第278話 前髪とキス

明日は久しぶりに二人揃っての休みだ。


夜更かし決定なのはこれまでと変わらないが、茉梨の妊娠が発覚してからはとにかく全てにおいて体調優先だ。


翌日の予定は、当日の朝の体調次第ということにしてある。


気合を入れ過ぎると茉梨が寝不足になるからだ。


悪阻が収まるまでは有給で休んでいた茉梨も、最近は無理のない範囲で出勤している。


家に独りで居るのは手持ち無沙汰で淋しいらしい。


こちらとしては、家で大人しくしておいてくれるのが一番安心なのだが、今からあれこれ制限をかけて茉梨がストレスを溜める方が困るので、基本はご自由に、という態度を貫いている。


シフトが合う日は、送り迎えが出来るので安心だが、休日を丸一日一人で過ごさせる事になる時は、無理を承知でお隣の声を掛けて貰うようにしていた。


持つべきものはご近所さんである。


風呂上がりの俺は、冷蔵庫から冷えたペットボトルを取り出しながら、リビングで丸くなる茉梨に向かって声をかけた。


「まーつり」


「んー・・・」


「その姿勢お腹に良くないんじゃねェの?」


「だーいじょうぶだってば」


フローリングの床に広げた新聞の上に屈みこむようにして紙面を眺める身重の妻。


妊婦になった経験はないけれど傍から見ていると何と無く腹部が圧迫されているのではと思ってしまう。


まだ全く目立たない茉梨のお腹の中に息づく新しい命を思うと、やっぱり見過ごすことができなくて、俺は溜息交じりに彼女の後ろに回り込んで茉梨の肩を引き寄せた。


「勝、アツイ」


抱え込んだ丸い肩に顎を乗せると茉梨がちらっとこちら振り向いた。


「風呂上がりだから」


しれっと言い返して一向に彼女を離そうとしない俺に諦めたのか、茉梨が床から新聞を持ち上げる。


「なんだ・・テレビ欄見てんのかと思った」


「んー・・・何かねー。ママさんの子育てコラムのコーナーが面白いから読めって母ちゃんが言ってたからさぁ」


無事に初孫が生まれるまでは、矢野家総出で協力を惜しまないと豪語してくれている義理の両親の存在は物凄く有難い。


仙台の父親にも最近になってようやく報告をしたが、予想以上嬉しそうで安心した。


家族が増える事の偉大さをしみじみと実感する毎日だ。


「へー・・・母親教育されてんなぁ」


「でしょー。これまでちーっとも気にならなかったことが、色々気になったりするんだよねー・・・妊娠って不思議だわぁ・・・」


しみじみ呟いて紙面に視線を送る茉梨。


その横顔が”ママ”でびっくりする。


すっかり体重を預けた状態で膝の上に立てた新聞を読む茉梨の前髪をかきあげる。


「前髪伸びたなー」


「前切ったのいつだっけ?」


「さー・・・3週間は経ってるよな・・明日天気良かったら庭で切ってやるよ」


「んー。そーして」


さらさらと額を覆った前髪をうっとうしそうに払いのけて茉梨が頷く。


彼女の前髪を切るのが習慣になってからもうずいぶんと経つ。


とんでもなくアシンメトリーな変形前髪を作って見せた茉梨の手からハサミを取り上げてかれこれもう10年近く。


あの頃は、家族が出来るなんて想像したことすらなかった。


何と無く、茉梨はずっと傍にいる気がしていたけれど(家族になるとか関係なく)。


二人の間に子供が生まれるとか。


茉梨が”貴崎茉梨”になるとか。


自分がちゃんとした”大人”になってるかどうかすら危うい感じだったのに。


”人の親”かぁ・・・


「勝ー」


「ん?」


しみじみ思いながら茉梨を深く抱きこんだら新聞から視線をこちらに戻した彼女が俺の後ろにあるコタツテーブルを指差した。


「クリップとって。苺の」


「前髪止める?」


「うん。めっちゃ気になる」


左手でテーブルの上に置いてある苺の付いた髪留めクリップで茉梨の前髪を斜めに押さえる。


こうしてやると一気に茉梨が幼く見える。



どこか、高校生の頃のような懐かしい感覚を覚えた。


あの広い校内ではしゃいで過ごした3年間。


その軌跡の果てに今があるのだと思うと、本当にかけがえのない時間をあの場所で過ごしたのだ。





前髪を切るために向かい合った状態で珍しく大人しく目を瞑ってじっとしている茉梨を前に、なぜだかドキドキして。


けれど、その反面いつもよりずっと近い距離感と無防備な彼女の安心しきった表情に言いようのない焦りを覚えた。


規則的にハサミを動かす傍ら、頭の中では、この距離にいることを許されているのが自分だけであることを改めて実感してどこかホッとしてみたり。




静かな放課後の第二生徒会室でブラバンの演奏を遠くに聴きながら心は少しも穏やかじゃなくて。


俺の頭はぐちゃぐちゃで、言葉に出来ない色んな感情が入り混じっていた。


けれど。


今のように、ワケなく抱きしめる方法を当時の俺は知らなかったので。



前髪を払うフリをして、彼女の頬を撫でるのが精一杯だった。




★☆★☆



「なーに、どしたぁー?黙り込んで」


感慨にふける俺の耳に茉梨の声が響く。


「いーや・・別に・・」


生返事を返して茉梨の手から新聞を抜き取る。


コタツテーブルに放り投げて、彼女の横顔にキスを落とす。


肩から耳たぶに指を滑らせると茉梨が腕の中で身じろぎした。


「・・・なに?」


「んー・・・・可愛かったから」


「へ?」


いきなりの発言に茉梨が目を丸くする。


しまった・・・


思わず口を突いて出た本音に慌てて俺は


「苺のクリップが」


と言い訳を付け加えた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る