野分花魁が住み替えをした日、晴海楼の女たちは皆泣いた。白無垢どころか一張羅の振り袖さえなく、迎えに来る男や親もない。そんな旅立ちが晴海楼きっての花魁にふさわしいとはとても思えなかったからだ。

 とくに、花魁がかわいがっていた禿のこはまは、共に住み替えをすると行って聞かず、最後には花魁に頬を張られた。

 「花魁、行きましょうか。」

 彼女の住替えを唯一見送る役目を担った真澄も、彼女が豪奢な振り袖ではなく、質素なワンピース姿で晴海楼の前に立っているのを見て内心驚いた。

 花魁は真澄の驚きなど百も承知の顔をして、ええ、と短く頷いた。

 己の身一つでここまで成り上がった花魁にとって、華やかな振り袖と結い髪で生み出される幽幻なうつくしさは、一つの、そして最大の武器であるはずだ。

 その武器の一つも持たずに佇む彼女は、真澄の目にさえ涙を誘いかけた。

 晴海楼を20年にわたって支え続けた花魁が、花道の一つもなく町を出ていくのだ。

 「旅の支度はどうしたの。」

 手ぶらで立ち尽くす真澄を見て、花魁が半ば責めるように冷たい声を出した。

 「部屋は引き払ったし、金目の物は全部売りました。その金は持ってます。」

 真澄がポケットから金の入った茶封筒を取り出してみせると、そう、と花魁は軽く顎を引くように頷いた。

 「私を松風楼に売ったらそのまま行くのね。」

 「はい。」

 あなたと二人で歩くのって、初めてね。

 真澄と並んで桜橋への道のりをたどりながら、何気なく野分が言った。

 はい、と真澄は緊張気味に頷いた。これまでは野分花魁と外を歩くようなときは、いつも師が側にいた。

 「直巳のいそうな場所、思い浮かぶものは全部書いたわ。あれで結構感傷的な男だから、どこかにはいるでしょう」

 野風花魁は、小さなハンドバッグから、きれいに折りたたんだ和紙を一枚取り出して真澄に渡した。

 ありがとうございます、と頭を下げてから、真澄は着物のたもとに手紙をしまい込んだ。

 大丈夫よ、と、花魁が言った。

 目線は前に固定し、白いハイヒールでしっかりと地面を踏みしめて歩きながら。

 「直巳は死んでない。死んでないってことは、探せばどこかには必ずいるってことだし、それはつまり、どこかで必ず会えるってことだわ。」

 真澄も彼女に倣い、前を向いて下駄の歯で地面を踏みしめて歩きながら、たしかに一度頷いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

女衒真澄と三人の女郎 美里 @minori070830

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る