第10話 primary
誰かの隣で安堵して眠れたのは、いくつの頃の事だろう。
家族3人で川の字になって眠っていた頃に見ていた借家の天井は、何となく今も勝の記憶に残っている。
けれどそれも今となっては遠い過去。
毎日見ているアパートの低い天井の方がもうすでになじみが深い。
☆☆☆
コンビニからの帰り道、のんびりと歩きソフトクリームを楽しんでいた茉梨の頭にぽつん、と雨粒が落ちた1分後には、霧雨が振り始めた。
「っぎゃー!さっきまで晴れてたよ!?」
昼下がりの住宅街を歩きながら、茉梨が最後の一口を無理やり頬張って両手を払う。
いつでも行けますよ?と視線を受けて、勝は頷いた。
「ソフトクリーム食い終わった後で良かったな」
じゃなきゃ今頃酸性雨まみれのソフトクリームが出来上がっているところだ。
「それな!おかげで走れる!」
答えた茉梨の頭に、脱いだパーカーを被せて勝が濁った空を見上げた。
そういえば天気予報は見ていない。
「通り雨だろうけど・・・」
「いいよ、走るよ!だってこの辺雨宿りできる場所なーい!」
確かにぐるりと視界を巡らせても、戸建ての一軒家と、ハイツが見えるばかりだ。
屋根付きベンチのある公園は通り過ぎてしまったし、こうなったらアパートまで走るのが一番早い。
本日はスニーカーの為、水たまりを避けて走り出した茉梨の後を追いながら、すっかりこれが日常化している自分に気付いた。
”まっさるくーん、あっそびーましょー”
今時の小学生でももうちょっと違う誘い方するんじゃないかと思うような誘い文句で、アパートに迎えに来た茉梨を寝ぼけ眼で迎える休日。
”あーとーでー”
”えええーあとでー?んじゃあ、ちょっとお邪魔しまーす。寝ててもいいよー。好きにする。あ、これ父ちゃんの出張土産ー明太子とー、明太子スナックとー明太子せんべい”
”福岡土産大量にどーも”
”お昼は明太子パスタが食べたいです”
ちゃっかりリクエストまでしてきた茉梨に、げんなりしつつ好きにしろと部屋に上げるのももう慣れた。
「洗濯物はー?」
「まだ何もしてないから大丈夫」
「おーラッキー」
面倒くさくて布団も干さずに来たが、正解だった。
揃ってアパートまで駆け戻って、錆び付いた階段の屋根の下でやっと立ち止まる。
フードを脱いだ茉梨の前髪に残る雨の雫を指で払うと、茉梨がプルプルと顔を振った。
「濡れてないな?」
走ったのは5分程だし、雨は相変わらず細い霧雨なのでさほど濡れていない。
「ん、全然平気ーありがとねーぃ」
笑った茉梨が、勝の濡れた前髪を同じように払う。
「いいよ、帰ってタオルで拭く」
「ドライヤーやったげよっか?」
「熱いから嫌だ」
「だってあんたいっつも半乾きなんだもん」
「ほっといても乾くからいいの。ほら、上がれ、雨が吹き込んで来る」
茉梨の背中を押して、ギシギシなる階段を上って懐かしの我が家までたどり着く。
鍵を開けて中に入ると、開けっ放しの窓が見えた。
起きてすぐに開けて、そのまま出て来たのだ。
「わー窓ーやばい!」
「いや、大丈夫だろ。茉梨そこのタオル取って」
「はいよー。わしゃわしゃする?」
「せんでいい」
椅子に引っ掛けたままのタオルを茉梨が玄関に向かって放り投げる。
受け取ったタオルで頭を拭いていると、茉梨が窓を閉めるのが見えた。
「霧雨で良かったねー、あー雨の匂いめっちゃする。母ちゃん今日は洗濯デーにするって言ってたけど、大丈夫かなー・・」
「おばさんが気合入れて家事すると大抵雨降るよな」
「それ言ったら母ちゃん泣くからねー」
家事が得意でない矢野母は、バリバリのキャリアウーマンだ。
家事は休日に纏めてするのが定番になっており、梅雨の季節には山積みの洗濯物を抱えてコインランドリーに車を走らせている。
そんな妻をニコニコしながら手伝って、余計な事をして叱られて、それでも懲りずについて回るのが、矢野父の日常だ。
「こないださー、商店街の福引で一等が最新のドラム式洗濯機だからって、気合入れて20連チャンしたのに全滅したって愚痴ってた。週末のまとめ買いも、いつもの大型スーパーじゃなくて、わざわざ商店街にお金落としたのにーって」
「ドラム式なー・・確かに洗濯乾燥機いいよなー」
「勝さん、すでに発想が主婦と同じ目線ですが」
「便利だろ?天気気にせず洗濯できるし、そのまま出かけれるしさ」
「タオルはふかふかーとか言うしねー」
一人暮らしなので、脱いだ服はそのまま洗濯機に放り込んで回すのが常だ。
洗って干したタオルをそのまま使うような生活なので、TVCMにあるような体験はしたことが無い。
「新しいタオル下した時にさ、ふかふかタオルにダイブするよ、うち。せーのでぼふん!と」
