第279話 とうの昔から全部許してる
「俊哉君帰ってきてよかったねェ」
玄関のカギ穴にごちゃごちゃしたキーホルダーを沢山付けた我が家の鍵を差し込む茉梨。
後ろで待つ勝が携帯を開いて時間を確かめる。
日付が変わるまで後数十分。
「そーだな。ちーちゃんもこれでよーやく落ちつけるだろな」
ドアを開けて、真っ暗闇に右手を伸ばす。
壁にあるスイッチを見つけた。
「はいおかえりー」
「ただいま」
つっかけを適当に脱いで廊下に上がる。
半泣きの千朋が貴崎家に飛び込んできたのは午後22時前のこと。
”俊哉が帰ってこぉへんねん”
玄関先で立ち尽くす千朋。
いつも何かあると頼りにするのはこちらのほうなので。
(特に茉梨の妊娠以来)
あんなに心細げな千朋は初めて見た。
何事かととりあえず勝にだけ
”ちょっとお隣!”
と告げて、千朋を連れて秋吉家に戻って事情を聞いていたところに心配した勝が追いかけてきた。
貴崎家は、夕飯の片付けを終えてそろそろどっちかが風呂に入ろうかと思っていた矢先の出来事だった。
「お風呂もうシャワーでいっかぁ」
「そーだな」
「先入る?」
「んー・・・おまえひとりで平気なの?」
お腹が大きくなってきてからは甘えた茉梨が髪を勝に洗わせるのが日課になっていた。
昔から茉梨の髪を結っていたのでシャンプーもトリートメントもブローもお手の物だ。
ついこの間まで、別になんともなかったことが、お腹が大きくなるとあれこれ不便になってしまう。
しゃがむのも、座るのも。
下に落ちたものを取るのも億劫だ。
よく、太った人が動くのが怠慢になるというけれど、今の茉梨はまさにその状態。
問いかけてきた勝を見つめ返して茉梨がにっこり笑う。
妊娠中期に差し掛かり膨らんできだ腹を抱えて風呂場に向かう茉梨が
”髪洗うのしんどいー。長いことお風呂場居たらふーってなる”
と言ったことがきっかけだ。
もともと長風呂で、放っておけば小一時間は余裕で浴槽に浸かっている彼女。
入浴中に貧血で倒れられたら・・脱水症状で気を失って・・
勝の頭を過った最悪のパターン。
”俺が髪洗ってやるから”
慌てて言った時の茉梨の嬉しそうな顔。
”ほんとに!?ちゃんとトリートメントしてね”
”はいはい。わかった”
大切な体に万が一の事があってはならない。
と過剰に心配する勝を上手く乗せて茉梨はほくそ笑んでいたのだが。
さすがに、お風呂に入るたび”気分は?”と心配させるのは忍びない。
「アレね。しんどいってーかただ、甘えたかっただけ」
あっさり真実を告げた茉梨。
叱られるかと思いきや、勝は顔色一つ変えずに答えた。
「・・・・知ってる」
溜息を吐いて、リビングの明りをつける。
「え、知ってたの!?」
「分かりやす過ぎる位、期待した顔だったし。しんどいの半分、甘えたいの半分だろなと思ってたけど?」
「あー・・・ソウデスカ」
気づいてないと思っていた茉梨は色々と複雑な感情がこみあげてくる。
「いっつもお風呂上がり心配するから、ちょっと悪いなーって思ったのに!」
「・・・それとこれとは別。おまえが甘えたいの置いといてもやっぱり心配だしな」
「あたし置き去りかい!!」
「文句言うなって。ちゃんと毎日髪洗ってやってるだろ?」
「・・・そだけどもさぁ」
なーんか勝ってこーなんだよなぁ。
テレビのリモコンを取ってソファに戻ってきた勝の顔をじっと眺めて茉梨はしみじみ思う。
あたしが思ってる境界線と勝が思ってる境界線は物凄く違う。
癪だけど、あたしの上を行く。
懐の広さ。
じろじろと不躾な視線を向けられた勝が怪訝な顔をする。
「まだナニカ?」
「・・・あたしの、言って無いとこまでなんで把握しちゃってんのよ」
「・・・そぉか?」
「嘘を見抜くな、嘘を!」
「見抜いたけど、知らんフリしてただろ」
「そーじゃなくってさぁ」
「あのなぁ。そもそも茉梨は嘘吐けないだろ」
「え!!??」
「嘘吐こうとしても、すぐバレてるし。そもそも茉梨はあれこれ考えながら嘘吐くから分かりやすい。突けばすぐに白状するし」
「すいませんねェ」
案の定不貞腐れた妻の左手を握る。
眉根を寄せる茉梨の額をぴしっと指ではじいた。
「ふぎゃっ」
茉梨が相変わらず可愛げのない悲鳴を上げる。
空いた手で彼女の膨らんだお腹を撫でた。
「そーやって拗ねると思ったから付き合ってやっただろ。おまえがやることなんか、とうの昔から全部許してる。心配すんな」
なんだか、さらっと訊き流すのはものすごく勿体無い言葉を聞いた気がする。
耳の奥に響いた声。
「し・・・心配してないけれども」
「ならいいし」
「ってか、それ、あたしに向かって言ってる?」
「・・・・他の誰に言えと?」
意味不明という表情で茉梨を見返した勝に向かって茉梨はお腹を指差して見せた。
「この子に言ったのかと思った」
優しい声色。
愛情に溢れた表情。
触れているのは自分の体の一部なのに。
今さらのように
”こっちむいて”
と思ってしまった自分。
こんな風に思うこと滅多にないのにな。
確かめたがるのは勝の方だ。
茉梨の心の在り処を。
茉梨の居場所を。
茉梨の未来を。
結んだ糸をものともせずに駆け出して行くのはいつだって・・・いつだってあたしなのに。
「・・・子供に妬いてどーする」
呆れた顔をで勝が言って笑う。
「そーじゃないけど!」
ムキになって勝の腕を叩く茉梨。
明らかに拗ねた表情の彼女を見て勝が呟く。
「めずらしい」
それから、お腹を撫でていた手を茉梨の背中に回して緩く抱き寄せる。
少しずつお腹が膨らむにつれ、抱きしめる距離も変わってきた。
今は、この間に新しい命がある。
生まれてくるのを待っている新しい貴崎家の家族。
「一番はあたしでしょ!」
やたらと真面目な顔で言って茉梨がまっすぐに勝を見つめ返した。
「・・・どーだと思う?」
「質問に質問で返すのなし!」
「おまえがいっつもやってること」
「・・・」
自分で自分の首を絞めるとはこのことだ。黙り込む茉梨。
「いつもの反論は?」
「・・・ない!」
手も足も出ない。
ぷいっとそっぽ向いた茉梨の頬を撫でて勝が笑う。
「ねーのかよ・・」
「もーいい・・」
堂々巡りが始まりそうな予感に茉梨が先に切りだした。
立ち上がりかけた茉梨の腕を引っ張って勝がその耳元で告げた。
「そーだよ。最初っから、最後までな」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます