マッチで煙管に火を点け、深く紫煙を吸いこむ。

 落ち着かないと、落ち着かないと。

 そんな気持ちになるとき真澄が訪れるのは、今も変わらず桜橋のたもとだ。師が自分を拾ってくれた場所。

 橋の欄干に胸を押し付けるようにして、桜川の淀んだ流れを見おろす。

 師はこの橋の向こうにいる。たった一度の情交を、なかったことにしてやって行こう、などと言って真澄を地の底まで落ち込ませた男が。

 「……なかったことにしてやって行こう、か。」

 口の中で呟く。

 もう辺りはすっかり暗く、桜町の妓楼には華々しい明かりが灯っている。行きかう人並みも今日は金曜日のかき入れ時だ、大勢の男たちが桜橋を渡って行く。

 この橋を渡って、師に会いに行きたい。

 いつもの衝動だ。

 この先にいる大好きな人に、俺は会いに行きたい。

 けれど会いに行けないのは、なかったことにされたくない一心だ。

 なかったことにだけはしないで。あの夜を、すっかりなかったことにだけはしないで下さい。

 そう言えればよかったのに、言えなかった。

 煙管をふかす。肺の奥底まで煙をめぐらし、長く長く吐き出す。

 ため息。消えない慕情を葬り去りたい。

 「……真澄さん。」

 背後からかけられた声に、真澄はふらりとかしぐように振り向く。

 そこにはきちんと夜化粧をし、藤色の着物に身を包んだ浮舟花魁が立っていた。

 真澄は言葉に困り、ただ曖昧に頷いた。

 「ごめんね。」

 なぜだか女は真澄に詫びた。真澄は詫びられる意味が分からず、戸惑って目の前の女を見つめていた。

 うつくしい女だ。桜橋を行きかう男たちの視線が浮舟に集まる。いくらでも桜町で花魁として権勢を誇れる立場にあった女だ。それを、彼女は潤と暮らすために捨てたのだ。

 「潤が誘ったんでしょ?」

 短い問い。

 真澄には答えようがなかった。二万で寝てやると誘ったのは確かに潤の方かもしれないが、潤に直巳の面影を見て視線で誘ったのは多分真澄だ。

 答えない真澄に、浮舟花魁はぽつりと涙を一滴落とした。

 「そうだって、言ってよ。」

 そう言われてもなお、真澄にはなにも答えようがない。

 そうだと言ったら嘘になるし、違うと言っても嘘になる。

 黙ったままの真澄の肩を、花魁の白い拳が打った。

 大した力も入っていない拳が、とん、とん、と、何度も。

 「私、直さんのことなんか好きじゃなかったもの。」

 涙声で花魁が言った。

 拳に肩を打たれたまま、真澄も嘘を返した。

 「俺もだよ。」




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