぱいの視線が向ける未来を一番近くで見ていられること。
それが、勝の誇りでもある。
もちろん、彼女に言ったことなど無い。
ただ、たまに羽目を外して無茶したりどエライ失敗をするのが悩みの種。
だから、いつだって勝は”安心して少し離れて見守る”ということが出来ないのだ。
茉梨が妊娠したと分かってから尚更。
過剰な心配は茉梨のストレスになることはこれまでの経験で重々理解している。
なので、適度な距離を保つのも大事。
”お好きにどうぞ”
けれど、いつでも手を伸ばせる距離にいること。
茉梨と出会ってから、ある意味器用になった気がする。
けれど、どうでも良くない人間と適度な距離を保つのはなかなか難しい。
常に側に置いておきたいと勝が心底思う相手は、天下無敵の天真爛漫自由奔放娘だったから。
テレビに視線を向けながらも、耳はしっかり台所の様子をキャッチしている。
「おー良い感じ!」
茉梨の嬉しそうな声が聴こえてきた。
「はい、ちょい待ち」
絞り袋に入れた生地を片手に気合いを入れる茉梨の後ろからキッチンの様子を覗き込んで勝が茉梨を抱き寄せた。
その手から絞り袋を抜き取る。
「起きるの?」
「しょーがないから起きましょう」
「しょうがないのか?」
ぐりんと振り向いた茉梨の額にキスを落として眉間のしわを親指で撫でる。
「しょうがなくない、なくない」
「そうでしょうとも」
「んでも、揚げるのは待て。何か心配だし」
「揚げる時には起こすつもりだったよ」
「・・・あーそうかい」
呟いて、コンロの下から油を取り出す。
茉梨が用意していた鍋に注ぐ。
その隣りで、小さく切ったクッキングペーパーに絞り袋で綺麗な丸を描いて行く茉梨。
「これってハートとかいけるかな?」
「さあ、大丈夫じゃねーの?」
欠伸しながら、器用に動く茉梨の手元を眺める。
基本大雑把。
けれど、こういうとこは器用。
感覚だけでなんでも適度にやってのけるタイプ。
「美味しいのできるかなぁ。アイスのっけて食べようねぇ」
「はいはい。見ててやっから揚げるの茉梨な」
「見守ると?」
「おっしゃる通り」
「冒険しろってことね!」
「料理はそこまで危険じゃないから」
たぶん、おそらく。
世間一般的には。
が、茉梨は
「あたしにとっては未知数デス」
と真顔で言ってのけた。
「そーでした」
やったことないことに挑戦するんだから。
頷いて勝が茉梨の頭を撫でる。
「はい。ママ頑張れ」
油があったまったのを確かめてから茉梨を促す。
「淵からそーっとね、そーっと・・」
慎重な顔でクッキングペーパーに絞り出された可愛らしいドーナツを油の海に泳がせる。
やがて甘ったるい匂いが部屋に広がった。
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