「あー・・やりそう」
きゃっきゃとはしゃぐ茉梨と母親の様子が目に浮かぶ。
同じ一人っ子同士なのに、どうしてこうも性格やら感覚やらが違うのかと不思議に思うが、理由は明確。
育ての親が違うからだ。
面白そうな事、楽しそうな事は、何でも率先して”一緒に”やってみようという姿勢の矢野夫婦は、茉梨の好奇心の赴くまま自由に育てて来た。
自分は愛されていなかったなんて思わないし、家族の在り方に疑問を抱いた事もない。
ただ、あの頃の両親は必死だったのだと今なら分かる。
勝が成長するにつれ出来た歪は大きくなり、簡単には塞がらなくなっていて、それを気付かない振りする為に、夫婦はさらに仕事に没頭していった。
当時の母親にとって家事は、一連の作業でしかなったのだろう。
そこに子供との楽しさを加えるような余裕は、彼女の中に無かった。
「今度天気良い日にさ、一緒にやろう!すんごい楽しいから!洗濯物入れるの楽しみになるから」
「あー・・だからお前未だに取り込んだ洗濯物の上に倒れ込むのか」
いつだったか、母ちゃんが外出先から直帰できるからお家ご飯しよう、と矢野家に招かれた事があった。
デパ地下で大量に勝と茉梨の好物を買い込んだ母親が帰宅した後、ゲームをしていた茉梨に、洗濯物入れてと指令を出した。
あいあいさー!と機嫌よくリビングに取り込んだ洗濯物の山を前に、最後に茉梨が飛び込もうとして、母親から寸でのところで止められるという出来事があった。
”皺になるからダイブ禁止!”
と言われてぶーたれた茉梨に、母親が週末にはリネン類纏めて洗うから!と話していた事を思い出す。
「だってもう癖なんだよ!あれは母ちゃんが悪い!刷り込みだから」
「ふーん・・・入れた洗濯物畳むなら考えてもいいけど」
「そこはじゃんけんで」
「おい」
呆れ顔の勝を横目に、茉梨が台所へ向かって薬缶に火を掛けた。
「お茶飲む人ー!」
「ほうじ茶のパックは棚の上、緑茶はティーパック」
「どっちが良いー?」
「俺はコーヒー」
「よし来た!爆弾コーヒー入れてやろう!」
「・・いや、普通のが飲みたいです、茉梨さま」
「ええー普通かー一番難しいやつだそれ」
「あーまーそうでしょうね、うん」
毎回様々な味の独創的なコーヒーを入れてくれるから。
間違いなく美味しいやつが飲みたいなら、自分で淹れるしかない。
インスタントコーヒーを取り出した茉梨の手から瓶を奪って入れ替わる。
「お前は何飲むの?」
「ほうじ茶、いっぱい飲むから多めに作って」
「んじゃ急須な」
「お願いしまーす」
後は任せたと居間に戻った茉梨の為に、急須にいっぱいのほうじ茶を用意して、自分用のブラックコーヒーを入れて、冷蔵庫に残っていたチョコレートと一緒に持って行く。
いつの間にか茉梨専用になったクッションを抱えて、畳んだ布団に凭れて膝を抱える背中に声を掛けたが返事が無かった。
「茉梨ー?お茶・・」
畳の上には開いたままの漫画が置き去りになっている。
こたつテーブルに持ってきたお茶セットを置いて、摺り足で茉梨の側に屈みこむ。
「まつ・・」
覗き込むと、茉梨が穏やかな寝息を立てて眠っていた。
矢野家でなら、何度も見た事のある寝顔。
完全に油断しきった無防備な顔を、この部屋で見る事になるなんて思ってもいなかった。
起こそうなんて、微塵も思わなかった。
「そっか・・」
ここは、お前にとって安全で安心な場所なのか。
あの日差しが降り注ぐ日だまりみたいに暖かい場所と同じ位に。
決して快適とは言えない小さくて古いアパートが、急に立派なお城のように思えた。
全部丸投げして、すとんと夢の世界に入り込める位、ここが気に入ってくれてよかったよ。
微妙な姿勢で寝苦しくはないのかと思ったが、横にした途端目を覚ましてしまうような気がして、それも出来なかった。
代わりに、さっき着せかけたパーカーで、もう一度茉梨の身体を包みこんでやる。
身動ぎ一つせず眠り込む娘を、重たいなぁと笑いながら抱き上げていた茉梨の父親に尊敬の念を抱きそうになる。
あの安心感は、きっと父親にしか出せない。
競り合うつもりなんてないけれど、どうすればこの穏やかな眠りを守ってやれるのかと、小さな疑問が浮かんでくる。
ふと、眠る前に母親がお腹を撫でて寝かしつけてくれた事を思い出した。
優しい眼差しと、温かい声。
よく眠れますように、と静かに紡がれる子守歌にいつも守られていた。
あの頃の母親は、こんな気持ちだったのかもしれない。
睫毛が影を落とす白い頬を眺めながら、そんな事を思った。
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