第3話 ブルーハワイ
「はーい!」
「・・・はーい?」
お手本のように指先まで真っすぐ伸ばして挙手姿勢を取った茉梨に、勝が読みかけの週刊少年誌から視線を上げた。
梅雨明け直後から大合唱を始めた蝉は、今日も中庭の樹に止って朝からずっと鳴き続けている。
そろそろ日差しが緩やかになる時間帯の筈なのに、真昼と変わらない明るい空に、洗濯物がよく乾くと主婦目線で感想を漏らせばよいのか、思春期真っただ中の高校生らしく、怠い暑いとぼやけばいいのか悩む所だ。
「今日のこの後のスケジュールを確認しまーす」
どこぞのアイドル事務所のマネージャーよろしく手帳を開く仕草まで付け足して、茉梨が言った。
「夜18時から、駅前の商店街で夜店探索ー」
「いや、聞いてねぇし。初耳だからそれ」
「あれ?言ってなかったっけ?」
「言ってねぇよ」
「まじかー。なんか言ったつもりになってた。でも、今日あんたバイト休みでしょ?」
「休みですけどー・・」
じゃないとこんな時間に教室で呑気に雑誌を読んでいない。
冷蔵庫の中身は週末の買い出しで潤っているし、タイムセールを気にして急いで下校する必要も無い。
となれば、日が翳って涼しくなるまでもう暫く教室でのんびしりしたって罰は当たるまい。
さっき買ったばかりなのに、すっかり温くなった炭酸の缶を持ち上げると、缶を濡らしていた雫が落書きと傷だらけの机にぽとりと落ちた。
実に高校生らしい放課後の過ごし方だ。
「お前それいつ訊いた?」
「ん?日曜日ー」
「今日何曜日?」
「木曜日ー」
日曜日は朝から茉梨を引き連れて、馴染みの商店街のスーパーに買い出しに出かけた。
暑さがマシな午前中のうちに買い出しに行かないと、帰路の途中でアイスがお亡くなりになるからだ。
手際よく安売り商品と、夏の定番である素麺と、調味料関係と、卵、牛乳、食パンをカートに放り込んで、茉梨が吟味したお菓子も何個か。
通りの肉屋で暑さに負けずにコロッケを上げる馴染みの店主夫妻からおまけ付きで今日のおかずをゲットして、はす向かいの八百屋で、キャベツやらなすやらを買い込んで、その間に茉梨を豆腐屋へ走らせて、厚揚げを買ってこさせた。
最近腰を痛めた二代目から、三代目へと代替わりした豆腐屋の店主は新婚で、店先に新妻が立っている事も多く、この界隈ではちょっとした有名人になっていた。
遠距離恋愛の末嫁いで来たという新妻は、初々しさ満点の可愛いらしい人で、あっという間に通りの店主たちのアイドルと化した。
高校時代の後輩だったという新妻は、都心の大学を卒業すると同時に嫁いできており、商店街の中でも一番の若手となる。
母親と同じかそれより年上の女性とばかり関わる日常の中で、定期的にやって来る茉梨と交わす会話が良い気分転換になっているようだった。
常連客の中でもひと際若い部類に入る茉梨の人懐こさは折り紙付きなので、勝も好きにさせている。
きっと彼女から、夜店の事を聞いたんだろう。
「荷物置きに家戻る?」
透明の手帳をぱくんと閉じて、茉梨がさあどうする?と視線を向けて来る。
「ええーっと、一応どっちの家って訊いた方がいい?」
「は?寝ぼけてんの?通りの夜店に行くのにうち帰ったら逆方向じゃん」
もうすでに茉梨のなかでは、勝と一緒に夜店に行くというプランが出来上がっているらしい。
選べる選択肢は、このまま時間まで学校でダラダラ過ごしてから向かうか、一度勝の部屋に荷物を置きに寄るか、のどちらかだ。
「俺の荷物はあってないようなもんだけど・・」
どうせ教科書は全部机の中、財布と携帯位のものだ。
ちなみにこの雑誌は次に柊介が読むのでそのまま机に放置して帰る。
教科書は机ストックなのは茉梨も同じだが、彼女の場合は財布と携帯の他に、いつ使うのか分からない数のピンやらゴムやらシュシュやらが詰め込まれたポーチと、見た目重視で選ばれた重たい手鏡と、四次元ポケット並みに多岐にわたる一口サイズのガムやら飴やらグミやらが入った巾着が入っているので、それなりの重さがある。
ちなみにこの中に、少し前までチョコが加わっていたのだが、淹れた事を忘れていた茉梨が、炎天下で放置した結果、銀紙で包まれたチョコが大洪水を起こすという事件が起こって、以来、チョコレートは秋冬限定になった。
今も茉梨の学生カバンからは、ほのかにチョコレートの匂いがする。
茉梨は開けるたびおなか空くーと笑う。
「はい!荷物は置きに行きたいです!あと、冷蔵庫のアイスも食べたいです」
「・・・お好きにどうぞ。んで、茉梨晩飯・・」
「あー、夜店でなんか食べて帰るってゆってあるー」
「だろーな」
「イカ焼きと焼きそばとお好み焼き、デザートに回転焼きと、綿あめと、かき氷でどーだ!?」
「摂取カロリー計算した?」
「歩くから!めっちゃ!」
「ほーう。調べてやろうか?」
「いいからー!余計な事すんなー!」
膨れ面の茉梨の頭をくしゃりとかき混ぜて、そろそろ行こう、と勝が立ち上がる。
「っはー待ちにまったデザートぉおおう」
はいおまち!と渡された冷たいカップを両手で受け取って、茉梨がうっとりと目を細める。
毎年恒例の夜店は今回も盛況で、家族連れや部活帰りの学生たち、仕事帰りのサラリーマンが、狭い通りを行き交っている。
商店街の店主たちがこの日ばかりはかき氷屋になったり、ヨーヨー釣り屋になったりしているのも面白い。
八百屋の店主に、シロップ増し増しでー!とお願いして、真っ青に染まった身体に悪そうなかき氷を横目に、勝は膨らんだ胃を押さえた。
茉梨の胃袋は本気で底なしだとこういう時実感する。
「まだ入るんだな」
あーお腹出たな、ま、いっか!と制服のウエストを開き直ったようにさするあたりが茉梨らしい。
もうちょっと年相応の恥じらいとか、な。とか無駄な事を言うのはとっくの昔にやめている。
「あのさ、知ってる?かき氷って水だから、水分だからね?」
砂糖で出来たシロップそんだけぶっかけたら、さすがに水とは言い難いんじゃ?とか、正論を言うつもりもない。
気まぐれに体重計に乗って、ぎゃーぎゃー騒いだら、翌日からアイス禁止令を発令するまでの事だ。
矢野家の両親は、子供は心身ともに元気ならなんでもよし!という大らかな性格なので、茉梨がふくふくしようが一切構うことはない。
激甘な父親に至っては、深夜であろうと嬉々として娘と一緒にアイスを頬張っている。
だから、ある程度の管理は勝(こっち)でしなくてはならない。
しっかしこんな食ってんのに、相変わらず胸だけは成長してない・・・
太ももやら腰回りに肉が付くタイプなのかもしれない。
そういう所も含めて、色々と残念なのだ。
どうでも良い茉梨の評価から思考を引っ張り戻して、勝は素朴な疑問を口にする。
「・・なんで今日はブルーハワイ?」
「んー涼しくなりたいから!」
楽しそうに宣言した茉梨の後頭部で、さっきひとつに結ばれたばかりのポニーテールがふわふわと揺れる。
今日は日焼け止め忘れた!と言っていたので、終日髪は下ろしたままにするのかと思われたが、日が沈んで、日焼けの心配がなくなったら、暑さに我慢が出来なくなったらしい。
トロピカルフルーツ柄の黄色いシュシュは、全力で夏をアピールしている。
これをかき混ぜたら、悲鳴を上げて結び直せとぼやくんだろう。
予告通り、イカ焼き、焼きそば、お好み焼きを、勝とシェアして平らげた茉梨は、まずデザートにかき氷を所望した。
イチゴ!と言うかと思ったのに、迷うことなく青いシロップを指差したのは珍しい。
「ふーん・・・」
「あれ?別のが良かった?」
どうせ氷も途中で飽きて、綿あめゲットだぜ!とか言い出すと読んでいたので、勝はかき氷を買っていない。
こうして何かをシェアするのはもう定番で、だから勝は茉梨といる時は必ずと言ってよいほど片手が空いている。
茉梨が別の何かに飛び込んでいく前に荷物を預かったり、もしくは押し付けられたり、勢い余って素っ転びかけた茉梨を拾い上げたり、抱えたりする必要があるからだ。
人間の順応性とはこうして成長していくらしい。
茉梨に関する危機管理なら、誰よりも自分が秀でていると悲しいかな断言できる。
「いやー。なんでも・・ほら、早くしないとほんとに青い水になんぞ」
「お、あぶない!」
勝の指摘に茉梨が氷をさくさくとスプーンで掬い上げて行く。
「んー・・・あっまーい」
大口を開けて氷を頬張った茉梨が、満面の笑みを浮かべた。
そりゃあ、シロップてんこ盛りだから。
うんうん頷いた勝の前に、青い氷が差し出される。
「はい!多めにしといた」
「そりゃどーも・・・」
照れるより先に口を開ける癖が染み付いている自分が嫌になる。
「・・・あっま」
「かき氷が辛かったら困るでしょーが。もっと?」
「ん、もういい。茉梨、前見な」
「あいあいさー!」
再びスプーンを氷の山に沈めた茉梨が一人前に返事だけした、その時。
「あれ、矢野?」
焼きそば屋台の前に居た制服姿の男子高校生のグループから声がかかった。
視線を向けた茉梨が、選択授業が同じ男子生徒に、にこっと笑って片手を上げる。
「おおー妹尾くーん。お疲れー。」
「お疲れ。矢野って家こっちだっけ?」
「んーん。違うけど来た」
「へえー?・・あ、そう」
首を傾げた妹尾が、勝を見止めて僅かに眉を上げる。
「氷いいね、それ、どこ売ってんの?」
「この先の、型抜きの隣ー。美味いよ」
「ははっ。凄い色。矢野、青くなってるよ」
口を指差して妹尾が目を細める。
指摘された茉梨が、あ!と声を上げて勝を振り返った。
「あたしだけ!?あんたは!?」
「俺そんな食ってねーよ」
「えええー一人だけぇ?」
何が面白くないのか不貞腐れた茉梨を見下ろして、勝が口を開く。
「もういらない?」
「綿あめいっとく?」
茉梨が次の提案をしたのが同時だった。
「やっぱり・・ん」
差し出した掌に、冷えたカップの感触。
またね!と妹尾に手を振って、綿あめの屋台を目指す茉梨の後を追いながら、勝は液体と化した甘い水を啜った。
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